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8:[キモイいのは 誰]【検索】

 最初は、キモいオタク野郎が来たと思った。 「えーっと、宮森さんですね。担当させて頂きます、高梨アオイです。よろしくお願いします」 「あっ、ハイ。ど、どうぞよろしくお願いします」  だって全身ジャージのモサ眼鏡男だったし。つーか、ここまで来るのにその格好で来たのか。ソレで電車に乗った?マジであり得ないでしょ。  しかもカルテの年齢を見たら三十五だし。希望部位が髭とVIOだし。マジでキモいと思った。まだ髭なら分かる。あと全身とか。でも、ドンピシャでVIOって書いてくる、明らかにオタクの童貞。しかもコース組まずの都度払い。  でも、逆に納得した。  最近、メンズ脱毛でVIOも大分と認知されてきたけど、まずやろうとすんのは清潔感とか、その辺を気にしてる意識高い系。  あとは「童貞」この二種類だ。  キモ過ぎ。  童貞は経験ない分、もしセックスして他人に見られるような状況に陥った時、自分の下半身がどう見られるのかやたらと気にする。気にし過ぎる。そこ、そんな考えるトコじゃねぇし。  ま、だから童貞なんだろうけど。 「えーっと、まずは髭の脱毛がご希望なんですね」 「あ、はい」 「面倒ですよね。朝のあの時間。あ、ちなみに俺もやってるんですよ」 「そ、そうなんですね」 「うちはレーザー脱毛なので、人によっては凄く痛い方もいらっしゃいます。あんまり痛い時は、麻酔クリームも使えるので今日の様子で次回考えましょうか」 「あっ、はい」  何で毎度毎度、会話の最初にドモるんだよ。なんだよ、その無駄な「あ、」は。なんで、常に左手を右腕で掴んでんだよ。なんでそんなにテンプレオタクルックなんだよ。  あぁ、クソ!マジでキモい!  コイツのVIOやんのかと思ったら、マジで具合が悪くなりそうだ。  しかし、モチロンおくびにも出さない。そりゃあそうだ。コイツはキモオタ童貞だが「客」だ。  この店はオーナーと俺で半分ずつ、共同出資をしてやっと開いた店。新店故に、まだ固有の客も少なく、周囲には競合他社が群雄割拠している。オープン直後のこの時期。  客は一人だって逃がすワケにはいかないのだ。 『アオイ、この客だけは逃すなよ』 『あいあい』  オーナーからも直々に言われてる。そう、コイツ。「宮森タロー」は逃しちゃならないタイプの客だ。  現状、宮森タローは「単発支払いコース」で「部位別」の申し込みになっている。それは、何かあったらすぐに通うのを辞められるという事だ。  脱毛は一回じゃ効果を実感出来ない。  にも関わらず、髭に関しては部位の特性上、人によっては痛みも凄まじい。しかも、次回の予約までに一カ月半以上開くと来たもんだ。それ故に、単発の客は十中八九、途中で通うのを辞める。  そんなの、店としては困るのだ。他の店に客を取られる可能性もある。下手すると「痛いだけで効果が薄い」なんてレビューに書き込まれかねない。  しかし、この単発支払いがあるからこそ、客に対する敷居が下げられるワケで……。  だから、カルテを取った段階で、俺に回された。俺はこういう客を「コース払い」に移行させる事が最優先事項なのである。  俺はこの店の「営業」担当だ。  だから俺は、キモオタ童貞野郎のコイツを本気で落としにかかった。 「あ、ソレ」 「あっ、ああっ!えっと、ソレは、その!ち、ち、ち、違くて!あの、お、おいっこに……貰って!」  鞄に付いていた、人気の萌え系アニメのキーホルダー。恥ずかしがるくらいなら付けて来んなよ。さすが、テンプレオタク。好きになる作品もザ・テンプレ。  ただ、こういうオタクはパターンさえ読めれば落とすのはさほど難しくない。 「俺も好きなんですよ。好きピ。コミックスも全巻持ってるんですよ?」  そう、俺が言った瞬間、ソイツの表情が一変した。 「す、す、好きなんですか!?」  ほら、チョロイ。  先程まで一切目を合わせてこなかった相手が、急に目を合わせてきた。しかも、その目をキラキラさせて。キモ。 「はい。面白いですよね。一見萌え系のアイドルモノかと思ったら、少年漫画みたいな熱いバトルもあるし、たまにミステリー風味な要素もあって、いつも展開にドキドキさせられて。