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飛び立つ前の一波乱

 そうやすやすと雛が巣を飛び立つことが許されようか  朝になってから寝床にしていた屋敷の掃除を済ませ、龍神の神域を出ることにした。 「龍神様と巫女様、ありがとうございました」 「主様と私を保護してくださりありがとうございました。この恩は必ずお返しします」  主の言葉に続いて、頭を下げる。巫女は優しく微笑みを此方に向けた。 「いいえ、久々楽しかったですし。ねえ我が主」 「そうだな。客人は久々だった。だがもうこんな所に来るような目に遭わないように」  本来、神域で匿ってもらうことなど無いことなのだ今回は様々な幸運が重なり、匿ってもらうことが出来ただけ。二度目は無いだろうと影縄は確信していた。 「はい」  主が真っ直ぐ視線を向けて返事をすると、龍神は笑う。瞬く間に私と主の周囲を龍神の神気が囲むと、視界が青白い光に包まれた。 「さらば、紅原の子よ。君が正しく道を進めるように祈っているよ」  その声と共に、視界が見えなくなった。  気づいたら神域の外にいた。桜は既に葉桜となり、人界での年月の経過の早さを実感する。影縄が木々を眺めていると、背後の木の後ろに気配を感じた。 『俺は我が神の元から離れられぬ。影縄と名付けられた蛇よ、その子を頼んだ』  それは聞き慣れぬ男の声。だがそれが誰の声か影縄は分かっていた。 「勿論ですとも」  影縄が頷くと、その声の主がふっと笑った気がする。 「影縄行こうか」 「はい」  主に呼ばれ、影縄は一歩足を踏み出した。  秋也と影縄を見送った巫女は不安そうな顔を浮かべた。 「本当に送り出して良かったのですかね……? 嫌な予感がするのですが」  不安な巫女とは反対に龍神は笑うばかり。そんな主の様子に巫女はむっと睨んだ。 「そんなに睨むなよ。大体、蒼宮の人達以外への干渉は、あんまり良くないんだよ。それにあの者達なら大丈夫さ」 「どうしてです?」 「人間は意外としぶといんだよ。それに二人とも死相はなかった。我々が今後出来るのは、鏡越しに見守る程度さ」  巫女に龍神は微笑むと視線を神域の門に向ける。人の子よ、死なないように踏ん張るといい。龍神は胸中でそう呟いた。  あれから本当に生きているのだろうか。井戸の水を汲みながら、夜萩は溜め息をついていた。死なれては困る。だってあいつは俺の友なのだ。理不尽な恨みを抱いていたのは事実。それを直接ぶつけられなかったのは、寝食を共にし笑い合った友だから。傷つけたくなかったからだ。 「秋也……どうしているんだろう」  ぽつりと呟く。その時、知っている気配が背後にある気がした。 「夜萩、久しぶり」  懐かしい声音に振り返る。そこには微笑みを浮かべた秋也と秋也の式神の影縄が立っていた。 「秋也……なのか……?」 「当たり前だろ。私以外なら誰だと言うんだ」  鼻の奥がつんとして、目から生温かいものが頬を伝う。夜萩は衝動のまま秋也に抱きついた。秋也は困惑しながらも、泣き出す友を抱き締めて再会を喜んでいた。  夜萩と再会の抱擁を交わしてから桔梗の長屋に入る。 「久しぶり、桔梗……」  桔梗は大きく目を見開いた後、呆れたように笑う。立ち上がって此方に歩み寄ると、指で額を弾いた。突然の痛みに私は額を押さえて呻く。 「痛っ……」 「痛いじゃないよ。全く三ヶ月以上も心配をかけて……何処にいたんだか」  久しぶりに聞く桔梗の声に安心する。心配をしてくれる人が影縄以外にもいたのだ。それを思い出せなかったのは、今まで悲しみに目が曇っていたからに他ならない。 「龍神様に匿って貰ってた。そして、これから土御門の元で陰陽の術を学ぶ為に、京に行くことにしたんだ」  途端に、桔梗の顔から笑みが消えた。桔梗は何かを一瞬言いかけたが、溜め息をついて考え込む仕草に入る。 「それだけだと話についていけない。秋也、詳しく聞かせてくれるとありがたいんだけど」 「ああ、分かった」  振り返ると優しい眼差しで私を見下ろす影縄。影縄の手を引いて家に上がることにした。龍神と巫女のことや土御門の元で学ぶ許しを得られたことは話すつもりだ。