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許したるは互いの心

心を許して足並み揃えた。そして、何かを忘れたことに気づいた  気がつくといつの間にか眠っていたようで、既に朝であった。そういえば影縄はどこに……。布団から身体を起こすと、冷たい空気が身体を撫で肌が粟立つ。 「寒い………」  あれから影縄が私を運んでくれたのだろうか。では礼を言った方が良いだろう。立ち上がって障子を明けると、冷気でひやりとして顔をしかめたが庭の景色を見た途端、言葉を失った。  視界に広がるは朝焼けを帯びてきらきらと輝く庭の木々と石。月光を帯びて輝く姿も美しかったが、朝もそれに負けない程の景色である。 「龍神って風情に理解があるのだな……」  里で教えられる龍神の情報は、冷酷で無慈悲な存在ということぐらいである。だが実際のところは、因縁の相手である蛇神の加護を受ける家系の私を助けてくれるほど慈悲がある。………いや、私を助けたのは影縄目当ての為という可能性が低くないのだが。  じゃりと裸足で庭に降りてみると、冷たい石の感触が足に伝わった。さてこれからどうしようか。家に帰ったとて録なことがない。正直言ってしまえば逃げたい。育て親は死に、親も兄貴分も私を冷遇し続ける。  今までは耐えてきたが、自分には守りたい相手がいる。今のところ守られるばかりだけれど、彼のことも守りたい。別にこれが恋心という訳ではないけれど、嫁も子供も成すなんて高望みをしない代わりに彼とともに少しでも穏やかな日々を得たいのだ。……それすらも高望みであろうか。秋也は一人苦笑する。 「主様、お身体が冷えてしまいますよ」  背後から影縄の柔らかな声がした。振り向けば、今までとは違い優しく微笑む彼がいる。何があったのだろう。秋也が首を傾げると、影縄は秋也の肩に羽織を掛けた。 「ほらもうこんなに指が冷えてる。それに裸足ではないですか。中に入ってくださいな」  急に優しくされると戸惑ってしまう。それに……こんなに近いと鼓動が五月蝿くなってしまう。どうしたのだろうか。何か変な食べ物でも食べたのだろうか。  とりあえず大人しく部屋に入ると、影縄は茶器を扱い始めた。何をするのだろう。しばらく影縄を見ていると、湯飲みを差し出された。 「これでも飲んで身体を温かくなさいませ」  茶かと内心呟いた。茶などあまり飲んだことがなくて、飲んだとしても安物で苦く冷めた物ばかり。初めて飲んだときは、桔梗の薬湯よりはましだがあまり飲みたくないとは思った。影縄の好意はありがたいが、飲んで大丈夫なのだろうか。恐る恐る受け取ってから、少し息で冷ます。そして一口飲み込んでみた。 「……………美味しい」  茶はこんなに美味しい物だったのだろうか。それに温かくて冷えた身体に染み渡る。茶をあっという間に飲み終えると、影縄は嬉しそうな顔をしていた。 「影縄、ありがとう。もう一杯貰ってもいいか」 「勿論ですよ。主様」  影縄は微笑んで受け取ると、もう一杯注いでくれた。美味しいのは影縄の淹れ方が上手いのか、それとも優しさが籠っているからなのか。秋也は味わうようにゆっくりと二杯目の茶を飲んだ。  その後朝食を食べてから、身嗜みを整えていると、突然影縄が私の目の前に片膝を着いてかしずいた。 「影縄どうしたんだ。急に畏まらなくても……」  次代なので表面上はかしづかれたことがあるが、こう突然それも影縄にされると困惑してしまう。 「いいえ。改まって貴方に忠義を表したくてしているまでですよ」  影縄は顔をあげると、真面目な顔つきになった。 「主様……紅原秋也。まだまだ未熟で青二才な貴方様ですが、貴方様に生涯仕えると誓いましょう」  忠誠を誓うと言っている割には、少し酷い文言があったような気がする。だが、実際その通りなので腹は立たなかった。むしろ、生涯の忠誠を捧げるという言葉が信じられなくて、ただ影縄を見るしかなかった。 「本当に……いいのか? 私が死ぬまで人間と共にいることになるんだぞ。それにお前が言う通り、私は未熟者だ。下手すれば、外道に落ちることもあるかもしれない」  すると、影縄は私の手を握って首を横に振った。 「いいえ、貴方は外道に堕ちませんよ。もしそうなったとしても、私が堕とさせません」  何故、会ってそれほど経っていない私を信じてくれるのだろう。