でも、何より……」  俺は特に好きでも何でもない、接客の為の情報の一環として頭に入れているだけの情報を何の感慨もなくぺらぺらと話す。別にアニメじゃなくても、俺は一通りどんな話題にも付いて行けるように様々な情報を頭に叩き込んでいる。 「葵ちゃん、すっごい可愛いですよね?」 「っっっ!」  その会話で、俺は一気にソイツの懐に入った。あ、いや。入ったつーか、ガバガバ過ぎて気付いたら懐の中に入れられてた。いや、チョロ過ぎだろ。 「あ、あの。どうぞ」  お陰で、マジでいらねぇ美少女キーホルダーを貰ってしまった。死ぬ程捨てたい。ただ、本心をひた隠しにしながら、俺は自分の最大の武器である「笑顔」をうかべつつ貰ったキーホルダーをポケットにしまった。  あぁ、いらんゴミを貰った。  店じまいの後、ロッカールームでオタク野郎から貰ったキーホルダーを見て溜息を吐いた。 「マジでいらねぇ。捨ててぇっ……けど」  昨今、機械の発達のお陰で、脱毛の技術は施術者の腕によるものではなくなった。そりゃあ、多少の技術の差はあれど、きちんとした機械さえ導入できれば、誰がやっても、ある程度同じ成果が得られるようになったのだ。 「次は、これ付けてやるしかねぇな」  だから、脱毛サロンのスタッフは「人」で選んで貰うしかない。技術というアドバンテージで他の店と大きな差を付けられない以上。そうするより他ないのだ。 「……でも」 ——-っふ、うぇえぇっ。いだい。 「キモいけど……アイツ。なんか、オモロかったなぁ」  あの、年の割にどことなく幼く、そしてコロコロと変わる表情に、俺は貰ったキーホルダーを空中に投げた。  その時の自分の顔が自然と笑っている事に、この時の俺は気付いていなかった。         〇  宮森タローは、二回目ももちろんノコノコと現れた。  もちろんジャージで。しかも、前回と同じモノだった。多分俺が褒めてやったから“敢えて”だろう。キモ過ぎる。  でも、今日の俺も“敢えて”キモい事をしてやっているのでお互い様だ。 「宮森さーん」  俺が名前を呼んでやると、飼い主を見つけた犬のように此方に向かって駆け寄って来た。なんだよ、店に入って来た時は死ぬ程、受付相手にビビッてた癖に。たった一回ヤっただけで懐き過ぎだろ。……いや、今の言い方はキモかったな。  たった一回脱毛してやっただけで懐き過ぎだろ、キモ。 「あっ、あお……高梨さん。今日もどうぞよろしくお願いします」 「あはは。名前で呼んでくださって大丈夫ですよ」  しかも早速、名前呼びをしてこようとしてくる。これだからオタクの距離感はバクってて嫌いなんだよ。  そう思いながらも俺は名前呼びを許可してやる事にした。何故って、俺はどうしたって、コイツの契約を、単発からコースへ移動させなきゃならない。  まぁ、それも時間の問題だろう。  なにせ、コイツは前回。俺の勧めるがまま一番高い保湿クリームを買って行ったのだから。オタクはハマれば際限なく金を使う生き物。逃す手は無い。ハマらせて、どんどん金を使わせてやる。 「あ、ソレ」 「宮森さんに貰ったキーホルダー。あんまり可愛いので、ロッカーのカギに付けちゃいました」  死ぬ程ハズいのを我慢して、敢えてつけてやったキーホルダー。  それに対し、コイツはそりゃあもう最高に喜んだ。パッと目を見開いたかと思うと、そのままニヘと口元を緩ませ、顔全体で笑う。キモチワル。 「さ、タローさん。今日も一緒に頑張りましょう!」 「は、はい!」  完全に社交辞令でしか客を見てない俺に対し、コイツときたらどうしてこんなに真正面から相手の言葉をそのまま受け取れるのだろうか。バカなのか。大人なら、少しくらい相手の気持ちの裏を読もうとするモノだろうに。  それでなくても俺達の関係は「スタッフ」と「客」。この二者間で、交わされる言葉に本心なんてある筈もないのに。  その日、最高のチョロさでタローさんは単発支払いコースから全身脱毛コースの、この店で最も高いプランを契約していった。しかも、前回勧めた保湿クリームを、今回も買って帰ったらしい。 「アイツ、絶対バカだ」  まぁ、お陰でオーナーからは「お前スゲェな」とめちゃくちゃ絶賛されたからいいけど。  まだ新店で人手も足りないウチは、オーナーが受付も兼任している。確かに俺の前以外だとビクビクしてて、コミュニケーションどころじゃない。