しかし影縄の過去のことは誰にも話さないつもりだ。これは影縄が私だけに打ち明けてくれたことだから。影縄が他の誰かに打ち明けたいと思えるまでこの胸に秘めていよう。秋也は目を瞑って口元に穏やかな笑みを浮かべた。  秋也と影縄から一通りの話を聞いた夜萩と桔梗は、ただ目を丸くするばかりであった。 「で、秋也は土御門に行くんだな」 「そのつもりだ。頭領に打ち勝つ為には最善な方法であろう。夜萩はどうする。ついて来るか?」 「うーん」  夜萩は呻いて目を閉じる。やがて目を開けると、困ったように苦笑した。 「俺はいいや。帰ってきた時にお前の居場所が無いと困るだろ? それに親父の墓を放ってはおけないし……」  秋也はずきりと胸が痛んだ。どうしようか。死にかけた時に川の側であったと言おうか。だがそんなことをしては、いけない気がして口をつぐんだ。 「もしもの時は夜萩は私が匿うからいいさ。私は天狐だから頭領より強いし」 「ならば桔梗に任せる。私が頭領になった暁には里に戻れるようにしよう」  元々私のせいで、桔梗は里を追い出されたのだ。連れ戻すのは必然のことであろう。 「期待しているよ。……それよりも、影縄と随分仲良くなったんだね。それに秋也、お前も笑えるようになってるし」  影縄と顔を見合わせると、思わず笑みが溢れてしまった。そういえば桔梗の元にいたときは、まだ心を開いてくれなかったのだ。それが随分昔のことに思えてしまう。 「色々あったんだ。なあ、影縄」 「はい、主様」  桔梗と夜萩に見えないように私と影縄は手を繋ぐ。影縄の指先は冷たいというのに、何故だか温かく感じた。  それから昼間は桔梗の手伝いをし、夕方に夕食を食べながら話をした。 「一度里に戻って色々道具や銭など取りに帰りたいのだが……難しそうな気がする」 「それはそうだろ。お前を憎んでいる。あの頭領のことだ。止めたほうがいいと私は思うね」  それもそうだ。それならば諦めた方がいいか。でも道中の金銭や着替えが無いのは不安だ。食事など別に我慢できるが、身嗜みがあまりに酷いと第一印象としては良くない。 「ならば秋也、俺が取ってこようか?」 「いいのか? いや、待ち伏せされている可能性が高いから、無茶はしないのが得策だろう」  あの頭領の元に土御門からの文が既に渡っているだろう。夜萩を人質にして、私を京に行かせぬようにしかねない。なるべく、誰も里に入れぬほうが良いだろう。 「桔梗……すまないが金銭を貸してくれないか? いや、本当に金の貸し借りはしたくないんだが」    金銭の貸し借りは殺生の次に避けたい行為なのだが、他に借りれる相手がいない。どう返されるか不安だったが、桔梗はあっさりと頷いた。 「本当に良いのか!? 金をそんな簡単に……」 「いいよ。どうせ沢山銭はあるし。だけど出世払いで返しなさい」  桔梗は棚から金の入った布袋を取り出すと、目の前に置いた。ずっしりと重そうなそれに秋也は目を見開く。確かに桔梗は式神であるものの、賃金を百年以上貰っているし、城下での稼ぎは良いそうだ。 「そんなに多くなくても……」 「念のためだよ。お前のことだから杞憂なことだけど、無駄遣いは駄目だからね」  秋也は躊躇しそうになったが、それを丁重に貰った。 「ありがとう。……必ず、頭領になってから返してみせる」 「ならば気長に待つとしよう」  桔梗はにこりと笑った。  その夜、横になってはいたが妙な胸騒ぎに眠れずにいた。 『主様、如何なされました』  私の影に潜り休息を取っている影縄の声が、頭に響く。桔梗と夜萩は寝息を立てており、少し寂しかったのでその声に安心した。 『嫌な胸騒ぎがしてな』 『術師の直感というものは、当たりやすいものと聞きます。明日は用心されたほうが良いかと』 『そうだな……』  だが眠りにつかねば明日十全に動けない。秋也は深く呼吸をして無理矢理眠ろうとしたが、それから一刻以上眠れなかった。  その次の日、意識が覚醒するとどうも外が煩い。秋也は目を擦りながら起き上がった。 「影縄……おはよう……。ところで何で外が騒がしいか分かるか……?」 「どうやら武士の屋敷が襲われたらしいですよ。