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番外編 温泉旅行 前編

 その日、秋也は城の一室に呼び出されていた。普段は入ることが許されぬ、藩主の寝室である。 「殿、ただいま参りました」 「おお、久しいな。元気にしておったか」  煙管の煙を燻らせ、八雲はにやりと笑う。傍に酒が置かれているが、煙管と酒を同時に摂取するのはお身体に悪いのではないだろうか。そんなことを考えてしまう。 「ご覧の通りにございます。それで御用は一体」 「ちょっと頼みがあってな。湯治宿に行ってこい」  湯治に行けとはどのような風の吹き回しか。それに私は至って不調など無いが。秋也は首を傾げる。 「湯治ですか? いえ、私は健康ですので不要かと。それにそのような贅沢はしていられません」 「湯治というのはついでだ。行ってもらいたいのは、かつて政暁が湯治の為と滞在していたあそこだ。どうも妖ども……いや天狗だったか。それらが宿の仕事を妨害するらしい」 「天狗ですか……」  初代からの縁もあって、天狗とは面識がある。とはいえ、天狗と言っても種類は様々。修験者が外道に堕ちた者や、山神や精霊の化身、流星の子孫など様々だ。 「そう、天狗だ。最近では樹齢50年の松の枝が折れたり、桶がみな風で飛ばされたりしているとのこと。ひとまず、天狗を説得しに行ってこい。宿の滞在の銭はわしが全て出す。式神達と共に少し羽を伸ばすと良かろう」  矜持が高い天狗を説得してこいとはこれまた難題な。だが最近は働き詰めだったので、正直に言えば嬉しい。 「承知いたしました。ですが宿の銭まで出してくださるのは、流石に恐れ多いのでは?」  秋也は恐る恐る問う。八雲は軽く目を見開いた後、呆れた顔をした。 「本当に頑固な奴だな。わしが命じたのだから、それくらい出さぬわけ無かろう。いいからさっさと湯治宿に行く準備をせよ。早く解決しようが、何日かゆっくりしてこい」 「はっ」  これ以上言っては藩主の機嫌を損ねかねない。秋也は頷くと、藩主の部屋を後にした。 「ということで、湯治宿に行く事になったがついていくか?」  式神達に聞いてみると、影縄以外の2人が首を横に振った。 「頭領が数日も不在となれば、隙を突かれかねないだろ。念のために私は残りたい。それに、宿には何度も泊まっているから、もう十分だ」 「私もちょっとなあ。1ヶ月以内に貴重な薬が入るかもと城下の薬問屋に言われたから逃したくない」  せっかくの機会だと思ったが仕方がない。特に騰蛇には留守を任せた方が都合が良い。桔梗の方は、湯治宿の効能など参考になるかと思ったが、残念ながら薬の方が大事のようだ。 「では、2人には留守を任せるとしよう。何かあったら連絡してくれ」 「はい分かりましたよ。お土産よろしくね。温泉の湯を汲んできてもらうとありがたいな」 「承知した。出来るだけ買ってくる」  そのような約束を交わすと、旅支度を整えた。  旅籠には影縄と何度も泊まったことがある。だが藩主が宿泊するような宿には泊まったことが無かった。いっそのこと、大層な宿に泊まるより、野宿の方が楽なのではと思ってしまう。  だが、私と違って嬉しそうな影縄を前にそのようなことは、口が裂けても言えぬ。 「2人っきりで湯治宿なんて楽しみですね。ただ、あの2人だけでなく時雨様や桃香様を差し置いて私が良いのかと思ってしまいますが」 「時雨は次代として里に残ってもらわねばならない。桃香も天狗に見初められる訳がいかぬから仕方ない。皆の分の土産を買うから良かろう」  初代の友であったある天狗の父親は、豪族の姫を口説き落として、彼女を同胞に迎え入れたそうだ。桃香はどういうわけか、私の母に似て美しく、晴子のように可憐だ。人間でも桃香に相応しい相手がいないというのに、天狗にあの子を取られたくない。 「そうですね」  影縄はふわりと微笑むと、支度を再開する。私はともかく、影縄には幸せな時を過ごしてほしい。仕事で湯治宿へ向かうというのに、そんなことを考えてしまった。  翌日、朝から旅装束に着替えて里を出る。時雨や騰蛇、そして夜萩には仕事を言いつけておいたので大丈夫だろう。地図から見ればさほどの距離ではない。  だが山奥にあるせいか、道は険しかった。途中で小川の側に腰を下ろして休憩をする。 「それにしても、どうして山奥にあるというのに、その宿は潰れないのでしょうね」  影縄は木陰で、黄色に色づいた銀杏の葉をくるくると手遊びする。その様子が少し子供のようで、可愛らしい。 「藩のお偉方の避暑地や湯治場として、繁盛しているからだろうな。鬼祓いも湯治宿の建築に関わったらしいが、どうやら霊脈と源泉が重なっているようだ。効能もあるだろうな」  関わったのは私の父で、母も療養で利用したらしいが……。そこを言ってしまえば気まずくなるのであえて避ける。影縄もそれを察してか、私の両親の話題を避けてくれた。 「温泉楽しみですね。