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過去の記憶を口にして
今まで私の痛みを誰にも言えなかった。だが貴方になら……と希望を抱いてしまうのは間違いだろうか
ある一人の男が山の中を駆けていた。外見は若武者のようであるが、ひとつ違うのはその男が赤き神気を纏っていることである。
あの子は何処に行った。男の顔には焦りが露になっていた。颯月にあの子を預ける条件に、桔梗は里から追い出され、そして俺はあの子との接触を禁じられた。あれから何年もあの子と会っていない。だが颯月が亡き今、あの子と顔を合わせても良い頃だろう。そう思った矢先、あの子は山で行方不明になった。
俺のせいだ。現在の主の言うことなど聞かず、安全な場所に連れていけば良かったのだ。たった一人の子供すら助けられぬなど十二天将の驚恐が聞いて呆れる。
男は舌打ちをひとつすると、一気に跳躍して高い木の枝に着地した。木の枝は重さを感じぬのか、僅かに揺れるのみである。男は感覚を研ぎ澄ませると、辺りを見回した。すると崖の方に霊力の気配がある。男は風の如く駆けるとその場所に辿り着いた。
霊力の爆発した残滓の地点には黒い液体の跡が残っている。恐らくこれは飛び散った血の跡だろう。黒い血の跡を辿っていくと、先程よりも深い崖の前まで来た。
「………そこまで我が子が憎いか、頭領よ」
闇のように深い崖を見つめる騰蛇の目に怒りが宿る。一か八か懸けてみるかと、騰蛇は崖から飛び降りた。
あの子は式を得たと知ってはいるが、もしその式があの子を助けてくれるならば……。そう願うしかない。
起き上がれるようになったものの、まだ万全ではない。起きたばかりの秋也は巫女が作った粥を食べることになった。空きっ腹に粥が染み渡り、何より自分で食べられるのがありがたい。
秋也が粥を食べていると、銀色の毛並みをした狼が現れた。何処かで見覚えがあるような……。秋也が古い記憶を思い出そうとしていると、狼が秋也に身体を擦り寄せて来た。
「お前……白 か……!?」
狼はわふっと吠えるとその場に伏せた。秋也は目を細めると、その狼の身体を撫でる。毛並みはなんともさわり心地が良い。
「白、久しいな。こんなに大きくなってるとは。あの時は夜萩と颯月様と……えっと……あれ?」
白を見つけたのは幼い頃。山で薬草を探している時に見つけたのだ。深い怪我をした白と友人の式神を重ねてしまって、白の看病をこっそり行った。白の看病に付き合ってくれたのは、颯月様と夜萩と誰か。だが誰だったのかを忘れてしまった。誰だったっけなと思っていると、影縄が濡らした手拭いを持ってきた。
「これで顔を拭いてください。後で龍神が顔を見せると仰っていましたよ」
「そうなのか。ありがとう」
影縄から受け取ると顔を拭く。顔を拭き終わり顔を上げると、複雑そうな顔で影縄が白を見下ろしていた。白は犬のように俺の膝に身体を乗せている。
何故影縄は不機嫌そうな顔をしているのだろうか。白の頭や腹を撫でていると、影縄の目が冷たくなったので理由が分かった。
「影縄、此方に来てみろ」
影縄が不審そうな顔をしながらも、私の傍に近寄って来た。私は白を撫でている腕とは反対の手を上げ、影縄の頭を撫でた。
「なっ……!?」
影縄は驚いて離れる。無理矢理するのもどうかと思ったので手を止めると、影縄は少しだけ残念そうな顔をした。
「影縄は撫でられるの嫌か?」
「別に……撫でようが撫でまいが私は知ったことではありませんが」
このまま続けて良いものだろうか。でも撫でられたそうに影縄がしていたし、拒まないなら構わないだろうか。私が迷ったが、影縄の頭を撫で続けた。頭を撫でられている間、影縄がほんの僅かではあるが頬を赤く染め口元が微笑んでいたことに秋也は気づくことなどなかった。
影縄をしばらく撫でてから、秋也が自分で髪を結おうとした。すると影縄は後ろに回って秋也の髪を梳かしていく。そして長さがばらばらの髪に鋏を入れた。
「……すいません。私のせいで髪が中途半端になってしまって」
「別に気にしてはいない。髪はいつでも伸びるから。それよりも、私は影縄が無事でいてくれて嬉しいよ」
