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身元引受け人 2

当時、母には彼氏がいたのもあって、自分がいては、母の生活を、邪魔をすることが躊躇われたこともあった。 僕は特待生として、大学に飛び級で入学しているのもあって、お金の面で、母には世話にはなっていない。 そこまでの負担をかけさせたくない気持ちも大きかった。今となっては、父に頼めば、それくらいの費用はだしてもらえたかもしれないが、その時の僕はには父親がの存在はないのも同然だった。 こんな時に限って、同居人のティティーは本命の教授と不倫旅行の真っ最中で、当分、帰ってくる予定はない。 教授の方は、学会兼研究と称して家を開けているので所在がわからないわけではないが、僕らの関係は、戸籍上身内でもなければ、恋人関係でもない。 あくまでも、家政婦と家主だ。 付け加えれば、今後は研究を一緒に続けていくためだけのパートナーではあるが、あの計算オタクは、呆れるほど家事が苦手だった。 片付けと料理の出来ない彼女の世話と、彼女の胃袋を満たすのが、僕の仕事だった。 バイトの報酬は割りが良かったので、続けていても苦にはならなかった。 幼い頃から、同じような家の中だったので、その延長線上にあるようなものだった。 床に転がっているのが、酒瓶か、本か、の差だったので、酒臭くない分、本の内容も楽しく、読み耽ることも多々あった。片付けに時間がかかったのは、それも含まれていた。 初めてあの部屋に踏み込んだ時は、どこのゴミ屋敷かと思うほどだったが、僕が数年をかけて片付けた賜物で、今では他人を呼べるくらいには、綺麗に整えられている。 何故、数年もかかったのか、というと、僕は二足、三足のわらじを履いていた。 もちろん、小学生、実家の家事、ティティーの家の家事、そして、彼女から教わる学校では教わらないレベルの理系に特化していたが、勉強を教えてもらっていた。 知識を増やして行くことは、とても楽しかった。両親共に優秀だったおかげで、勉強は一度教われば、それがどんどん蓄積されていった。 そのおかげで、今の研究が出来てきたわけで、この実験が成功し、ティティーが論文を仕上げて発表すれば、世界的に有名な物理学者として、名を上げることになるだろう。 自分は前に出て行くつもりもない。研究結果よりも、このアルビノの容姿について、あれこれ言われることが何より嫌だった。 ティティーが勉強を詰め込んでくれた、そのおかげで、今があることはわかっていたが、その生活から、新規一転することも必要なのかもしれない。今の時代はパソコンやスマホで世界中と繋がれる時代でもある。 近くにいなくても、補佐をするには困らない。困るのは、彼女の部屋の本と胃袋くらいだ。 「マシマ」はとても優秀な人材でもあった。 保険に入っていなかった莫大な金額の入院費を一気に精算し、アパートの修繕の手続き、引渡しに必要な時間等、その時に立ち会う為の人材の確保、僕の転居や大学への休学届け、 しなければならない手続きのすべてをすでに済ませて、揉めそうな案件についても、すでに話し合いで結論を出していて、僕の出る幕はほぼなかった。 退院の手続きの後、僕はティティーの部屋に行き、自分の洋服と筆記用具だけをかばんに詰め込んだ。他に必要なものなどなかった。 『突然のことで、申し訳ないけど、僕はこの部屋を出ます。たぶんニュースで、家の母親のしでかしたことは知ってるかもしれないけれど、母が亡くなりました。僕は父親に引き取られることになったので、日本に行きます。 また、落ち着いたら連絡を入れます。研究の資料は机の上に残していくので、なにか不明点があったら、確認してください。今、僕は声が出ないので、手紙でごめん。 こんな形で、出てゆくことをお許しください。今後の活躍を期待しています。 クリス                 』 置手紙を残し、部屋を出た。 「荷物はそれだけですか?」 そう尋ねる「マシマ」にコクリと頷く。大きめのカバンを用意したが、冬物がかさばってるくらいで、本当にそのかばん一つに僕のすべての荷物が収納されているのだ。それくらい、僕は持ち物が少なかった。あの部屋に残してきたのは、ティティーが買ってくれたベッドと机、それと研究途中の実験のデータ、そこまでの経緯を示した論文の一部、それだけだ。 そして、マシマに一枚のメモを渡した。 「どんな惨状でも構わないから母の最期の場所を見ておきたいから立ち寄ってくれないか?」 とお願いをして、実家のアパートメントに立ち寄ってもらった。事件性といえば、僕のことだけだったので、もう警官は配置されてはいないが、玄関前には立ち入り禁止のテープが張りつけられていた。 玄関のドアを開けてもらい、室内を見渡した。 母の飛び血は、想像以上の出血を伴ったと思われるそのダイニングルームを見て、一瞬固まった。 ほんの僅かに、何かを思い出したような、何かが聞こえたような気がしたが、刹那すぎて、すでに思い出せなかった。母が何かを言った気がしたのだ。それが思い出せない。 一歩、二歩、と歩み進んで、部屋を見渡し、乾いてどす黒くなった血まみれのダイニングを見て、僕は声もなく泣き崩れることしか出来なかった。

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