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離れて夜を過ごす

以前は耐えられた苦痛や孤独が耐え難いものとなった  土御門から渡された秋也が解いたあの膨大な量の問題の解答を眺めていた青年は、口許に笑みを浮かべながら眺めていた。 「『愛し子』でもないのに、中々の頭の良さじゃないか。どうして現当主は凡人とか出来損ないと、この子を評するんだろうね」  土御門は青年の言葉に頷いた。土御門は目の前の先祖と同じ疑問を持っていたのだ。解答を眺めながら、凡人にしては随分と賢い考えをする少年だと舌を巻く程だったのである。 「私もそこが不審でならないのです。一応、次代を京に出立させるようにと文を送ったのですが……」 「『怪我をしたので送ることが出来ませんでした』などになるかもしれないよ。または『不慮の事故で死にました』とかね?」  土御門の顔からざっと血の気が引いた。紅原は血生臭いことを引き受ける上に、驚恐を統べる家系。我が子であろうと敵と判断した者に、容赦しないだろう。 「どういたしましょうか」 「一度も会っていない上に、見殺しにするのも情がない。天将を送ってみるのが良いかもしれない。念のために水行である玄武や、天后が適任だと思うけど」 「それだと手遅れになるのではないですか。父上と御先祖様」  その時、鈴の鳴るような声音と共に衣擦れがしたかと思うと、上空から何かがが土御門の目の前に舞い降りた。それは、男のように狩衣を纏った晴子である。 「晴子、こんな夜更けに勝手に屋敷を抜け出すとは……」 「お叱りは後でいいです。それよりも良い案があるのです」  土御門と青年の姿をした神霊をまっすぐ見据えて晴子は話を始めた。  秋也は里の石牢に入れられると、両腕を拘束された。排泄以外は牢から出ることは許されない。それどころか排泄時に隙をいて逃げ出そうとしても、いづれは捕まって折檻が酷くなるのだ。 「……」  秋也は今まさに自分を折檻しようとしている頭領を、無言で睨みつけた。 「土御門に対してでしゃばった真似をしよって……。貴様にはその権利が無いことぐらい分からぬのか」 「それを決めるのは土御門の意向です。貴方が決めることではない」  すると肩に鋭い痛みが走った。鞭で打たれたと気づくまでに三つも数えない程度。痛みなど怖くない。打たれても尚、刃のような眼差しを向ける秋也を、頭領は不愉快そうに見下ろすのであった。  影縄から事情を聞いた桔梗は、腕を組んで呻いていた。秋也のことはまだ誰も漏らしてはいない筈。ならば常に此方を監視していたか、式占いで行方を毎日のように占っていたという可能性がある。 「どうしてそこまで執着するのやら……」  桔梗は溜め息をついた。お産で母子ともども生きているのならば十分幸せな方であろう。そもそも子供に罪など無いし、秋也は母親を殺してはいない……などという理屈はあの頭領に通らない。  頭領は秋也が生まれる前、奥方の胎の子供を慈しんでいた。だが一変したのは秋也が生まれてあの奥方の体調が悪化してからだ。  首を締めて赤子を殺そうとした頭領を止めたのは蛇神。いまだに秋也を殺そうとするのは、秋也を我が子と認識できていないと思われる。  愛する女を傷つけた仇。あの男は父親になりきれず、そう認識しているのだ。流行り病で母を亡くした冬霞にはそこそこの愛情を示しているという皮肉。   秋也がこの地から離れれば、多少は解消されると思ったのだが……。どうやら放す気は無いらしい。むしろ手元において苦しめるつもりであろう。  影縄に視線を向ける。影縄は今回のことで打ちのめされたようで、散々泣いたせいか目元が赤く腫れている。 「影縄は悪くない。今回は秋也が油断しなければ済んだこと」 「主様は……ご友人の両親を救えなかったと、悔いておりました。そんな胸を痛めている主様に、油断するなと言うのは酷な話です。主様は悪くない。私が……もっとしっかりしていれば……」  言いたいことは理解できるが、そんなことは甘やかしになってしまう。桔梗は組んでいた腕を解くと、影縄の腕を掴んだ。 「言っておくがあいつは鬼祓いの次代だ。辛かろうが苦しかろうが、常に隙を見せてはいけない。隙を見せた時点で、秋也に落ち度があるんだよ」  影縄はその言葉を否定するように首を横に振った。正直影縄の悲しみに染まった瞳を見るのは辛い。数ヵ月前の刺のあるような言動をしていた頃とは比べ物にならない程、性格が丸くなったせいか悲しみにくれる様が痛々しいのである。 「ですが……主様は悪いことなどしていない。どうして罰を受ける必要があるのですか……!!」  