瓦版の男の声からするに『あおみや』という弓の名手の学者の家が……」  あおみや……蒼宮……!? 秋也の眠気は一気に吹き飛んだ。その名前は因縁ある家系であり……親友である零こと蒼宮零月の家だ。とにかく着替えて本当のことか確かめねば。秋也が立ち上がったその時、戸の隙間から飛び込んで来た雀の式文が、秋也の頭を直撃した。 「いっ……つ……う」  頭の痛みにふらふらしながら、文に戻った式文を開く。 「秋也、お久しぶりです。中々貴方から返事が来ないので不安なのですが、私と銀雪はこの文が届く頃には戻ってくるつもりです。貴方が息災であることを祈ってます」  そういえば零がその式神である妖狐の銀雪と恋仲になったという報告以降の文は貰っていない。恐らく、私が龍神様の神域にいる間は、届かなかったのだろう。友人が幸せになって一年も経たない内にこんなことが起こるとは……。秋也は急いで着替えると城下の門まで駆け出した。  秋也は走りながら城下に式の烏を飛ばし、烏と聴覚を共有する。すると事の詳細が段々理解できた。蒼宮の屋敷が襲撃に遭い、零の父は重傷を負ったこと。そして零の母親は亡くなったことである。秋也は悔しげに唇を噛む。  そして城下の門に辿り着くと、零と銀雪の姿が見えてきた。 「零────!!」 私 が叫ぶと二人は此方に視線を向けた。二人の怪訝そうな表情からするに、まだこの事は知らないようだ。幸せな二人にこの事を伝えて良いものか。躊躇いそうになったが、瓦版や野次馬から事実を突きつけられるよりはと伝えることにした。 「お前の家が何者かに襲われた」 「え………………!?」 「おい、秋也!! それはどういうことだ」  瞠目する零と、今にも胸ぐらを掴み掛かりそうな銀雪。罪悪感が込み上げる。声が震えそうになりながらも続けた。 「分からない……しかし奥方と当主が襲われ、当主が重傷で……奥方はもう」 「母……上……が……?」  零の顔が一気に蒼白になると、突き飛ばす勢いで走り出す。鬼祓いも顔負けの早さで駆ける零を銀雪が追いかけた。二人をただ見送っていた秋也は、膝をついた。紅原と蒼宮は犬猿の仲。追いかけたくても、私はきっと門前払いされるだろう。どうか烏が聞いたことがただの噂であれば。そう願う他に出来ることなど無い。無力さに唇を噛むと鉄の味が滲んだ。  噂が本当だと烏が伝えると、秋也はとぼとぼと肩を落として桔梗の元に向かう。気がつくと影縄が隣にいて、私を追いかけて来ていたのだと気づいた。 「主様……あの二人が主様の友人なのですか」 「ああ……あの青い髪の青年が零月、そして銀色の髪の男が銀雪だ。……本当は影縄を紹介したかったのだがな。こうなってしまっては、当分無理そうだ」  本当は茶屋で零に影縄を紹介したかった。そして零や銀雪と他愛ない話をしたかった。……いや、どの面を下げて会うというのか。胸騒ぎの理由を占じていれば、零の両親は死ななかったかもしれないのに。己の無力さと自分のことばかりしか考えられていなかった事実に、秋也は悔しくなってくる。 「私のせいだ。私が……胸騒ぎを気のせいだと判断しなければ……」  目頭が熱くて仕方がない。泣きそうになるのを堪えながら目元を覆うと、影縄は私をそっと引き寄せた。 「貴方のせいなどではありません。悪いのはご友人の両親を殺めた者のみです」 「しかし……! 私が……昨夜に……私が気づいていれば……」 「全てを救うことなど神にも仏にも出来ませんよ。それに過去はいくら悔やもうが、変えられませぬ。貴方が出来るのは、ご友人に寄り添うことではないかと」  影縄の言葉が厳しくも温かく心に沁みゆく。秋也は顔を手で覆うと、影縄の腕の中で肩を震わせるのであった。  最近、やけに涙が出ることが増えた気がする。秋也は落ち着くと、影縄の方を見た。 「影縄……そろそろ戻ろうか」 「はい、主様……っ」  突然私の前に影縄が立つ。何事かと顔を上げると、肉の裂ける音がする。そして……刃物が貫通した影縄の腕からぽたりぽたりと血が流れ、私の顔を濡らした。 「影……縄……?」  影縄に刺さっているのは鬼祓いが使用する投擲用の得物だ。どうしてこんな昼間に。