受付なんて、ドモり過ぎて何言ってるか分からない時があるらしい。 「当たり前じゃん。あんなんチョロいわ」 ——–わっ、わかるぅっ!  その事実に、俺は何故か妙に気分が良くなった。 「保湿クリーム……また買ったのか。まだ残ってんだろ、前の分が」  ロッカーでキモいキーホルダーを手にぼんやりと思った。 「どうりで、肌艶が良くなってると思った」  一回目に俺が「保湿」が大事、と言ってから本当に毎日クリームを塗っていたのだろう。施術前に触れた顔の肌質は、一回目に俺が触れた時より格段に良くなっていた。  しかし、それでも髭の脱毛は最強に痛かったらしく、施術後は眼鏡を取ってシクシクと泣いていた。  あぁ、オタクの涙とかキモ過ぎ。なんて思いながら、俺はタローさんの背中を死ぬ程優しく撫でてやる。 ——-ど、どうして。アオイさんは若くてイケメンなのに……その、好きピが好きなんですか?  頭の片隅で、タローさんが尋ねてきた。それに対し、俺はハッキリと答える。 「客を取る為だよ」  俺は、どんな話でも相手に合わせられるように興味の有無に関わらず、様々なモノを見るようにしている。いや、“見る”というより“情報収集”と言ってもいいだろう。  今日も、タローさんが来る事が分かっていた為「好きピ」のアニメを見直し、各話の感想をネットで漁った。こういうオタクは、制作会社やスタッフの事も気にしていたりする事が多いので、その辺も抜かりなく調べる。 ——うんうん! ——分かります! ——わっ、わかるぅっ。  そのお陰か、俺の話す内容全てにタローさんは最高の笑顔を見せて来た。 「いいねぇ。オタクは人生楽しそうで」  好きな作品一つでここまで他人に気を許せる。そして、あんなにも無邪気に笑える。俺は掌の上に転がる、瞳を輝かせる女の子のキーホルダーに、少しだけ羨ましさを覚えた。  俺に、あそこまで夢中になれるモノは……無い。         〇  そこから、タローさんは順調に脱毛の回数をこなしていった。 「アオイさん!」 「タローさん、こんにちは。最近暑いですねぇ」 「はい!」  脱毛三回目。俺は少し警戒していた。  営業活動の一環で、タローさんに対しては他の客よりは敢えてパーソナルスペースを狭くして接していたからだ。オタクはその辺の距離感を分からず、すぐ勘違いしてくる。客とあまりにも親密な関係になるのは、何に置いてもよろしくない。 ——あ、あの。どうぞ!  それが相手からの一方的な感情ともなれば、尚更だ。オタクから友達面されても困る。店の外で見かけて話しかけられでもしたら、それこそ堪ったもんじゃない。  キーホルダーがそうだったように、下手にいらんプレゼントを寄越され続けたらどう対応するべきか。  そう、地味に悩んでいたのだが――。  それは杞憂だった。 「ありがとうございました」 「はい、次も頑張りましょうね。タローさん」 「はい!」  タローさんは、聞き分けも物分かりも最高に良かった。俺の言った事に楽しそうに頷いたり、相槌を打つのが主で、オタクの癖に一方的に喋り散らかして予約時間をオーバーする事もない。  もちろん、施術中も大人しく指示に従う。髭以外の脱毛にも入ったが、やはり痛みがあるのか目をギュッと瞑って体を硬直させる姿は、どこか笑えるモノがあった。  そんなある日の事だ。 「なぁ、おい。高梨。コレ見てみろよ。この書き込み」 「ん?」  オーナーが面白そうに俺を呼んだ。  どうした?とパソコンの画面を覗き込んで見れば、そこには、この店に対する初めてコメント付きの評価が掲載されていた。 ———– Kotaroさん 雰囲気5/接客サービス5/技術・仕上がり5/メニュー料金5 お店のスタッフさんも凄く優しくて、最初は緊張して怖かったですが、すぐに慣れる事が出来ました! 此方の様子に凄く気を遣ってくれて、出来るだけ痛くないように、気がまぎれるように丁寧に施術をしてくださいます。いつも、「今日も一緒にがんばりましょうね」「次も頑張りましょうね」と声をかけてくれるのがとても嬉しいです^^ ———— 「コレ、絶対お前のあの客『タローさん』だろ。HNコタローだし」 「……だねぇ」  この店の初めてのレビューは、あの、タローさんからの書き込みだった。  しかも、コタローって。HNも安直過ぎでウケた。  文章の雰囲気も、最後に付けられた「^^」の顔文字も、何からなにまでその文章にはタローさんが滲み出ている。