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都会で流行りの指輪を贈るよ
ちょっと失礼、とゴードンが腰を上げ、狭いミーティングルームを出たのが15分前。ぶっちゃけると、己はもうこの場にいる必要がない。マレイ多数党院内総務はすっかり、自らの地元へ駅が出来る前提で話を進めている。
「君には山ほど手伝って貰わなければならないことがある」並べ立てる美辞麗句の中へ、ハリーはとうとう紛れ込ませた。鉄道の敷設に伴い、このヤッピー崩れが長年目の敵にしている70年代の集合住宅は解体された後、新たな低所得者用住宅地になる。
「ようやく目が覚めてくれて嬉しいよ。過去の遺物は不要だ、警察の出動率も飛躍的に高いし、百害あって一利なし」
「いつかは誰かがやる必要があったからな」
古びたパイプ椅子から身を乗り出してまでそう語るハリーの瞳は、この話題へ食いつく気を奮い立たせようと必死になっている。
公式には閉鎖されているその集合住宅で、居住権を主張して居座っているうち、三分の一の居住者は生活保護か様々な年金の受給者。次の三分の一は勤勉だが傍観者効果を体現し、残りは家賃を払う気がない、それで建物の三分の二が埋まる──数学は得意なゴードンですら頭が痛くなる話題だった。
「残ってるのは……20世帯程だったか。告知から完全封鎖までの猶予は3ヶ月。もう1ヶ月切ったが、いけるな?」
「ああ、そこだけ市長権限で何とかしてくれれば、HUD(米国住宅都市開発省)については任せてくれ。2ヶ月ほど、近郊のモーテル6にでも放り込んでおけば、次に連中が戻ってきた時には新しい家が建ってるさ」
「確約してくれ。家賃を払った履歴が残っている世帯と、高齢者や義務教育就学児童がいる世帯について、半年間は絶対に立ち退きを命じないこと」
マレイは肩を竦め、濃い眉毛を下げて呆れたような笑みを浮かべた。
「私だって妥協は知ってる」
了承を確認し、ゴードンはようやく、先程からスーツのポケットで断続的にバイブレーションを続けるスマートフォンを取り出した。
待受画面に浮かび上がってきた写真は、テキストのツリーにアップロードされたものらしい。他にも幾つか浮き出たテキストは丸無視し、通話ボタンをタップする。
「何グダグダしてるんだ、とっとと決めろ」
「そんなサラダ用のドレッシングを選ぶんじゃないんだぞ」
廊下を突っ切りながら恫喝しても、ヴェラスコは全く堪えた様子もない。逆に恨みがましい口調でぶつぶつぼやいてみせる程だった。
「形だけとは言え……僕もモーも、こんなもの買うのは初めてな訳だし」
忠実なる広報担当官と秘書は、朝一番でわざわざシカゴへ車を飛ばし、ブルーミングデールズに無事辿り着いた、はず。写真にはあの有名な色の箱がきっちり映り込んでいたから。
男2人が連れ立ち結婚指輪を買いに行ったところで、今時誰も驚きはしない。モーがあの朴訥な口調で「俺は付き添いです、彼が結婚するので」と必死に弁明している姿が目に浮かぶし、その時行儀のいい販売員がどんな顔を浮かべているか、想像する分には楽しいが。
最初は送られる当の本人に決めさせるつもりだったが「そう言うのに拘りは無いから君達で適当に見繕ってくれ」と手を振られた。拘りが無いというか興味が無い、更に言えば関わりたく無いのだろう。
卸で安く手にいれてやると言うゴードンの意見を一蹴し、ヴェラスコはあくまでブランドものに執着する。神は細部に宿る、偽装結婚でも、市長の身分に相応な宝飾品を付けていなければならないという訳だ。
「でも、僕達じゃ選べない。もう暫くは独身の予定だったんだから……」
「モーは?」
「今から混ぜるよ。店員の攻勢にあって、目の前でサノスに指を鳴らされたみたいな顔のまま呆然としてる」
ぷつんとマイクが切り替わる音と共にざわめきが拡散されるのは、恐らく一旦店の外に避難しているからだろう。
「ほら、モー、しっかりしろよ」
「こう言うのは、一度経験してる人間の意見を聞いた方が良いので」
普段からコントラバスの音程で放たれるモーの話し口は、衝撃と逃避感情に支配されて滑舌まで鈍い。
「本当に、俺じゃ無理なんです」
「ヴェラを困らせるな、海兵隊のモットーは『常に忠誠を』だろ」
「さっき送った候補、見てくれた?」
スマートフォンから顔を離してテキストツリーを開く時、念の為ゴードンは辺りを見回して人の気配を確認した。