怒鳴りはしないが、悲しみと怒りで影縄の声が震える。するとずっと下を向いていた夜萩が、顔を少し上げた。 「そうだよ。少なくとも秋也は掟を破っていない。ということは頭領の独断だ。ならば秋也が影縄にかけた命は通用しないんじゃないか……?」  その言葉に桔梗と影縄の顔色が変わった。 「いやしかし。どうやって秋也を助けるんだ。私は里の結界に入れないぞ。あと影縄も結界に入れない可能性が高い。夜萩だけなんて無謀じゃないか?」  その時、戸が叩く音がした。 「桔梗殿、用事があって来たのだが開けてくれないか」  その声は健吾の声音。三人は互いに顔を見合わせると、戸の方を見つめた。  夜萩が用心してそっと開けると、声音の通り健吾がいた。健吾はどこか焦燥し疲れきった顔をしている。 「凪人の薬を貰いに来たのだが……って影縄……殿……!?」  影縄の姿を視界に入れると健吾は瞠目する。そしてどたどたと影縄に駆け寄った。 「次代は何処にいるんだ!? 早くしないと凪人が……」 「あやつがどうしたのですか。それに主様は貴方達の頭領に連れ去られてしまいましたよ」  冷酷な影縄の声に健吾は唇を噛み締め俯く。凪人のことは許せない。しかし悲しそうな健吾の表情に同情してしまいそうになる。自分を見ているような気分になってしまいそうで、影縄は健吾から目を逸らした。 「凪人の容態は?」 「もう身体の殆んどに回ってしまっていて……意識もあまり……」  何のことだろうか。影縄は気になってちらりと見遣ると桔梗と目が合ってしまった。気になる?と首を傾げる桔梗に頷く。 「一体あやつがどうしたのですか」 「蛇神の祟りだよ。あの怖ーい神様のね」  そして桔梗は影縄がよく知らない紅原の守護神である蛇神の話をした。  始まりは伊賀の忍びが一匹の蛇を助けたこと。その蛇は実は蛇神で、恩返しとしてその忍びの子孫の守護するようになったのだとか。 「秋也の祖父である先々代のような『蛇の愛し子』は自在に蛇神の力に手綱を引くようなことが出来る。だけど秋也は『愛し子』ではないから蛇神の守護に制御は出来ない。故に、秋也の意思に関係なく凪人が祟られたんだよ。紅原の血を害そうとしたとしてね」 「ですが……何故、あの頭領は祟られないのですか」  主様の背中の傷や衣の下にある傷跡。あれだけしておいてお咎め無しで済まされるのだろうか。すると桔梗は困ったような顔で答えた。 「あいつも紅原の血筋だからね。でも既に祟られている可能性があるよ。仮に祟られていたとしても止めないのだろうね」  それほどの憎悪を生まれた頃から受けているのか。我が身よりも小さい背中が脳裏に浮かぶ。影縄は覚悟を決めたように立ち上がった。 「やはり行きます。主様の身に危険が及ぶやもしれません」 「だから私達が結界に入るのは無理だって。あの結界は騰蛇でないと壊せないよ。ただ、騰蛇は頭領との契約で此方に干渉できないんだ。助力を乞えないと思う。夜萩一人で行かせるつもりかい? 断言すると秋也はそれを望まない」 「ですが……!! 主はまた折檻を受けるというのですか!?」  悩む様子の桔梗と焦燥の色を浮かべる影縄。二人の言い争いを健吾は黙って聞いていた。  脳裏に浮かぶは、祟りを受けて死相が現れ始めた幼馴染み。あいつは次代を斬ったことで神の怒りを買った。今では刺青の如く蛇の鱗の祟りの証が身体に広がり、触れることすらも彼には苦痛になっている。 『どうして次代を斬った』  ろくに起き上がれなくなった凪人に訊くと、凪人は涙を流した。 『命令だったから……でも本当は次代を斬りたくなかった。次代は悪い人ではないのは知っている。でも……居場所をくれたのは頭領だから……逆らえなかった。ごめんなさい、臆病者で……』  あいつの自業自得だ。あの大馬鹿者は臆病者。だというのに見捨てられないのは、俺があいつを愛しているから。次代のことなどどうでもいい。だが、次代の「赦し」がなければあいつは死ぬ。どっちに付くかなど決まったものだ。健吾は覚悟決めて顔を上げた。 「要は次代を里から連れ出せば良いんだろ。それと結界の破壊だっけか。夜萩の助力という形でなら俺も力を貸す」  桔梗と影縄は、信じられないと驚きの顔で健吾を見る。夜萩は驚きのあまり立ち上がった。 「健吾さん良いんですか!? あんたは若衆の長だというのに頭領を裏切るような真似をして」 「まあ本当は良くはないが、次代が不憫だと思うてな。それにあの次代もいつかは頭領になる。頭領の跡を継ぐことを嫌がっていた冬霞を、頭領にするなど可哀想なことは出来ない。確か次代は京に行くんだろ? 