しかし、決定的なのは最後の一文。 「保育園児じゃあるまいし。他の客に『今日も一緒に頑張りましょうね』なんて言わねぇわ」 「まぁ、そうだろうな」  此方を見て同じく苦笑を漏らすオーナーに、俺は今日一日、ずっと気になっていた事を聞いてみた。 「なぁ、ブログのあふぇりえいとりんくって何か分かる?」 ——–アオイさんのブログとかでアフェリエイトリンクがあれば、そこから買います!  日焼け止めを勧めた時に、タローさんに言われた。  聞いた事はあるのだが、イマイチ分からない。何だろう、オタク用語だろうか。クソ、勉強不足だった。そんな俺に、オーナーは「あぁ」と納得したように、そのままパソコンの画面を指さした。 「ウチのサイトにも載せてる、ネット広告の事だよ。こうやって商品を紹介するブログを書いて、商品のリンクを張っとくとするじゃん」 「うん」 「そして、コレ見た誰かがこのリンクを経由して商品を買うと……」 ——–そしたら紹介料を、 「ウチに紹介料が入るワケか」 「そういうコト」  何だ、アイツ。ちょっとお勧めの日焼け止めを教えてやっただけで、俺にマジで金を払おうとしたのかよ。オタク、意味わかんね。 「なぁ。タローさん、今日もクリーム買って行った?」 「あぁ。毎回買っていくぞ、あの人。絶対家にまだ余ってると思うんだけどな」 「ふーん」  やっぱりか。俺がお勧めしてから毎回買って帰って、本当に律義なモノである。まぁ、店の売り上げになるからいいけど。 「……バカか。でも、そんなにあっても意味ねぇだろ」  そろそろ次回辺り買うのを止めさせた方が良いかもしれない。売上の為に客を潰すのは俺の性分に合わない。  俺が店内に置いてある商品の在庫を確認していると、再びオーナーが俺に声をかけてきた。 「あぁ、あとさ。そのタローさんの予約の曜日変わったから」 「は?担当替え希望じゃねぇだろうな」  その時の声が予想よりも遥かに低く、自分で自分に驚いてしまった。俺は一体何に機嫌を悪くなってんだ。 「いや、違ぇよ。担当はお前のまま。日曜の今の時間から、木曜の二時に変更だ」 「おい、それって……」  オーナーの口にしてきた日時に、俺はハッとした。その時間帯は、一週間で一番客の少ない時間帯である。 「一番予約の少ない日を教えてくださいって言って変えていったよ」 「……そっか」 「今日、お前が忙しそうだったから、気ぃ遣ったんだろ」  最近、店が認知されるようになってきて客が増えた。しかし、どうしたって土日に予約が集中してしまう。平日と休日で、客足がフラットになるなんて事は、まずあり得ない。対面型の業種には付き物の、頭の痛い問題だ。 「なーんか、タローさんって客っぽくないよな」  ポツリと呟いたオーナーの言葉に、俺は保湿クリームの在庫を一つ、手に取った。やっぱり、次は買うのを止めさせよう。 「……うん」 「最初、全身ジャージで来た時はヤベェ奴が来たと思ったけど……アタリ客で助かったよ」 「……うん」 「それに、お前も珍しく気に入ってるみたいだし」 「あ゛?別に気に入ってねぇし」  オーナーの面白がるような言葉に、俺は眉を顰めた。誰があんなオタク気に入るかよ。キモい事言ってんじゃねぇし。 しかし、そんな俺の思考を見透かすように、オーナーは再び笑った。 「なんだよ、わざわざ日焼け止めをロッカーから取って見せに来といて、よく言うぜ。施術時間を早く切り上げた分、もう少し話したかったんだろ?」 「っ!」  そんなワケあるか!と言い返そうとして、止めた。ここで何を言い返しても、意味が無い。  俺は客とは割り切った感情でしか付き合わないようにしている。踏み込み過ぎるとトラブルの元だ。施術には全力を尽くすが、それ以外はあくまで「施術スタッフ」と「客」に過ぎない。 「もう帰る」 「おう、お疲れ」  俺はロッカールームに向かうと、ポケットからロッカーのカギを取り出した。すると、未だに鍵に引っ付いている「好きピ」のキーホルダーに目を細めた。最初はタローさんが来る時以外はずしていたコレも、今やつけっぱなしだ。もうアニメも終わってしまったのに。 「外すか」  こんなの、ずっと付けていたら新しいスタッフにも、コレが俺の趣味だと思われかねない。しかし……。 「……でも、失くすと面倒だしな」  結局俺は、キーホルダーを外さなかった。  