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雨に唄えば

 ハリーがやたらと勧めてくる中央通りのフードトラック。あそこのケバブサンドについて、チームの中では意見が二分していた。  肯定派、ハリーとゴードン。「あの値段であの量、十分満足できる」とゴードンはちょくちょくランチに購入している。  否定派、エリオットとヴェラスコ。「肉の量を減らしてくれと言ったら嫌そうな顔をされた」と、胃腸が余り丈夫ではないらしいエリオットの意見はさておき、ヴェラスコも難色を示したのは意外だった。「スパイスが薄くて肉に臭みが残ってる。野菜は萎びてるしピタパンも元気がない、ソースが一種類って言うのも、その変な自信がイラっとくる」と酷評を捲し立てられている。  結局、最終評決はモーへ委ねられることになった。前から気になっていたが、何となく行っていなかったから、良い機会だ。既に食べた者の共通見解によると「ソースがとにかく刺激的」だそうなので、このどんより肌寒い天気の日にはうってつけだろう。  魔の信号機が故障していることは予め聞き及んでいる。ぐるりと遠回りして反対のブロックから店へ向かった。5分ちょっとの道のりなのに、空を覆う雲は瞬く間に厚くなり、真珠色から鈍色へと変化している。  トラックの前に並ぶ10人ほどの列を見たときもうんざりしたが、途中でぽつぽつと額に雨粒がぶつかり始めたとなればもういけない。傘を持って来なかった己ではなく、急変した天気をモーは恨んだ。朝確認したスマートフォンの予報では曇りとあったのに。たかが通り雨だから許せと言うつもりだろうか。もしも自分が「書いてある内容は同じだから構わないだろう」とA4設定の書類をA3で出力して持って行ったら、ヴェラスコは間違いなく突っ返して再印刷を命じるに違いない。  たかが5分ちょっと。急げばその半分強で帰ることが出来る。あれよあれよと言う間に強まった雨足は、既にアスファルトを真っ黒に染め上げている。紙袋を抱え、モーは足早に、同じく昼食を求めて繰り出してきたオフィス街の人波をすり抜けた。 「モー、おーい、モデスティ・テート!」  呼びかけに気付いた時、既にその寂れた中華料理屋の軒下を5歩は通り過ぎていた。慌てて伏せていた視線を上げると、そこにはひらひら手を振り、ぴょんぴょん跳ねながらこちらの注意を惹こうと頑張っている、この街の市長がいた。 「市長、お食事ですか」 「久しぶりにここの炒麺が食べたくなったんだ。混んでるしテイクアウトにしたらこの様さ」 「市長権限で席を用意しろと言えば良かったのに」 「君、僕を何だと思ってる」 「傘が嫌いな市長ですね」  とは言うものの、今回ばかりは自らも同じ穴の狢。こっちへ入れと招き寄せられたものの、古びた赤いビニールの庇では、碌に雨を防げない。既に濡れている革靴の爪先をしげしげ見下ろし、それから空を仰いで「参ったな」と呟く隣の横顔を見て決心はつく。  脱いだ上着をばさりと頭から被せられ、ハリーはわあっと間の抜けた声を上げた。 「午後一番に都市開発局との会議です。もたもたしていたら、食べる時間が無くなります」  そのまま片手で服を掲げるようにして軒から歩き出せば「君が濡れるだろう」とくぐもった抗議の声が聞こえてくる。 「俺のスーツは、あなたのと違って安物ですから」 「そう言えば、この前渡したの、全然着てないな」 「あれは、普段使いには勿体無いので……」  記憶から蘇ってきた以前の情事の顛末に、思わず口籠ったのはモーだけ。もぞ、と一着350ドルのジャケットの下で身じろぐハリーは、間違いなく唇を尖らせていた。「ハンサムを自分の手で着飾らせるのが楽しいんだぞ」  ハンサムだなんて生まれてこの方言われたことが無い。が、以前ハリーが性交の後、酷く重要な秘密を打ち明けるような顔で「実を言うと、僕は面食いなんだ」と告白してくれたから、取り敢えず信じておくしかなかった。  そもそもハリー自身、とてもハンサムで魅力的だ……その手の嗜好を持つ人達にとっては、きっと。 「モー、前が見えない」  訴えかけられ、慌てて上着を持つ手を引き上げる。簾を掻き分けるように片手であわせを捲りながら、ハリーはさも癪に障ったような上目遣いを天に向けた。 「雨男なんだよ、僕。昔から遠足の時も試験の時も駄目だ」 「その考え方は、単に晴れの日のことを忘れてるだけだって言いますよ。