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手に入れられないもの

 どうしたんだろう? なんて人ごとのように考える。少し意外だった。鏡の中でも、今までも、とても寡黙な印象だった。常に冷静な人なのかと思ったが、こんな風に感情的に話すこともあるのか。そんなことをぼんやりと考えながら千晃を見つめた。 「……悪い。言いすぎた」 「…………」 「泣かせるつもりじゃなかった」 「……え?」  そう言われて顔に手を当ててみると、目尻に生温い感触がした。そこで、自分が泣いていることに気づいた。慌てて両手でごしごしと擦って涙を拭う。泣いたのなんていつぶりだろう。久しぶりすぎて、泣いていることをすぐに自覚できなかった。  気まずそうに(うつむ)いてしまった千晃に、笑顔を作って話しかけた。 「九条さん、気にしないで。九条さんの言うとおりだから。そうやって面と向かって言われたの初めてだったから、ちょっと、ガツンときただけだし」 「…………」 「……もう、全部言うな。俺、母親、大っ嫌いでさ。虐待されたし、放っておかれて飢え死にしそうになるし、女自体がダメになったし。ほんと、いいことなんてなくて、だから、諦めたんだよ」 「……何を?」 「人から好意を持たれることも、それを期待することも」 「…………」 「母親で懲りた。俺、中学入るぐらいまでは、母親にまだ期待してたと思う。なんだかんだ言っても、俺のこと大事にくれてるんじゃないかって。だけど、違ったし」  ここで一旦、言葉を止めて、コーヒーを一口飲んだ。缶を両手で持て遊びながら続ける。 「それで……自分に期待することも止めた」 「…………」 「期待しなかったら、人からも期待されないし、それに……絶対に手に入れられないものも諦められるから」  自分を卑下し続けたら。自分には手に入れる権利もないと思えるから。 「……聞いていいか?」 「何?」 「手に入れられないものって何?」 「…………」  今までこれほど自分のことをだれかに素直に話したことなどなかった。こんなに自分を(さら)したのも初めてだった。千晃に全てを話そうと思ったのは、出会った時から、彼はちゃんと誉を1人の人間として向き合ってくれていると感じたから。偏見や先入観なく。ありのままの自分を見てくれて、誤魔化さずに応えてくれる。だから、今さら隠す必要もない。 「……愛情、かな」 「…………」  千晃はしばらくじっと誉を見ていたが、やがて視線を逸らして、休憩所の窓越しから見えるジムの様子に目を向けた。夜のピークを越えたらしく、トレーニングエリアはそれほど混んでいない。千晃がそのまま口を開こうとしないので、誉も缶コーヒーを手の中で遊ばせながら黙っていた。

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