ずっと付けているせいで、髪の毛の部分に少し傷が入っている。しかし、その瞳は今日も変わらずキラキラと光り輝かせながら、俺の事を見ていた。この目は、夢中になれるモノがある人間の目だ。 ——アオイさん!  おかしい、なんだかこの好きピの葵がタローさんと被って見えて仕方がない。見た目は似ても似つかない三十半ばのオッサンの癖に。 「あー、キモ」  俺は小さく呟くと、自分の中にある「客」の範囲について目を逸らした。         〇  俺は誰もいない施術室で、明日の客の予定を確認していた。 ——– 12月15日(木) 14:00~ 宮森タロー ———  もう何度も確認した。  タローさんの施術は更に回数を重ねていき、次回の施術で七回目という所まで来ていた。春に始まった施術も、今や季節は冬。十二月である。 「七回か……」  いや、それでもたった七回。俺とタローさんは、一年間を通してまだ七回しか会った事がないのだ。 「いや、違う……」  つい最近、俺は初めて店の外でタローさんを見かけた。  仕事終わり。クリスマスを目前に控えた寒空の下。時刻は終電ギリギリの二十三時過ぎ。俺が友達と遊んで家に帰ろうとしている時だった。  俺は、オフィス街の一角でタローさんを見かけた。職場から出た所なのか、もちろんジャージではなくスーツ姿をしている。なんだか物珍しい。 『へぇ、こんな時間まで働いてんだ』  ジャージじゃない分、いくらかまともに見える。  もちろん声を掛けたりはしない。だって、外ではあの人は他人で、俺の人生とは関係のない人だ。そう、分かっている筈なのに、俺はしばらく、その場に立ち尽くしてタローさんの姿を眺めていた。  自分の中で、微かな期待感のような感情が見え隠れするのにソッと目を逸らしながら。すると、タローさんが顔を上げた。ドクリと心臓が跳ねる。 『っ!』  互いにハッキリと目が合う。タローさんの目は大きく見開かれ、キラリと光り輝くその瞳は、タローさんのくれた葵のキーホルダーそのままの姿だった。 ——アオイさん!  頭の中で、犬のように駆け寄ってくるタローさんの声が聞こえてくる。次いで現実でも同じような姿が見られると思っていたのだが。 『は?』  タローさんはすぐに俺から目を逸らすと、そのまま俺の方とは反対方向へと立ち去って行った。 『意味、わかんね』  呼吸が乱れる。今、明らかに目を逸らされた。あれは気付かなかったワケではない。此方に気付いたにも関わらず“敢えて”無視をした。そんな感じだ。心臓がうるさい。 『なに、無視してんだよ。オタクの癖に』  腹が立った。タローさんに無視された事が。  しかし、すぐに冷静になる。 『いや、何考えてんだ』  別にソレでいいじゃないか。話しかけられたら面倒だと思っていたのは此方の方だ。むしろ、ありがたい。しかし、そんな正当な理屈に、一切感情が付いて来ていない事に、俺は更に動揺した。 『……なんだよ、コレ』  ショックだった。  そう、隠しようもない程、俺は傷付いていた。  宮森タロー。お前は俺の事が好きで仕方なかった筈だろうが。俺にだけ懐いて、他じゃ上手くいっていない筈だ。オタクで童貞で、休日の昼間にダッセェ全身ジャージで電車に乗って脱毛サロンに通ってくるようなヤツだぞ。そんなキモいヤツが他のヤツと仲良くなれるワケがない。  お前に優しくするのは、お前が「客」ってアドバンテージを持てる「俺」くらいだ。 『……キモ』  十二月の深夜。  ツンと鼻の奥が痛む寒さの下で、体中を熱いナニかが満たす。その熱が何から発露するモノなのか、俺にはハッキリと理解できた。だからこそ、ショックで仕方がない。なにせ、その感情は客に向けるようなモノでは決してなかったからだ。 『マジで、ありえねぇ』  そう、それは圧倒的な“独占欲”だった。  俺は一体何をやっているんだろう。たかだか客一人の動向に一喜一憂して。  だから、俺は一度だけタローさんとは“外”で、目だけが“合って”いる。それを、一度“会った”という回数に必死で加える自分に吐き気がするが、もういい。  何も考えたくない。 「……明日はVIOの施術だ」  コイツのVIOをする事になるなんて、キモ過ぎだろ。  そう最初は思っていたのに、なんだかその時の俺は明日の予約を心待ちにしてしまっていた。  プランは『ハイジニーナ(無毛)』。  