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ある風邪の日
冬の冷たい空気は、人にはさぞ辛かろう。火鉢の炭に火を起こし、部屋が温かくなってから秋也を起こすのが冬の影縄の日課である。
「主様、お目覚めの時間ですよ」
「……身体がきつい。起きたくない」
おやと影縄は首を傾げる。主様は普段そんなことを言う方ではない。もし言うのだとしたら。思い当たることがあり、影縄は秋也の額と己の額を重ねる。
「主様、身体が一段と熱いですね」
私にとって人は熱いのが当たり前だが、それよりも熱いのだ。顔を覗き込むと、頬は赤みを帯び、とろんとした目を向けてくる顔はいつもとは考えられぬ程、幼かった。
「風邪を召したようですね。粥でもお持ちしましょうか」
「ああ……頼んだ」
風邪のせいか掠れたように弱々しい主の声に影縄はどきりとしたが、それを表情には出さない、主の為の粥の用意と桔梗に主の症状を診てもらうために、立ち上がった。
「最近仕事が立て込んでいたからね。疲労という隙を突かれて熱が出たんだろうよ」
秋也の様子を診た桔梗はそう告げた。熱が上がったのか主様は苦しそうである。食欲が無かったのか、粥に殆んど手を付けてなかった。
「このくらい平気だ。私はまだ仕事が……」
主様は立ち上がろうとしたが、目眩がしたのかすぐにふらついた。
「駄目ですよ。横になりましょう」
「げほっ……っ……」
咳をする秋也の目は時折焦点が合っていない。影縄は秋也を布団に寝かせると、冷めた粥の入った鍋を台所に運んだ。
下女と桃香は殆んど手をつけていない粥を見て、心配げな顔をする。
「頭領らしくもないですね。いつも綺麗に召し上がってくださるというのに」
「本当よね。父上、普段は食事を残さないのに。そうだ、影縄。父上の粥を作ってみない?」
突然の桃香の提案に影縄は目を瞬かせた。
「よろしいのですか?」
「ええ、勿論」
桃香は微笑んで頷いた。
「私も手伝うから大丈夫よ。きっと影縄が作ったら父上は食べると思うわ」
一般的な武家と違い、この紅原家は男が台所に立つことが珍しくないので台所に立っても問題は無いであろう。だが自分は殆んど調理などしたことがない。そんな私が愛しい人の料理を作っても良いのだろうか。その不安が大きい一方で、愛しい人の口に入るものを作れたらと思う気持ちも大きい。
「……やってみます」
どうするか迷った結果、影縄は桃香と粥を作る約束をした。
「なら、決定ね。後で来てね」
桃香は嬉しそうに笑うと、何やらごそごそと準備をし始めていた。
影縄はその姿を尻目に台所を後にすると井戸へと向かう。そして井戸の水を桶に入れると、秋也の汗を拭う為に秋也の部屋に入った。
部屋に入ると、ぜえぜえと苦し気に息をする主の姿があった。本当に苦しそうだ。主が風邪を引く度に私が代わって差し上げられたらと思うが、それは叶わぬことだ。
「主様、起き上がれますか?」
「っ……ああ。すまん、風邪など引いてしまって」
秋也は薄く目を開けると起き上がった。下ろした髪が首筋に貼り付き、胸元がはだけている。色っぽいなど思ってはいけないと分かっていたが、影縄は頬が熱くなる錯覚を覚えた。影縄は桶の水で手拭いを濡らすと絞る。
「申し訳ございません。少し脱がします」
「いや……自分で脱ぐから大丈夫だ」
秋也は力の入らない指で襟に手を掛けると諸肌を晒した。細身の鍛え上げられた身体は汗をじんわりと帯びており、男の色気を漂わせている。あまりの艶やかさに影縄は直視出来ず、顔を伏せてから秋也の背中を拭き始めた。出会った頃は小さいと思っていたが、いつのまにか逞しくなったものだ。背格好は勿論だが、心の在り方も変わったのだろうか。影縄は主の成長ぶりを愛しく思いながら秋也の背中を拭いた。やがて背中を拭き終わると前も拭こうとしたが、手拭いを持つ手を重ねられる。
「ありがとう。だが前は自分で拭く」
主様のことだからそう言うと思っていたが、実際言われると少し残念である。
「ですが……」
もう肌を重ねた間柄でしょうという言葉を飲み込んで影縄は手拭いを渡す。秋也は手拭いを受け取ったが、意識が朦朧としているのか手拭いを持つ手があまり動いていない。影縄はふらついた秋也の体を受け止めると、耳元で囁いた。
「秋也様、無理はなさらず私にお身体を委ねてくださいませんか」
「しかし………いや、影縄。すまないが任せた」
遠慮するような声音であったが本当に身体がきついのか手拭いを影縄に返す。そしてぐったりと影縄の肩に額を預けた。別に人ではないので影縄は秋也の重さを重いと感じない。影縄は秋也の身体を片手で支えると、反対の手で拭く。情交でさえもその腹筋や胸筋にじっくりと触れることなど少ないので、影縄は布越しで秋也の筋肉触れるにつれて鼓動が早くなるのを感じる。この鼓動を気づかれていないか。必死に平常心を保つ振りをしながらなんとか前も拭き終えた。