どんな目に遭っても優しい人だ。龍神や巫女も優しい方だが……もし選ぶとしたら。影縄は秋也の髪を整えながらこれからのことを考えていた。
秋也は身嗜みを整えてから龍神の住まう宮に訪れた。龍神は神代の衣を身に纏い、いかにも神といった外見である。秋也は両手をついて神の前に伏せた。
「龍神様、この私めの命を救ってくださり感謝いたします」
「どういたしまして。それに感謝する必要などないよ。私はただ気紛れに助けただけだから」
龍神は目を細めて笑うと、青き扇をぱっと開いた。
「そういえば君の名前は」
みだりに信用できぬ者に名前を教えてはいけない。名前は己を象る重要な代物。だが、命を救ってもらった恩がある。ここで断る訳にはいかない。
「紅原……秋也です」
「秋也か。良い名だ。きっと名付け親は君に良き願いを込めたのだろうな」
その言葉に胸がちくりと痛む。秋也はしばし目を伏せた後、僅かに微笑んだ。
「有り難うございます」
もう死ぬまであの人に会うことはないだろう。それでも、あの人がこの名前に込めてくれた願いは消えることはない。どうしてそれを忘れてしまっていたのだろう。秋也の脳裏には、優しげに笑う颯月の顔が浮かんだ。
「それで、本題に入るけど。君、前に出てきてくれるかな。秋也君は少し後ろに下がってね」
龍神に言われるままに、後ろに下がる。代わりに前に出てきた影縄は固い表情をしていた。龍神は口端を上げて影縄を見据える。
「元国津の眷属たる黒き蛇よ。その子との繋がりを断ちて我が配下に下るか否か。心は決まったか」
龍神の言葉に、秋也の鼓動がどくんと跳ねた。
影縄は目を伏せて考える。己の今後を考えるならば龍神の配下となるのが正しい選択だろう。人は欲深く、寿命は短い。だが……
「申し訳ございません。貴方様のお誘いはとても有り難きものでした。ですが……私の主は秋也様のみだと決めたのです。龍神様のお誘いを断る無礼をお許しください」
「影縄………」
小僧の震える声が背後から聞こえる。影縄はその声に振り向かなかった。龍神は真顔で私を見ていたが、諦めたように笑った。
「だから言ったでしょう。貴方には振り向かないでしょうと」
「うん、巫女の言った通りだな。無理強いなどするつもりなど無かったから構わないよ」
口ではそう言うものの、龍神はどこか残念そうである。そして龍神は気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。
「秋也君、まだ万全ではないだろうし、今日はもう休みなさい。あと、君にお願い事があるから明日また此処に来るといい」
「承知いたしました」
小僧の凛とした声が背後に響く。その声に僅かに嬉しさが混じっていたのは、気のせいだろうか。影縄が後ろを振り向きたくなったが、龍神にそっぽを向くのは失礼なので断念した。
「影縄、本当に龍神様の誘いを断って良かったのか」
「別に後悔などしておりませんよ。……それよりも、貴方は、私が元国津神の眷属であることに驚かないのですね」
すると小僧は頷いた。
「何となくただの妖ではないと分かっていた。それに、影縄の過去なんて気にしない。今此処にいる影縄が私の知る全てなのだから」
小僧の温かい手が私の手を握る。そのぬくもりを言葉に表す術などなくて影縄は溢れる感情を押さえるように唇を噛んだ。本当に小僧は私の過去を知ろうが私を受け入れてくれるのか。そして今のように暖かく私に接してくれるのか。それが知りたくなった。
夜になれば、外界と同様に暗くなる宮。神域に敷き詰められた石は玻璃の如く美しい。秋也は影縄と同じ来客用の建物に移ると、庭を歩いていた。空を見上げれば水面の天井を通して月の光が落ち行く。星も漆に金砂を散りばめたように輝いて見える。ずっとこのまま見ていたい。溜め息が出てしまう程の美しさに、秋也は心を奪われそうになった。
「昔は星が好きだったなあ……」
鬼祓いも陰陽師の如く星を見る。それもあるが、父親に寒空の下に締め出された時の慰めは星空を見ることであった。なのに、最近は星といえば天文道。星の美しさなど見る余裕など無かったのだ。こうして鬼祓いという組織から離れたことで、余裕が生まれたのだろうか。秋也は仰向けになると、静かに星空を見上げていた。