それほど慕われることなどした覚えは無かった筈だが、影縄の言葉が嬉しかった。 「……ああ、ありがとう」  他にも色々感謝を述べたかったが、目の奥が熱くてそれしか言葉に出来なかった。  主従の契りを交わした後、龍神の宮に訪れる。そこで龍神から依頼を受けた。 「本当は、霊脈に異常が無いか調べて欲しかったのだが……。秋也、此処から君が出ると不味い状況になっているので、別のことを頼むことにした。とりあえず今日は、巫女の宮と清めの泉に結界を張ってくれ。外法師の馬鹿どもが、巫女に指一本触れぬようにね」 「仰せのままに。ところで龍神様、私が此処から出ると不味い状況とは……?」  すると龍神は苦虫を噛んだような顔をした。龍神の美麗な顔が険しく、言おうか言うまいかと迷っているようだったが、やがて口を開いた。 「君の家って………あの晴明が従えた十二天将のあやつがいるだろ……」 「え? ああ、そうらしいですね。会ったことはございませんが」  初代様が土御門から譲り受けた式神がいるらしいとは聞いたことがあるが、一切会ったことがない。 驚恐というからには恐ろしい姿をしているのかと桔梗に訊いたら、桔梗は酷く驚いた顔をしていた。何故、あんな顔をしていたのだろうか。 「あやつが此処の結界の周りを探っている。あやつはたしか君の父親の式神。そして君の父親は君を嫌っている。あやつは強い。結界から出れば消し炭にされると考えられる。君が黒蛇……いや影縄君か。彼と共に生きていたいと願うならば決して此処から出てはいけないよ」 「………はい」  龍神の言葉は重く、此方を心配しているのが痛いほど伝わってきた。その一方で、あの天将が本当に私を傷つけると何故か考えられなかった。彼は占でも悪い事象を示す存在だ。なのに…… 「主様、如何なさいました」  気がつくと、影縄は不安そうな顔で此方を見つめていた。 「……何でもない。大丈夫」  青い顔の秋也は、影縄に心配をかけぬように微笑を作って見せた。  その頃、夜萩は桔梗の仕事を手伝う代わりに居候になっていた。本当はあの山から下りるつもりが無かったのだが、健吾に、里ではなく桔梗に匿ってもらえと言われたのである。 「………秋也、何処にいるんですかね」 「死んでないことは確かだろ? ならば戻ってくるさ」  桔梗はごりごりと薬の材料を磨り潰す。その音は普段よりも大きく、もどかしさを材料を潰すことにぶつけているようであった。 「頭領が秋也の部屋の私物を捨てさせるように命じたけど、みんな部屋に張られた結界に弾き飛ばされたらしいですよ。あの結界は術者が死ねば、途端に解呪されるもの。……掴めている手掛かりは、生きているということだけです」  秋也は部屋に入られることを一番嫌っていた。以前一度部屋を荒らされ、仕事道具を台無しにされたことに堪忍袋の緒が切れて、留守中に頭領すらも寄せ付けぬ強力な結界を張ったのである。うっかり俺も結界に触れたことがあるが、弾き飛ばされて痛いことこの上無かった。 「それにしてももう数ヶ月ですよ。どうやってあの状態で生きていると確信すればいいんでしょうか」 「もしかして異界に連れていかれたとかあるかもしれないよ。例えば、天狗達や仙人、神の領域とか。それならば浦島太郎の如く、数日のつもりが数ヶ月、あるいは数年とかあり得ると思う。問題は誰に異界に連れていかれたのかだけど……」  考え込む桔梗の腕が止まる。生きているという確信以外は何もない。無事であるのかすらどうかも。下手をすれば化物に食われて、魂だけが消化されていないという可能性もある。 「あの子は無事さ。………絶対に」  桔梗は己に言い聞かせるように呟いた。  そういえば神域というものは人界と時間の流れが違うと颯月様に聞いたのを思い出した。 「巫女殿、私が連れ込まれてからどのくらい経ったのでしょうか」  巫女殿は顎に手をやった。 「そうですね………。少なくとも外は今春の気配が見え始めている頃かと」  もうそんなに経ったかと思ったが、大して驚きはしなかった。ただ桔梗や夜萩を心配させてしまっているだろうなと申し訳なく思った。 「秋也殿。私は千年以上は此処にいるので分かりませんが、貴方は人界が恋しいですか?」  巫女の問いに秋也は首を振った。 「いいえ。