秋也の諸肌にそっと衣を着せると、布団に寝かせた。影縄はふうと息を吐くと、秋也の頬に触れた。何気ないことなのに、愛する男の色香に呑まれそうになった。
『ねえ影縄知ってる? 人は弱っている時が一番色っぽく見えるんだってさ』
そういえば桔梗がそんなことを言っていたような。情欲を抱く場合ではないのに、抱いてしまったのはそのせいだろうか。桔梗が薬を調合中なので桔梗の薬を飲めば楽になるだろうが、愛しい人が苦しんでいるのを見るのは嫌なのだ。燃えるような額にそっと触れると、主は僅かに目を開けて微笑む。
「影縄の手は心地好いな……」
秋也を見下ろす影縄の瞳が微かに震えた。冬場は死人のように冷たき我が身。だがこの主は我が身を嫌わずに身体を重ねてくれる。この手を心地好いと言ってくれる。身体は冷たかろうが、主の愛情にこの胸は温かくなるのだ。
「それは良かったです。主様、しばらくお休みなさいませ」
身体を拭いた手拭いとは別の物を主の額に乗せると主は静かな寝息を立てる。もうそろそろ薬は出来たであろうか。影縄は起こさぬように秋也の頬に口づけをすると、桔梗の部屋に向かうのであった。
「頭領の調子はどう?」
「酷い熱ですよ。桔梗、薬の用意は出来ましたか」
「まあね。今回も少し苦いだろうけど、飲ませれば良くなるだろうよ。私が飲ませてくるから、影縄は時雨の所に一旦行って。時雨、夜萩と頭領の仕事を手分けしてやっているようだし」
明らかに苦そうな薬だ。影縄は顔をひきつらせる。良薬は口に苦しと言うが大丈夫だろうか。いや、桔梗なら大丈夫だろう。
影縄は時雨の元に報告に行った。
「そうか……父上、大丈夫かな…」
秋也がさる藩士に頼まれていた魔除け用の霊符を代わりに書いていた時雨は不安そうな顔をする。
「桔梗がいるから大丈夫だろ。あいつは私が晴明の式神になった頃には既に薬のことを学んでいたらしいし。そういやあいつ晴明に無理矢理薬飲ませたっけなー」
時雨の部屋にごろんと寝転がっていた騰蛇はそう言うものの、心配ではあるようだ。
「騰蛇は主様の部屋に行かないのですか? 貴女も人でないのだから風邪は移らないですよね」
騰蛇は主が風邪を引いたときはあまり近寄らない。まるで避けているかのように。すると騰蛇は苦笑した。
「俺は凶将なのだから風邪の時に近寄って悪化させるかもしれないだろ。それに……二人きりの邪魔をするのも何だかなあと思ってさ」
にやりと騰蛇が笑う。その笑みが意図しているものを悟り、影縄の顔が一気に赤くなった。
「いやっ……そういうわけでは……!私はただ主様のお世話を……」
「別に恥ずかしがることはないだろ。第一お前と頭領は昔から……」
「これ以上は恥ずかしいのでやめてください……!」
ここで止めねば過去の恥ずかしいことを時雨様に知られてしまう。騰蛇は昔のことを暴露するのを止めたが、相変わらずにやにやと笑っている。
「まあ、そういうことで。俺の代わりに頭領をよろしくねー」
影縄が部屋を去る時、騰蛇がひらひらと手を振っていた。
影縄が部屋を去った後、時雨は口を開く。
「騰蛇、あんまり影縄をからかったら駄目だと思う」
「からかってはいないさ。いや…ちょっとからかったかな?」
騰蛇は立ち上がると部屋を歩き回った。
「別に悪意はないから安心しろ。それに恥ずかしいことではないと思うんだがな。むしろ微笑ましいんだけど」
「だよなあ。元々父上と影縄ってすごい信頼関係で羨ましいし、別に恋仲になってもめでたいとしか……」
思わず口が滑ってしまい時雨が顔を上げると、騰蛇は目を見開いていた。
「時雨……お前それをいつから知っていたんだ……?」
「いや……騰蛇こそいつの間に……」
自分しか知らないであろうと思っていた秘密を他の者が知っていたと悟り、時雨と騰蛇は固まってしまった
一旦主の部屋に戻ると、主は穏やかな寝息を立てていた。そっと頬に触れてみると、僅かに熱が下がっている気がする。微かに残る薬湯の臭いからすると、薬湯を飲んでから再びお休みになられたのだろう。桔梗は主様が熱を出した時、熱冷ましの薬湯の中に眠り薬を混ぜる。そうするのは熱が少しでも下がれば仕事をしようとするからであろう。
恐らく二刻程は起きぬであろう。それより少し前に台所に向かった方が良いか。影縄は書物を読みながら秋也の眠りを見守ることにした。
時間が経ち桃香様に言われた通りに台所に来ると、桃香は影縄に笑いかけた。
「影縄、丁度呼びに行こうと思っていたのよ。さあ、作ろうかしら」
「はい、桃香様。どうかご教示お願いします」