「主、もうそろそろ寝ませんと身体に毒ですよ」
星空をどれ程見上げていたことか。声のする方を見ると、影縄が傍で正座していた。
「何だろうな。ずっと寝ていたせいか、寝つけなくて」
龍神は早く休むように仰ったので寝たが、目が覚めてしまったのだ。別に寝なくていいのだが、影縄は少し不満そうだ。
「寝ることが貴方にとっての薬ですよ。貴方はまだ万全ではないのですから」
影縄は窘めるように言った後、複雑そうな顔をした。
「影縄、どうした。悲しいことでもあったのか?」
何故か分からぬが、そんな問いが口を突いて出た。
影縄は瞠目する。まるで自分の心に気づいていないかのように。私は起き上がって影縄の顔を見ようとするが、影縄はしなやかな指で私の目元を覆って起き上がらせないようにした。
「影縄、何を……」
「謀叛を起こすつもりはございませんので、ご心配なく。ただ貴方に顔を見られたくなかったもので。……どうして貴方は、私のことに対して目敏いのでしょうかね………」
影縄は溜め息を吐いた。白い指は冷たくて心地が好い。女人のしなやかさとは違うが、美しいと思うのは何故だろうか。
「仕方無いですね。寝物語につまらない話でもしましょう。それなら寝られると思いますが」
「つまらない話とは……?」
「私の過去ですよ。それを聞いても私を式神のままにしておきたいのなら、貴方が頭領になるまでではなく、生涯貴方に仕えると御約束しましょう」
まさか影縄が自分の口から話してくれるとは。彼を知るための好機を逃す訳にはいかない。
「分かった。話してくれ」
「………っ。承知しました」
影縄にとって過去の話をするのは辛いことであろう。私だって過去のことなど思い出したくもないし、話すのは嫌だ。それを私に話してくれるのだ。私も受け入れる必要がある。秋也は心を静かにして影縄の話に耳を傾けた。
「私は国津神の眷属として神を守る一族の家に生まれました。ただし、私は一族の中でも異端の者でした」
「何故、異端なのだ? 黒き蛇など居ないわけではないだろう」
すると影縄は自嘲するように笑った。
「私の一族は神の眷属であるゆえ、神の似姿である白き身体として生まれるのですよ。こんな醜い姿と違ってね。なので私が卵から孵ったばかりの頃、両親は乳母に私を殺せと命じたそうです。ですが、その乳母は私を殺すことが出来ず、私を連れて乳母の夫と共に逃げました。その乳母と夫が私の育ての両親です」
まるで自分と似た境遇だと秋也は思った。産まれただけで罪と断じられること。それよりも理不尽なことなど無いと思う。
「乳母の夫妻は人里離れた山奥で、私を普通の人の子のように育てました。狩猟の方法や学問など様々なことを教わりましたよ……。正直に申しますと、あの頃に戻れるのならば戻りたいと今でも思います」
「影縄の育ての親は、影縄に愛情を注いでくださったのだな」
「ええ……そうですね。返しきれないほどの恩をいただきました」
影縄は懐かしむように応えた。
「私が貴方様程の年の頃でしょうか。……一族の追っ手に私達の住処が見つかってしまいました」
周囲の空気が影縄の妖気によって急に冷えた。
「私が食料として弓で射た兎を持って帰った時、家から血の臭いがしました。すぐに部屋に駆け込むと、……両親が殺されていました。そして……実兄が私が弟のように慕っていた育ての両親の子を半殺しにした上、踏みつけておりました。そして私は実兄に持ち掛けられました。育ての両親の子の命を惜しく思うならば、一族の元に戻れと」
「どういうことだ? 影縄の一族にとって異端だったよな」
「そうですよ。ですが、その当時は武士や人外を狩って日銭を稼ぐ野蛮な人間どもによって私の一族の里が襲撃に遭ったそうです。被害は甚大で神を守る者が半分以上不足。それによって一族の血を引く私を連れていこうとしたのです。異端な私を必要としたのは猫の手でも借りたいというものでしょうね。そして……私の在処を教えたのは、よりにもよって一族が崇めていた国津神でした」