余りにも当たり前過ぎるから」 「君がそんな講釈を垂れるとはな」  すっと顔を引っ込めざま、ハリーは皮肉っぽく鼻を鳴らした。 「まだ信号は故障してる?」  遠目に交差点を見る限り、修理中の立て看板は撤収されている最中だった。鬱憤を晴らそうと言わんばかりに、片道二車線道路を車がびゅんと駆け抜け、アスファルトの水溜まりを跳ね散らす。  俯いた頭により深く上着を被せ直し、対向してきたウーバーのロードバイクから遠ざけるよう、肩に腕を回して引き寄せる。 「迂回しましょう、念の為」  脇腹に押し当てられた熱い塊は炒麺の紙箱だろう。遠回りしたところで、これが冷めるまでに帰庁することは、十分可能に違いない。  中華料理屋の店主は自分が暮らす街の市長の顔を知ってか知らずか、ハリーへ普通の客と同じ態度を取った。だがぐるりと第二市庁舎を半周する道行だと、ちらほら声を掛けてくる人間が現れる。中には傘を貸そうと申し出てくれる者もいたが「もう目と鼻の先さ」とハリーは笑顔で手を振った。 「僕の支持率はまだまだ高い、そうだろう?」 「そうだと思います」 「早く駅の件を片付けたいな。採決に持ち込めば、こちらの勝ちだ」 「再来週までの辛抱ですよ」 「これだけでもどうにかなったら、結婚の話にも取り掛かれるし」  すっかり忘れていたが、この男には将来を誓った相手がいて、もう幾らもしないうちに身を固める。何なら自分は、婿候補の1人だった。  人妻か。いや、人夫? 正しい対義語は何だろう。モーは持ちうる貧弱な語彙をひっくり返した。幸いすぐに、自分が随分馬鹿げた方向へ思考の舵を切ろうとしている事に思い至れたが。  全く馬鹿げている。頭では理解しているし、未だ拒否感を拭い去ることは出来ない。けれどもう賽は投げられ、自分以外の誰もが、当たり前の如く決められた道を邁進しているように思えた。  腕の中の肩が弾み、ひたと自らとの間が詰められる。蒸し暑い服の中に閉じ込められているせいか、普段から高めなハリーの体温は、いつも以上に熱を持って感じた。 「君、高いフレグランスを使ってるな」 「はあ」 「前から思ってたんだが、いい匂いだ。紅茶系なんて洒落てる。どこのブランド?」 「名前は忘れましたが、妹が誕生日にくれたので」 「へえ。趣味のいい妹さん……この前メディアが張ってた時、ゴーディが今と同じやり方で隠してくれたんだが、彼は少し香水をつけ過ぎだと思わないか? あれはシャネルかな、多分。前に絶対どこかで嗅いだことがあるのに、思い出せなくて」  ふと、ハリーが自らに抱かれたがるのは──肉体を繋げるだけではなく、抱擁されると言う意味でも──この香水が一つの要因も知れないと、モーは思った。  もしもあのボトルを使い切り、違う製品に変えたらどうなるだろう。前の方が良かったと、ハリーは一言物申すだろうか。或いは、それも良いとまた褒めるだろうか。  何より、自らと同じ香水を使う人間が現れたら。彼はお気に入りの匂いへ無邪気に喜んで、誘いを掛けるだろうか。  誰かにとって、己の代わりが幾らでもいると思うこと程、孤独が募ることもそうそう無い。と言うか自らは何故、こんなにも寂寥感を覚えている?  選ばないなんて卑怯だと地団駄を踏む真似も、全てを選ぶなんて欲張り過ぎると臍を曲げて見せるのも、等しく愚かだった。それでも、思うのだ。自らはどこかで、背負った荷物の中へピンの抜けた手榴弾を紛れ込ませてしまい、知らずに歩いているのではないかと。  気付けば、本当に何もまともな解へ考え至らないうちに、市庁舎のエントラスへ辿り着いている。屈託なく脱ぎ捨てた上着を、ハリーはモーに差し出した。 「すまない、だいぶ濡れただろう。風邪を引くから着替えた方がいい」 「海兵は風邪をひきません」 「まるで自分が馬鹿みたいな言い方は止めろよ……ああ、それあそこのサンドだろ。美味いよな」 「今日初めて食べるんです」  ハリーが余りにも期待に満ちた目で見つめてくるので、結局エレベーターに乗っている間に、そのぐんにゃり冷めかけたケバブサンドを口へ運ぶ。酷い味だ。思わず顔を顰めながらも、美しい緑色の瞳と視線がかち合えば。何とか丸めたコピー用紙のような塊を飲み込み、モーは「ソースが刺激的ですね」と言わざるを得なかった。

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