ぽたりぽたりと血が顔に落ちる度に、秋也は身体が冷えていく心地がした。 「ぐ……っ……ぅ」  苦痛に歪む影縄の顔。額には脂汗をかいていた。どうしよう。早く抜かなくては。しかし抜いてしまえば止血しないといけない。その為の霊符など持っていなくて、秋也は影縄の後ろに視線を向けようとした。 「まだくたばっていなかったか穀潰し」  その声音が耳に届いた途端、秋也の瞳が凍りつく。聞きたくなかった声。その顔を見たくなどなかったのに視界に入り、秋也は恐怖に震えそうになった。 「頭……領……」  ぽつりと呟くと冷たい視線が、秋也の身体を射抜いた。 「本来なら凪人を寄越す筈だったが、貴様のせいで使い物にならなくなった。それ故、わざわざ来てやった」  一歩一歩此方に近づいてくる頭領に刃を向けたいのに、指に力が入らない。影縄は得物が刺さったまま私を庇うように背中の後ろに隠す。 「蛇よそこをどけ」 「どかぬ。たとえ主の実の父親であろうが、我が主に刃を向けた者に従う気はない」 「そうか。ならば……」  頭領が小声で何かを唱えると、得物を中心として影縄の腕の肉が爆ぜた。 「い……ぁ……があっ……」  腕は千切れてはいないが、肉片と血が飛び散り骨が見えていた。 「一度刺されば暫くは抜けぬ代物。蛇よ、腕が落ちるまでじっくりと続けてやろうか?」 「何度……言われても同じこと。私は主にっ……がっ……ぁ……」  また肉片と血が飛び散る。それなのに必死に私を庇って膝をつかない影縄。影縄の血の臭いが鼻腔を満たし、呼吸すらも苦しくなってきた。 「影縄……もういい」  影縄が傷つくことにもう耐えられない。私は影縄の前に出る。影縄は驚いた顔で私を後ろに隠そうとするが、私は頭領の前に出た。 「頭領……折檻したいのでしたら私だけにしてください。この蛇は関係ありません」 「早く貴様が出ればこんなことにならなかったのだ。身勝手な事をした責任を取ってもらおうか。その前に、この蛇が里に来ないようにしろ」 「……承知」  影縄を振り返る。影縄は目を潤ませ、ただ首を横に振っていた。「そんなことを命じないでくれ」と言っているような気がして申し訳なかったが、私は影縄を巻き込みたくなかった。私のせいで彼に傷ついてほしくなかった。 「主様……」 「影縄、両膝をついて顔を上げて口を開けろ」  言霊で強制して影縄にそのようにさせる。そして私は自らの腕を切り裂いて、影縄の口に血を流し込んだ。 「これは命令だ。……私への罰が終わるまで、私の前に現れるな」  腕の傷が癒え始めて痛くない筈なのに、影縄は涙を流していた。  影縄の腕から刀を引き抜き、血を数滴飲ませれば完全に傷が癒える。 「秋也様っ……待って……!」  そんな悲痛な声に背を向けて、頭領の方を向く。頭領は冷たい目で私を睨むと、手首を掴んだ。 「さっさと来い」  握り潰さんばかりに手を掴まれ、秋也は苦しそうに俯く。普通の親子ならば手を引くという行為は愛情のあるものだ。だが、頭領と私の間には一切の愛情が無く、こうやって手を引かれるという行為は酷い折檻の前触れ。それでも今までのように死ぬことはないと思う。ただ、私が心と身体の痛みに耐えれば済むこと。それでも影縄への罪悪感が込み上げる。影縄……すまない……。そう胸の内で呟くと秋也は目を瞑った。    主を追いかけたいのに身体が動かない。それどころか、もう喉すらも動かなくなる。影縄は、はらはらと涙を溢しながら秋也の姿が見えなくなるまで、その背中を見つめていた。まだ若い子供の背中。このまま離れたくないのに。なのに言葉は主に届かない。秋也の姿が完全に見えなくなり、がくりと項垂れるといつの間にか町の騒がしさが戻っていた。おそらくは頭領が特殊な結界を張って人に見えないようにしていたのだろう。 「っ…………」  影縄は無力さに地面を拳で叩いた。  影縄は一人桔梗の元に戻る。戸を叩くと、何も知らないであろう夜萩が戸を開けた。 「影縄おかえり。……って血塗れじゃないか!? それに秋也は……?」 「すみません……」  影縄は震える声で呟いた。

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