俺は、明日あの人の隠された全てに触れる。         〇 「ごめ、な、さい。あおい、さん」  今にも泣き出しそうなその声の主は、顔を真っ赤に染め上げ、体を震わせながら必死に俺の名前を呼んだ。  その姿は、そりゃあもう間抜けで、声を上げて笑いだしそうになる程滑稽極まりなかった。しかし、もちろんおくびにも出さない。優しく優しく声をかける。  あぁ、俺ってこんな声が出せたのか、と自分でも驚くほど優しい声だった。 「大丈夫ですよ、タローさん」 「っふぅ」  俺が優しく触れただけで緩く勃起し始めたタローさんのペニスは、施術中であるにも関わらず、その後もムクムクと反応していった。  どうせ他人に使った事なんて無いだろうソレは、先端は濃い桃色で、幹の部分は、必死に口を覆い隠している手首の部分より少し濃い肌色をしていた。さすが、未使用品は綺麗なモンだ。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」 「……っぁ」  気持ち良いのだろう。必死に声を抑えているにも関わらず、タローさんの口から声が漏れた。キモイわ。黙れよ、キモオタの喘ぎ声なんて聞きたくねぇし。  そんな思考とは裏腹に、いつもよりわざと、丁寧に、そしてゆっくりと触れる。俺の手の中で勃起するソレは、今にも弾けそうなほどピンと天井を向き、亀頭の先にはプクリと先走りを湛え始めた。そのうち、先端に納まり切らなくなった先走りが、裏筋の方へと垂れてくる。  暑い。額に汗が滲む。この部屋、少し暑い。暖房が効き過ぎているんじゃないだろうか。 「左を開きますよ。出来ますか?」 「は、い」  俺の手に、先走りの汁が付く。手袋をしているので直接触れているワケではない。あぁ、良かった。直接触れてたらキモくて作業に集中出来なかっただろう。  そう思っている筈なのに、一枚ゴムを隔てた先に感じる熱さと滑りに妙なもどかしさを感じた。直接触れたいなんて、決して思ってない。 「上手ですよ、タローさん」 「っはぁ」  熱を含んだ吐息が漏れる。  恥ずかしいのだろう。両腕で顔を隠してはいるものの、首筋から顔のラインにかけて真っ赤に染まっていた。足を開きながら曲げられた足の指が、時折ピクと俺の触れる動きに合わせて反応する。もう、ペニスからはタラタラととめどなく先走りが溢れていた。  ゴクリと、思わず口の中に溜まった唾液を呑み下す。 「……」  気付けば、俺は本能のままに手袋を外していた。何をしているんだ、俺は。そんな自分の声を無視し、俺はその勃起するペニスを裏筋からそっと先走りを掬うように指で撫で上げ、そして思う。  あぁ。この人の勃起した生のペニスに触ったのは、きっと俺が初めてだろう、と。 「つ、っあ――……!」  詰まったような嬌声と共に、タローさんの腰がヒクリと揺れ、俺の手にはベッタリと彼の精液が付いていた。ツンと鼻を突く独特の精液の匂いが施術室に広がる。  背中に、嫌な汗が流れた。 「……あ。うそ、だろ」  その言葉は、タローさんに向けられたモノではない。そう“俺”自身に向けられた、驚愕の言葉だった。  しかし、俺の口から漏れた言葉を、自分に向けられたモノだと勘違いしたタローさんは、その後、下半身を晒したまま、顔を真っ赤にして俺に謝罪を繰り返した。 「……っふぅ、うっ、うぇ」  いつもの俺なら、もっと上手くフォローできた。けれど、その時は出来なかった。そんな余裕欠片もなく、気が付けばタローさんは逃げるように施術室から出て行った。 「はぁっ……何やってんだ、俺」  タローさんを引き留める事も、追いかける事も出来ないまま、俺は頭を抱え、施術台に腰を下ろしていた。動けない筈だ。ああ、動ける筈もない。 「なんで、俺まで勃ってんだよ」  熱を鎮めようにも、頭の中を埋め尽くすタローさんの痴態はそれを許してはくれなかった。         〇 「は?キャンセル?」  それはどこか予想しうる事態だった。  パソコンで予約管理を行うオーナー相手に、俺は眉を顰めた。今朝、俺が予約の確認をした時までは、きちんと「予約」になっていた筈だ。 「ああ。いや、俺もさっき見たら予約が取り消しになってたんだよ。珍しいよな。あの人に限って」 「……」 「おい、タローさんと何かあったのか?」 「……別に」  オーナーからの問いなど、もう俺の耳には届いていなかった。  