「そうな、このエメラルドが嵌ってる奴なんか良いんじゃないか。彼の瞳の色と同じだし」
「うわ、そういう事言っちゃうんだ」
心底気持ちが悪いと隠しもせずに、ヴェラスコは声を上擦らせた。
「前の奥さんの指輪も同じやり方で選んだ?」
「うるせえ。大体何でティファニーになんかいるんだよ、お前らいつからホリー・ゴライトリーになった」
「君じゃないんだ、市長に盗品の指輪なんか渡せるもんか」
「故買屋じゃない、卸だってのに」
どうしてこんな事でグダグダ悩んでいる。簡単だろう、結婚なんて。指輪を渡して終わり。オプションは毎晩の冷めたシチューと惰性のセックス、週末になれば2人で片付ける家事。ひっきりなしに耳を劈く子供の金切り声が無いだけ、彼らは随分楽だ。
「そんなに俺の意見が気に食わないなら、エルに聞けよ。あいつのセンスなら間違いない」
珍しく午前休を取っているエリオットを巻き込むのは申し訳ない。それこそ、こんな事も解決出来ないのかと呆れられてしまうだろう。発信音が鳴っている間憂鬱でならず、相当渋い顔をしていたはずだ。名前も知らない若い男性職員が、すれ違う時に怯えた風で首を竦めた。
まるでこのクソほどこんがらがっている回線に合流させられるのを拒絶していると言わんばかり。エリオットが応答するまで普段の1,5倍は時間が掛かったし、いざ電話に出た口調も、普段の滑らかさが増し増し、まるでバターのようにとろけている。
「寝てたのか、もう12時前だぜ」
「お陰様で、久しぶりに8時間睡眠を実践出来た気がするよ」
ざざっと走るノイズからして、彼も寝室から出たのだろう。コーヒーでも沸かしているのか、ケトルで湯の沸騰する烈しい音が声の後ろから迫ってくる。
「それで、マレイがごねたのか」
「そっちは順調だ。ヴェラ達が、結婚指輪を選びあぐねてる……欠伸したか?」
「本当に眠いんだ」
「今写真を送った」
ヴェラスコの言葉付きに元気が戻ってきたのは、もうすっかり責任を放棄しても許されると確信したからだろう。もう一度、ふわあ、と深々した吐息を溢しながら、エリオットは「どれどれ」と呟いた。
「ティファニー? 王道で行ったな」
「そんな高いもん、アホらしいと思うが……ゲイの男はこういう趣味が良いだろ、頼むよ」
「私は褒め言葉として受け取っておくが、それ、外では絶対に言うんじゃないぞ」
全くクールにエリオットは嗜め、同じ口調でしれっと心臓を一突きしてくる。
「大体君達、ハリーと寝た時点で全員完全な異性愛者じゃなくなってる。3人分集まれば、私の分の美的感覚を超えるんじゃないか?」
それきり、モーがバンシーのような声で嘆きを放っているのが遠くから聞こえる以外は、全員沈黙を貫く。
その時間を有効活用して、エリオットは決断を下す。
「2枚目の、一番シンプルなプラチナ」
「僕もそれが良いと思ってた」などと偉そうに抜かすヴェラスコを押し退けた時、ゴードンの声は難色を隠しきれていなかった。
「地味過ぎる」
「逆に、市長が余り派手なものを付けてるのはな。君のも、似たり寄ったりなデザインじゃないか」
指摘されて掲げた左手は何も装飾がない。今日は付けてくるの忘れてしまった──婿取り騒動以来、何だか安心感のようなものが芽生えている。つまり、油断だ。良い傾向だとはとても言えない。
最終的にエリオットは少し軟化し「君もお揃いで嵌めるんだから、君の好みで選べばいいじゃないか」とヴェラスコを諭す。さて、どうなることやら。回線から坊や達が消えたのを確認すれば、ようやく憚ることない含み笑いをぶつける事が出来る。
「あんた、本当は分かってた癖に。2Hの好みは緑だ」
公の場での内緒話に使われる暗号を耳にして、エリオットもまた、うんざりしきったような嘆息を溢した。
「そう言うお前は、随分優しいな」
「無理矢理毎日嵌めさせるんだ、好きなデザインだったら少しは気分も晴れる」
すっかりご機嫌な様子でこちらへ歩いてくるハリーへ視線を滑らせ、唇を歪める。
「俺がこの事態を面白がってると?」
「ああ。同情とサディズムは、ジョンとヨーコ並に相性がいい」
それってどうなんだと重ねる前に通話は終了したので、ゴードンは開口一番ハリーのエメラルドを見つめながら言った。
「エルは遅刻してくるかも知れませんよ。胃が凭れてるらしいから」
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