素直に京に厄介払いした方が、頭領もあのような顔にならないだろう」  夜萩は潤んだ目で健吾を見つめる。普段小馬鹿にするような夜萩が、本気で感謝していることが居心地悪く、健吾は目を逸らした。 「健吾さんあんた……。いや、それより秋也が京に行くことは伝わっているのですか?」 「今朝、頭領と評定衆の連中がこそこそ話しているのを小耳に挟んでな。京に送るべきと言う評定衆の一人と頭領が言い争っていた」  夜萩はぽかんと口を開ける。夜萩は自分の父親以外と桔梗以外は次代を冷遇している者のみと思っていたのか。まあ俺も若衆の長となって、初めて評定衆に次代の味方が数名程度であるが、確実にいると知ったから仕方あるまい。しかしそのことにはまだ触れるべきではないだろう。 「若衆の長がついているんだ。夜萩、お前が次代を助けたいなら俺はお前に力を貸すがどうする」  夜萩は十の間、俯いて無言になる。そして顔をあげると、俺に手を伸ばした。 「俺に出来るか分からないけど……健吾さん力を貸してください」  強い覚悟を胸にした夜萩の目は、力強い光があった。  健吾は夜萩の手を掴むと笑う。頭領に背を向けることは恐ろしい。彼の人には恩義があるのだから。だが頭領よりも大事な者がいる。この想いは彼には伝えていないままであるが。健吾は夜萩と握手を止めると、影縄に目を遣った。 「影縄殿。貴方はまだ俺のことを信用していないかもしれないが、俺は貴方に協力するつもりだ。貴方は俺達が結界を破り次第、次代を共に助け出せばいい。そして急いでこの国を出るといい」  影縄は困惑の表情を浮かべ、健吾を見上げた。次代の前であのことを謝ったからと言って信用などされる訳がない。  捕らえた時は、人でない美形の化物というだけで、この大蛇を慰み者にするつもりであったのだから。今はそのような気持ちが失せているからこそ、己の言動に罪悪感を抱いている。 「結界を破ってくれるのはありがたいのですが、貴方が私や夜萩殿、そして主様に助力して何の益があるのですか」 「知らぬが仏ということもある。が、いづれ知ることになるだろうよ」  己を救いだした主を殺そうとした凪人をこの大蛇は絶対に許すことはしないだろう。助ける代わりに、次代から凪人への『赦し』を得るために助力するなどと話してしまえばどうなるか。考えたくもないので今はまだ言えない。それを言うときが来るとしたら、次代を助けた時であろう。健吾は己の思惑を胸に秘め、影縄に手を差し出す。影縄はまだ疑う表情をしながらも健吾の手を握った。 「貴方を信用しておりませんが、力を貸してくださるのでしたら感謝いたしましょう」 「今さら信用など求めていないが、裏切らないとお約束しよう」  影縄の黒曜石の瞳が真っ直ぐ健吾を射抜くが、健吾は一切動じることなく影縄の瞳と目を合わせた。  石牢に一人少年がぐったりと顔を俯いている。その体は衣で見えないものの、衣の下は鞭と蹴られたことによる痣で彩られていた。 「…………」  掟を破っていない筈。ただこのように折檻を受けるのは、土御門が里にまで文を送ったことが要因であろう。悪いのは土御門ではなく、勝手にそのことに激昂する頭領が悪いのだが。目をぼんやり開けると、夕日が牢の中に差し込んでいる。そういえば祖父は『愛し子』で、笑うと瞳が夕焼けのような優しい色になったそうだ。そんな祖父ならば私を愛してくれたであろうか。祖父は私が生まれる前に死んだのだから知る由もないが、夕焼けを見るたびに叶わぬ思いがちくりと胸を刺す。颯月様や桔梗……そして恐らく騰蛇が愛情を注いでくれただけでも幸せ者だ。だけど父や母の愛を渇望してしまう幼心は捨てられないままだ。代わりに与えられるのは折檻の痛みだというのに。折檻を受けている間は弱気になるまいと思っているのに、今回の折檻がどうしても嫌なことを考えてしまう。秋也は再び目を瞑った。視界が閉じれば、身体の痛みがずきずきと悲鳴を上げる。だけど、牢の光景が見えないだけでも楽なのかもしれない。ふと己のつけた腕の傷が疼く。 「影縄……ちゃんと治っただろうか……」  応急処置として私の血を飲ませたが、治ってなかったら申し訳ない。それにしてもよくあんな無茶をしたものだ。私と違って美しい彼に傷は似合わない。治っていたとしても、私のせいで傷を負ってしまったのだから謝りたいのだが……もう一度彼に会えるだろうか。そんな不安が過るのは何故だろうか。 「影縄……」  自分が彼を遠ざけたのに、彼の名前を呼んでしまう。傍にいてほしいという思いまでも口にすれば涙が溢れそうで、そんな思いは押し殺した。

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