は?キモオタの癖に直前キャンセルって何だよ。そういうのが店にとっては一番迷惑なんだが。 「まぁ、何でもいいけどよ。客と揉めるのだけは勘弁だからな」 「……分かってる」  俺の様子に、オーナーもそれ以上詳しくは聞いてこなかったが、釘だけは刺された。客のキャンセルなんてよくある事なのに、俺は一体何をこんなに怒ってるのだろう。  その後、次の客の予約を淡々とこなした。しかし、腹の中の怒りの炎は消える事はなく、むしろ大きくなるばかりだった。 「わざわざ、俺が年賀状まで書いてやったのに」  待ってます。  そう、差出人の名前なんて書かずとも、お前なら分かるだろう。いつも俺の書くカルテの文字をチラチラと眺めて。「アオイさんの字、綺麗ですね」なんて言って。ずっとキモイと思ってたんだから。  タローさん、アンタは俺が好きなんだろ。  だって、俺はお前の推しの「アオイちゃん」と同じ名前だもんな、俺は。テメェのキモイ、オタ話にも付き合ってやれる。俺のお勧めしたモンは、バカみたいに何でも際限なく買おうとする。  アオイさん、アオイさんって。目をキラキラさせて。俺より十歳も年上の癖に、犬みたいに懐いてきて。俺の前で、ガキみたいにシクシク泣いて。 ——-つ、っあ――……!  俺の手で気持ち良さそうにイったじゃねぇか。  俺は少しだけ色褪せてきた「好きピ」の葵のキーホルダーに目を落とした。毎日使っているせいで、あれほど色鮮やかだった目の輝きも、今ではくすんでしまっている。  タローさんは俺が好きな筈だ。それは間違いない。だって俺はタローさんにとって――。 「俺は……ただの脱毛サロンの担当でしか……、ない」  口を吐いて出た言葉に、俺は目を見開いた。  あぁ、そうだ。その通りだ。俺は何度も何度も頭の中で言い聞かせてきた言葉に改めて思い至った。 「そうだった。俺とあの人は……ただの客と店員だ」  それ以上でも、それ以下でもない。それ以外の関係性もない。外ですれ違っても無視して差支えはなく、この店以外でのタローさんの顔も俺は知らない。タローさんにとって、俺は限りなく「他人」に近い人間でしかないのだ。 「……っはぁっ、もう。考えんのダリィわ」  その瞬間、俺は考えるのを止めた。 「じゃあ俺は……客に最後までサービスを提供できるようにしないと」  俺はロッカーのカギ穴に勢いよく鍵を通すと、少し早めに仕事を切り上げた。         〇  そこから俺は、店にある持ち運び可能な脱毛器を鞄に詰め、住所録でタローさんの自宅を確認した。そんな俺に、オーナーが「頼むから客とトラブんのだけは止めてくれよ」と、眉を顰めていたが、俺には何の事だかサッパリわからない。  だって俺は、「仕事熱心な従業員」として「仕事」をする為に「客」の元へと向かうのだ。むしろ雇い主として褒めて貰いたいモノだ。 「あー、時間外営業とか……マジでダリィわ」  けど仕方がない。俺以外じゃ、あんなキモオタ童貞の脱毛なんて無理だ。  だって、誰も頼んでもねぇのに、キモい萌えアニメのキーホルダーを寄越してくるし、脱毛の度にビービー泣くし、オッサンの癖に俺の顔を見たら駆け寄ってくるし、俺の勧めたモノは全部真似しようとするし、俺とゆっくり話したいからと言ってわざわざ客足の少ない時間に予約を入れてくるし。  終いには脱毛中に、勃起して射精までして……。  あぁ、キモイキモイ。マジで鳥肌立つわ。  でも仕方ない。アイツは「良客」だから。店の為には最後まできちんと通わせて、その間に、もっと色々と売りつけてやらねばならないのだ。  俺が出来るだけ良い顔をしてやって、また店の良い口コミを書いて貰って。あぁ、もしかしたらキモオタクの友達にも紹介してくれるかもしれないじゃないか。オタクは良い。バカみたいに金を使うから。良いカネヅルだ。 「っはぁ、気持ちワリィ」  あぁ、まったく。これだからサービス業は困る。立場上、店員は客の下手に出なきゃならない。そう、俺達接客業の人間はいつだって――。 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。 「はい!」 「こんばんは、タローさん」  「本音」を隠して「建前」ばっかり口にしなきゃならないのだから。 「俺、タローさんに会えるの、楽しみにしてたのに」 んなワケあるか。