「勿論よ。さあ任せて」
桃香様と私は襷を掛けると調理を始めた。私が竈の種火から火を起こすと、桃香様から調理の指導をされる。普段は可憐な少女である桃香様だが、家事の事になると手厳しい。心のどこかで粥を作ることを私は侮っていたのか、完成する頃には少し疲れてしまっていた。
「あとは塩加減と玉子を入れるだけね。塩加減は少し多めにした方が食が進むかも」
「承知しました」
塩を入れて、溶いた玉子を円を描くように流し入れる。粥にいれられ玉子はふわふわと柔らかな天女の羽衣のようになった。
「影縄、ちょっと味見してみて」
「はい」
上手く出来ているだろうか。不安になりながらも、一口分小皿に入れた物を口に運んだ。
「美味しい……」
不味かったらどうしようと思ったが、絶妙な塩加減の粥になっている。これで主は喜んでくださるだろうか。
「良かった。影縄には教えがいがあるからきっと美味しくなると思ったの。父上もきっと食べてくれるわ」
「桃香様、ありがとうございます」
「お礼なんていいのよ。ほら、早く父上に運んで。熱々のまま食べてもらった方が美味しいわ」
影縄は桃香に頭を下げると、粥の入った鍋を秋也の部屋に運ぶ。秋也の部屋に向かう影縄の顔は綻んでいた。
主様の傍に盆を置くと、主の肩を軽く揺さぶった。
「主様、お食事をお持ちしました。」
主様は薄目を開けると、ゆっくりと半身を起こす。薬湯と睡眠のお陰か、顔色が良くなっている。
「すまないな。ではありがたく頂く」
鍋の中の粥を器に取り分け、渡そうとする。だがあることを思い出して渡すのを止めた。
「主様、此度の粥は私が桃香様に教えて頂きながら作ったのです」
「何………?お前がか?」
意外だとでも言うような顔をする主様。そんな主様に器を渡す代わりに匙を差し出した。
「せっかくですので私の手で召し上がっていただこうかと」
主様は目を見張ると、頬が一気に赤くなった。
「待て、あの頃はまだ若造で利き腕が折れていたからあのようなことが出来たものの、四十路の私がそのようなこと……」
「嫌なのですか……?」
主様は言葉に詰まって黙って目を伏せる。そして少しの沈黙の後、小声で呟いた。
「嫌……ではない」
「良かった。では口を開けてくださいまし」
主様は恐る恐る口を開く。その姿に少年の頃の主を重ねてしまい微笑ましくて思わず笑いそうになりながら、主様の口に粥を運んだ。主様は噛み締めるように味わってから飲み込む。
「美味いな。これなら全部食べられるかもしれない」
その言葉に安堵する。良かった。病の時は食欲が重要なものだと聞く。食べなければ治るものも治らないのだから食べさせなければならないのだと。
「まだまだ粥はありますので食べてくださいね」
「分かったよ。折角の影縄の手料理なのだからな」
再び口に匙を運ぶと、主様は躊躇いを見せずに口を開いた。昔はさほど緊張はしなかったが、今は主様に自分の手で粥を食べさせることに照れ臭さを覚える。主様が私の手から。それも自分の手料理を主様が召し上がってくださる。それが嬉しくてたまらない。気がつけば鍋の中は空になっていた。
「本当に完食して頂けるとは………。主様、まさか無理をして……」
すると主様は私の頬に手を添えると首を横に振った。
「いや、無理などしていない。影縄が私の為にこのように美味い粥を作ってくれたと思うと嬉しくてな。全部食べることが出来た」
主様の言葉に目頭が熱くなる。本当に作って良かった。先ほどまで主様の口に合わないのではないかと不安だったのだ。影縄は感激のあまり涙が溢れそうになる。
「主様のお口に合って嬉しく思います。愛しい人に召し上がっていただけるのがこんなに幸せなことだと初めて知りました」
主様は優しく微笑むと、私を抱き締めた。
「私こそ愛しい者の手料理を食べることが出来て嬉しいよ。影縄、またいつか私に食べさせてくれ」
「はい……。勿論です」
次は桃香様に主様の好物の作り方を教えて頂かねば。その前に、主様には元気になってほしい。影縄は胸の中で主様が早く元気になるようにと祈った。
「う……うーん」
秋也はぼんやりと目を覚ました。数日ほど熱が出て少し意識が朦朧としていたが、今ははっきりとしている。起き上がってみると、すぐ傍に愛しい人影が寝息を立てていた。
「影縄、ずっと私を看ていたのか」
きっと影縄のことだ。寝ずの看病をしていたのだろう。起こすのも悪い。
秋也は自分の着ていた羽織を影縄の身体に掛け、その額に口付けを落とした。
「影縄、ありがとうな。………愛している」
影縄が起きたら改めて礼を言わねばならないな。秋也は愛おしげに、影縄の寝顔を見つめた。
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