影縄の手に力がこもる。まるで神に憎悪でも向けるかのように。私が影縄の手の上に己の手をそっと重ねると、影縄の手から力が抜けた。
「私は勿論承諾しましたよ。両親を殺した実兄を殺したいという気持ちはありましたが、弟の命の方が優先です。それ故、憎悪を押し殺して自分が本来生まれた一族の里へと戻ることになりました。それから神の身の回りの世話係として、神の住まう社に幽閉されました。数少ない同胞から、何度も虐げられましたよ。それでも務めに励めば弟に会わせてくれるという実兄の言葉に騙され、弟に一目会いたいと思って働きました。ですが……一度も会うことなく、里に戻って10年目に弟は里を守る最前線に立たされ死にました。その報せを聞いた時、私の心は一度死にました」
ぱたぱたと音がするのは雨が降ってきたのか。それとも……。秋也は黙ってその音を聞いていた。
「それからはただ数百年を無為に過ごしておりました。死にたくなりましたが、それでは両親と弟の死が無駄となるだけです。かといって反抗する気力もありませんでした。……私には何処にも帰る場所など無かったので、自分にとって仇である神に仕えておりました。その神から逃げたのは百年程昔のことです」
百年程昔といえば、戦乱に明け暮れていた時代か。人だけでなく、多くの生きとし生ける者が犠牲になったと聞いたことがある。
「再び外法師から大規模な襲撃を受けました。そして今度は神が重傷を負いました」
秋也ははっと息を飲んだ。戦乱の世、秋也の家で奉られる神は重傷を負い、それを助けた先祖が加護を受けることとなった。つまり、死に追いやられた神が存在したということになるのだ。影縄の一族の神もまさか………。
「一族の中でも権威を持っていた実兄は私を贄にして神の命を救おうとしました。私は別に良いと思いました。どうせ生きていても幸せになどなれないと思っていたのですから。ですが私を贄とする前夜……神から逃げろと告げられました」
「どういうことだ? 神とて己の生が恋しかろう」
「恋していたと……男神に告げられたんです。今まで縛って悪かった。何気なく血の道を辿って私の姿を霊視したときに一目惚れしたと。そして……天涯孤独にすれば私が神に盲信すると思い、一族の血を引く者を取り戻すには丁度良い機会として、実兄にあんな仕打ちをさせたそうです」
影縄は苦しそうにふふっと笑った。
「ですが私はあの方のことが嫌いだった。殺してしまいたいほど憎かった。それを知っていた神は、最後の最後に私を手離したんです。そして私は瀕死の神に背を向けて逃げ出した愚か者。この咎が消えることはないでしょう。どうですか? 私が嫌になりましたか?」
自嘲するように影縄の笑う声がする。私は目元を覆っている影縄の手を払うと、影縄を見上げた。
「嫌いだとは思わないよ。人間風情がと思うかもしれないけれど、身内を殺される悲しみや憎しみも、実の両親に見捨てられる気持ちも痛いほど分かる。それに……影縄は私の為に涙を流してくれただろ。過去がどうだろうが、私はそれで十分だ」
自分の為に涙を溢す相手がいることが、どんなに嬉しかったことか。それを言葉に全部表すことが出来ない。影縄は俯いて苦しそうな顔をしたかと思うと、姿が陰に溶けて大蛇の姿に変わった。目の前に大きな蛇の頭が現れる。
『こんな醜い姿を見ても、まだそんなことが言えますか』
脅しているつもりなのだろうか。別に怖いとは思えないのだがと、私は影縄の顔に触れた。
「怖くないよ。影縄、本性だと漆塗りみたいに綺麗な鱗なんだな」
大蛇の瞳から滴が流れ落ちる。蛇の姿で泣くとは思っていなかった。妖蛇だから涙を流せるのだろうか。私は影縄の涙を拭う為に、起き上がって大蛇の身体に寄り添った。
「影縄、そんなに泣いては目が腫れてしまう。どうか泣き止んでくれ」
「誰のせいで……こんなに泣いていると思っているのですか」
気づけば人間の姿に戻って顔を覆っている。そんな影縄を落ち着かせるために、影縄の背を擦った。颯月様のように、誰かの心を癒すことなど出来ないだろう。それでも影縄の涙を止めたくて、影縄が泣き止むまで寄り添った。
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