仕事で仕方なく来てんだよ、コッチは。 「あぁ。もう、タローさんって思ってる事が全部顔に出ますよね。ホント、かわい」 可愛いワケあるかよ、こんなキモオタの童貞が。 「エライね。ちゃんとツルツルだ」 キモ過ぎ、男のパイパンなんて見てらんねぇわ。 「ねぇ、どうして?俺、年賀状に『待ってます』って書いたのに」 社交辞令だし。つーか、なに早速勃起させてんだよ。さすが童貞。しかも、男の癖にあんあん喘ぎやがって、マジで最悪だわ。 「タローさん。ほんと、なんでそんな……可愛いの?」 何、今二月だろ。それなのに、なんでベッドの上から俺の書いた年賀状がすぐに出てくんだよ。気持ち悪過ぎだろ。まさかソレで、俺の事考えて抜いてたんじゃねぇだろうな。うわ、吐きそ。キモ過ぎ。 「泣いた顔が、ほんと可愛い」 三十過ぎのオッサンがビービー泣きやがって。フォローするコッチの身にもなれよ。 「そんなに施術中に射精するのが恥ずかしいなら、まずは先に全部出しとこうか?」 ったく、どこまで面倒見てやれば気が済むのか。でも仕方がない。「客」に最高のサービスを提供してこそプロだ。俺はプロだから、お客様の懸念は全て取り除いてやらなきゃならない。 「もう……タローさん、すぐ顔に出る」 少しは俺を見習って、本音を建て前で隠せるようになれよ。良い大人なんだからさ。 「可愛い、可愛い、可愛い、可愛い、可愛い、かわいいっ!」 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。あーー!気持ちわりぃっ!  そうやって、俺は心底気持ち悪いのを我慢して、タローさんが脱毛に専念出来るように、ケツに俺のちんこをぶち込んでやった。  涙と鼻水でグチャグチャの汚い顔を晒しながら、俺の腕の中でヒクヒクと体を揺らすタローさんは本当にキモくて。ただ、それでも俺が射精しないと、タローさんが気にすると思って、無理やりナカに出してやった。 「たろーさん……、毛の無いセックスは、どうだった?」 「……ひもち、ぃです」  こうやって、脱毛から得られるメリットを実地で教えてやれば、きっと続ける気になる筈だ。ここまでして客に満足度を与えて、やっと選んで貰う必要がある。まったく、給料に見合ってないにも程がある。  クソ、いつか絶対に転職してやる。 「だったら……最後まで、いっしょに頑張りましょうね?つぎの、予約、とっておきますから」 「は、い」  頷いたタローさんに、俺は頭の中の予約表を整理した。  面倒だが、タローさんの予約日の前日は、俺がこうして家に来て事前に射精させてやる必要がある。だとすると、俺が早く上がれる日が良いだろう。後で調整しないと。  すると、俺のペニスを咥え込んだまま、タローさんが掠れる声で俺を呼んだ。 「あ、おい……さ」 「ん?どうしました、タローさん」  俺は自分の口から出た、余りにも優しいその声色に耳を疑った。まったく、俺の演技力には脱帽するしかない。そう、俺が自分自身の演技力に感心している時だった。タローさんの口から、とんでもない言葉が飛び出してきた。 「……お、いくらですか」 「は?」 「しゅっちょう、の、だつもう……は、いくらでしょ、うか」  ぼんやりと此方を見上げてくる真っ黒い瞳。その目尻には処理の最中に幾重も零れた涙の跡がくっきりと見えた。  何故だろう。タローさんから金を要求させられた途端、俺は腹の底から、これまでにない程の怒りが湧き上がってくるのを感じた。 「……いりませんよ。お金なんて」 「へ?」 「最初にサービスだって……言ったでしょう!」 「っぁんあ!」  あぁっ、ムカツク!ムカツク!ムカツク!  俺は再び固く隆起し始めた自身で、タローさんのナカを激しく穿った。その瞬間、ビクンと背中を反らし嬌声を上げる彼を前に、俺はもう「本音」も「建て前」も、その全てを捨て去り、目の前の感情にだけ従った。  クソ、クソクソっ……!何でこんなキモオタ童貞が! 「……可愛く見えて仕方ないんだよっ!」 「~~~~っ!」  こんな事、仕事やサービスでするワケねぇだろうがっ!  これだから、恋愛経験の無いキモオタの童貞は嫌なんだよ!  その後、俺はタローさんが完全に気を失うまで、何度も何度も腰を振り続けた。

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