長い間、生まれた罪によって虐げられておりましたので、恋しくはないですね。私の崇める神に失礼ですが、しばらく此処に下男としてでもいいので匿って欲しい程です。ですが、それではいけないと思っています。私は生きるために、父を頭領の座から引き摺り下ろさねばならないのですから」  黙って秋也の話を聞いていた巫女だったが、不意に秋也の頭を撫でた。 「貴方は強いのですね。幼き名を捨てたばかりだというのに。でも強がりはいけませんよ。それではいつか心が死んでしまう」  自分とあまり変わらぬ年頃の娘に見えるが、どことなく雰囲気が桔梗に似ていると思ってしまうのは長く生きた人だからだろうか。 「大丈夫ですよ。影縄と出会う前は危うい状態だったでしょう。ですが、私は影縄に出会ったことで救われたんです。影縄が傍に居てくれる限り、私の心は死にません」  救ったつもりが、救われたのは私だった。彼と共に生きていたい。明日の朝日を共に見たい。頭領を負かす勝算などまだ無いが、生きたいと思える理由を得た。 「影縄殿は貴方の言葉を聞いたら、さぞ喜ぶでしょうね」  巫女は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。  影縄は秋也が神域の要所に結界を張っていくのを見ていた。霊符に反閇(へんばい)などありとあらゆる方法を用いる様は見ていて飽きない。霊力の量から凡人だと思っていたが、結界に触れてみてその強固さから、主が中々の力量を持ち合わせていると気づく。 「主様は、結界を張るのが得意なのですか」 「どうなのだろうな。自分でも分からない。私は陰陽の術よりも、体術の方が得意だとは思っているのだが……」  それは確かに言えている気がする。狼の如く軽やかに駆ける姿の方が彼らしい。 「では、一度手合わせをしてみますか?」 「いいのか?影縄が良いのなら是非相手になってほしいが」  私は軽く頷いて見せる。 「ええ、鍛練の相手としては力不足かもしれませぬがお相手になりましょう。主様」  私は主と広い場所に来ると、手合わせを始めた。  何度手合わせをしたことか。主の体術の力量が人の割には中々のものでつい熱くなってしまい、気づけば主は仰向けに寝っ転がってぜいぜいと息をしていた。 「どこが……力不足なんだ……。はあっ……ぁ……影縄、私より……強いじゃないか……」 「それはそうですよ。私は人ではないのですから」  それだけではなく、かつては野山で狩りをし、あの神の護衛が出来るようにと長年体術を身につけさせられたので当然の結果であろう。主は悔しそうな顔をした。 「次は絶対影縄に勝ってやる」 「主様、いつでもお相手いたしますよ」  主の手を掴むと、主は私の手を掴み返して起き上がる。そして互いに笑い合って、この日の手合わせは終わった。このように清々しくて気持ちのよい手合わせはいつ以来であろう。影縄はこの時がいつまでも続くならと思ってしまうほど、手合わせを楽しんでいた。  夕方になり食事を済ませると、巫女の話し相手となり数刻話し込んでいた。そして寝屋へと戻ると、主がまた夜空を見上げていた。星は術者にとって未来を示すものだそうだが、その横顔がどこか辛そうで、私は主に話し掛ける。 「主様。今日はお疲れでしょうし、もうお眠りください」 「う……うん」  主は頷くが、痛みを抱えたような顔をしている。目覚めてからか、大分喜怒哀楽が顔に出ているのは喜ばしいが、そんな顔をするのを見るのはこちらも辛くなってくる。私は主の身体を胸の前で抱えると、部屋へと運んだ。 「ちょっと……恥ずかしい…」  主様は羞恥で顔を赤くするが、知らないふりをして寝かせる。 「暖かくして眠ってください。明日のことは明日考えましょう」  布団の上から主の細い身体を抱き締めて、その背を撫でる。主は黙ってすがりつくように私の胸元に顔を埋める。背を軽く叩いて寝かしつけると、四半刻後にすうすうと眠ってしまった。まだ子供同然の主。この人の痛みを癒せるのならば、癒して差し上げたい。  次の日になってようやく、山の霊脈に不具合が無いかの確認の為に外に出ることになった。巫女が仰ったようにもう春も近いというように感じる。山の地図を手渡され、印の場所に向かうというものだが、何せ山はそこそこに広く、印の数も多いので数日かかりそうである。迷わないかと龍神に問うと龍神は狼を付けるので問題なかろうと仰るだけであった。  そのような訳で秋也、影縄、そして狼の二人一匹で山を歩き回る。秋也が印の場所に着くと、片手片膝を着いて目を瞑り霊脈と同調する。異常があるか確認するまでに時間がかかるので秋也を守るように狼と影縄が囲んでいた。  正直に言ってしまえば、主の霊力は火行なので向いていない訳ではないが、土行である私の方が適任なのではないか。そう言いそうになったが、霊脈との同調などあまりしたことがないので私のような者が口出しするべきではないだろう。  狼は飼い慣らされた犬のように大人しく主を見守っている。狼をちらりと見ると、狼は私を見返した。そしてぽつぽつと歩くと、私の足元に伏せた。 「まさか撫でろというのか」  狼は無言で頷くので、撫でてやると随分と触り心地が良い。目線を合わせて見ると、頬を舐められた。 「うわっ………」  思わず声が出そうになったが、主の妨害となりかねないので手で声を押さえる。主に目を戻すと、主は同調を終えてこちらに向かって目を細めて笑った。  調べた印の内、殆んどに邪気があったようでそばに埋められていた呪具の破壊や野垂れ死にしたであろう旅人の白骨死体の埋葬と浄化などを主が行い、私はその手伝いをした。夕方になる頃には印の半分程を調べ終え、狼に案内されるままに龍神の社に戻ることにした。 「主様は死体に躊躇なく触れましたが、怖くはないのですか」   主は首を立てに振ったが、険しい顔をする。 「ああ、今までに同胞の死は何度も経験したからな。それに骨となった死体など蛆や蝿がたかっていないから綺麗なものだぞ。……まあ、出来れば骨でも死体など見たくないのだが」 「そうですよね。私も同胞に恨み辛みあれど同じ生き物の死は見たくないですね。特に酒に漬けたあれなど」 「蛇酒など飲むのは私の一族では禁忌だ。それに私は影縄が嫌がることなどしないよ」 「ありがとうございます。主様」  龍神の社のある泉が目の前に見えてきた時、突然狼が唸りを上げる。何事かと思った時、背筋に寒気が走った。何だこの神気は。同時に主が素早く印を結んで凛とした声で何かを唱えると、私を伏せさせる。 『隠行の術をかけたが見つかるかもしれない。影縄、動くな』  主の焦った声が頭に響いた。  十も数えぬ内に突然空から降ってきたように男が降り立った。鎧を纏っているのに素足という不自然な格好。白い肌に映える炎のように透き通った赤みがかった色に金色が混ざった長い髪を神気にたなびかせている。金色の瞳には苛立ちを浮かべていた。   肌を刺すような火行の神気。そして龍神が仰っていた安倍晴明が従えたとされる十二天将。  もしや……驚恐の騰蛇(とうだ)か。影縄の頬に嫌な汗が伝った。 「まだ霊気は残っている……ならば近くにいるか」  騰蛇は不機嫌さを隠すことなく周囲を見回している。もし見つかればどうなるのであろうか。私の腕を掴む主の指が微かに震えており、主も恐怖を感じているのだと伝わってきた。主を横目で見ると、騰蛇を真っ直ぐ見据える主は、唇を噛み締めて恐怖を押し殺している。視線を騰蛇に戻した時、私は恐ろしい眼光に射ぬかれた。 「っ………!」  思わず声を上げそうになるも、何とか唇を押さえて耐える。視線を外せば殺されるかもしれない。そんな恐ろしい直感が過った。 『我の領域で何をしている』  その時、蒼く凄烈な神気が降ってきたかと思うと、騰蛇と私達を挟むように龍神が舞い降りた。騰蛇が龍神を敵意の籠った表情で睨みつける。 「貴様か。蛍火を隠したのは、さっさとあの子を出せ」 「蛍火? そんな奴は知らぬ。我が匿っているのは秋也という子供だが」  騰蛇の神気が焔の如く赤みを帯びる。 「貴様……何故なにゆえあの子を隠した! あの子は無事なのか!」  龍神は真正面から騰蛇の神気を浴びているというのに、平然と冷たい顔で睥睨するだけであった。 「返してどうする。また死に追いやるというのか?あの子供の背中の傷の如く」 「っ……」  その時、恐ろしいと思っていた表情が陰った。 「それに、おぬしは『あの子』と言っているが、あの子供は、貴様とは一度も会ったことがないという顔をしていたぞ」  龍神の言葉に、騰蛇は信じられないという顔をした。その表情はどこか痛々しく、騰蛇への恐怖が薄れる。 「そんな筈は………! 俺はあの子と数年程会っていないが、忘れる筈などない……。いや……まさか……」  声を震わせて今にも崩れそうな騰蛇を、氷のような目で龍神は見据える。 「まさかおぬし、保護者面をしてあの子供を焼き殺すつもりではあるまいな。一度救うた命を無下に出来るほど、我は無慈悲ではないぞ」    龍神の神気が段々冷たくなっていき、周囲に氷礫が舞う。 「今日はとく()ね。あの子供に話してみるが、あの子供が了承すれば後日会わせてやる。ただし、あの子供が拒めばそうさなあ……どうせお前の主は要らぬのであろう? ならば……我が貰ってやろう。巫女を守るものとしては使えるからなあ」  嘲笑するように笑う龍神を、騰蛇はぎりっと睨んだが、諦めたように帰っていく。それを眺めていると、ぱんと乾いた音が響いた。 「さあ立ちなさい。もう奴は帰っていったよ」  龍神はいつもの柔らかい声を掛けてくる。私が青ざめた顔の主を立ち上がらせていると、龍神は主の前に立った。 「秋也、君は以前に騰蛇に会ったことがある?」  主は苦しそうな顔で首を横に振った。 「会った記憶はございません。……なのに、懐かしい気がしたんです。どういうことなのでしょう」  主は今にも泣きそうな顔をする。龍神は目を細めると、主を優しく抱き締めて頭を撫でる。私はただ震える主の手を握ることしか出来なかった。  龍神に休むように言われ、秋也は文机に突っ伏してぼんやりと灯りを見ていた。 「大丈夫ですか主様」 「ありがとう、大丈夫」  影縄が羽織を掛けてくれたので礼を言う。影縄は腰を下ろすと、心配そうな顔をしていた。 「主様、本当は騰蛇に嫌な思い出があるのではないですか? 私で良ければお聞きしますが」  影縄の気遣いは有り難いが、彼の予想は外れている。私は首を横に振った。 「違う………本当に何も彼との思い出は無い。そして……私には妙に思い出せない記憶がある」  今までそれをただ忘れているだけだと思ってた。だが特定の人物だけ抜けたように思い出せないとは異常にも程がある。 「理由は分からない。もしかして思い出せない相手は騰蛇ではないのかもしれない」  五行大義という陰陽道の書物によると、十二天将騰蛇は驚恐を司るという。確かに騰蛇の神気は恐ろしかった。もし目を合わせたら殺されると思った。 『それに、おぬしは『あの子』と言っているが、あの子供は貴様とは一度も会ったことがないという顔をしていたぞ』  龍神のあの言葉を聞いた騰蛇の反応を見て、何故だか罪悪感で胸がいっぱいになった。龍神は真実の筈だ。私は騰蛇と会話をしたことがないのに、その事実に違和感を覚えてしまう。  自問自答しても埒が明かない気がする。顔をあげると、影縄に問うてみた。 「影縄は騰蛇にどんな印象を抱いた?」  影縄は目を閉じて考え込むような仕草をすると、やがて目を開けた。 「そうですね。正直に言いますと、恐ろしいという感情が先に抱きました。見目は美しいのでしょうが、苛烈な神気の恐ろしさで、台無しになっていますね」  客観的な意見を淡々と述べていく。確かにそうなのだ。彼は恐ろしい。なのにそれを否定したい自分がいる。 「ですが……彼が何度も口にしていた『あの子』が主様だというならば、彼に大切に思われていたと考えていいのではないのでしょうか」  あの時、怒りを露にする騰蛇に焦りがあった気がした。もし『あの子』が私だとしたら、桔梗や颯月以外にも……私を大切にしてくれた人がいたという事になる。そんな霞を掴むような希望を抱くのは愚かだと知っている。それでも 「影縄……一度騰蛇と話をしてみた方がいいだろうか」  影縄は目を細めると、私を後ろから抱き締めた。 「主様がそう思われるならば、私は寄り添うだけです。……もし何があっても私は貴方をお守りいたします」 「影縄……ありがとう……」  今は影縄の優しさが胸に染み渡る。私はそっと影縄の手の甲に己の手を重ねた。  次の日、龍神に呼ばれた。きっと昨日の事であろう。 「秋也、君はあやつに会いたいと思うかい?」 「はい。一度会って話をせねばと思います。最悪の場合、刃を交える覚悟も出来ております」  龍神はただ困ったように笑った。

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