そういえば、凪人さんと健吾さんが鷹の子の護衛で滞在しておられましたね。病だけでなくお肌にも良いとか」 「らしいな。だが、お前は十分綺麗だぞ」  影縄は私の言葉に頬を赤くする。そして恥ずかしそうに膝に乗せていた笠で顔を隠した。 「綺麗だと仰ってくださるのは嬉しいですが、もっと主様を夢中にさせていので己に磨きをかけたいのです」  今度は私が影縄の言葉に気恥ずかしくなる。互いに初な恋人のように赤くなった顔を隠して山道を進んだ。  着いた先は、相当豪勢な湯治宿である。ただ、欠点があるとすれば、屋根や壁などのあちこちに損傷が見えることだろう。それに周囲の木々が強風にあったように枝が折れているのを見るに、天狗か鎌鼬の仕業と考えて良い。 「これはまた酷い」 「細やかな装飾が施されているというのに、勿体ないですね」  周囲の木々も、本来ならば手入れが為されているのだろうが、それどころではないらしい。ひとまず、湯治宿に入って事情を聞くことにした。出迎えたのは、女将と若女将、そして若旦那であった。 「紅原様ですね。殿からお話は伺っております」  此方から話さねばならないと思ったが、殿は用意周到だな。いつもならこのような格式のある場では警戒されてもおかしくないのだが。秋也は懐から八雲の書状を取り出した。 「ええ。その通り。私は紅原秋也と申す。隣の者は私の連れである影縄。依頼の前に、荷物を置きたい。部屋に案内して頂いてもよろしいか」 「勿論です。お部屋に案内いたしましょう。相談もそこで」  若旦那自ら快く案内をする。秋也と影縄は彼についていくことにした。着いた先は、立派な庭が眺められる部屋であった。秋であるためか、紅葉や銀杏が鮮やかに色づいている。それに池には大きな鯉が優美に泳いでいた。部屋の調度品も派手すぎず、上品な装飾が施されている。秋也と影縄は思わず両目を見開いた。 「これまた豪勢な……。いえ、我々は寝泊まりが出来れば十分なのですが」 「いえいえ。せっかく依頼を引き受けてくださったのですから。それに今は他にお客様を取っておりませぬので」  笑う若旦那は、心労のせいか顔色が悪い。これはまた早急に依頼を遂行しなければな。秋也は若旦那の話を聞くことにした。 「最近、毎日のように天狗が悪戯をするのです。人に対しては危害を加えませんが、桶や宿の物を吹き飛ばしたり、周りに植えた木々を折ったりと。これでは危なくてお客様へのおもてなしも出来ません」  若旦那は深いため息をつく。殿の話によると、去年先代が亡くなったらしく、代替わりによる心労もあるのだろう。それにしても天狗とは。秋也は複雑な顔をした。 「天狗の特徴や何かしらの言動はありましたか」 「天狗の背丈は十代後半ですかね。それと『よくも我らの場所を横取りして』と怒っておりました」 「我らの場所ですか……」  湯治宿が立てられたのは50年近く前。天狗にしてみれば短期間だが、人間にしてみれば長い年月だ。天狗の場所と知らずに宿を建てた可能性はある。 「なるほど。では、天狗と交渉してみましょう。下手に祓っては、あの者達は集団で襲いかねません」 「分かりました。紅原殿、よろしくお願いします」  若旦那と他の二人は畳に額を擦りつけるように頭を下げる。 「そのように頭を下げないで頂きたい。私どもは、仕事をしに来たまでなのだから」  あまり畏まられるのは好かんな。秋也は苦笑いを浮かべていた。  宿の者達が去ると、秋也は呪具の準備を始める。影縄は隣に座り、庭の木々を眩しそうに見つめていた。 「主様、本当に天狗と交渉なさるおつもりですか」 「勿論。天狗の一部には一応つてがあるのでな」  秋也が取り出したのは、変わった装飾の笛。「千風」と名前らしきものが彫ってある。 「それは天狗の笛ですか」 「ああ。初代が天狗から渡された笛だそうだ。私は笛は下手だから、何かあればお前が吹け」  影縄は笛を渡されて、困った顔をする。いかにも特別なものであろうに、私が吹いてよいものか。 「よろしいのですか。大切なものなのでしょう?」 「大切なものだから、お前に預けるのだ」  温かな声音に、影縄も頬が熱くなる心地がする。笛を胸に大切そうに抱えて頬を赤くする影縄に、秋也は思わず微笑んだ。  毎日というからには、周りを散策していれば遭遇できるだろう。まず敷地の四方に結界を張ってみる。若君が療養中は部下が結界を管理していたが、今はそれほど必要ではない。その為か、結界の効力が弱まっていた。 「これで良さそうだな」 「ええ、十分かと」  こうすれば多少は天狗の風を防ぐことが出来るだろう。後は天狗を待つのみか。秋也がなんとなしに空を見上げた時、2つの影が空を横切った。 「おい、術師! よくも邪魔な結界を張ってくれたな!」  声からして年は十代半ばといったところか。伝承にあるような赤ら顔の面を被った2人が空中にいる。その面の奥の瞳は苛立ちが浮かんでいた。 「私は藩主の依頼で此方に参った。天狗殿よ、どうしてこの場所を荒らすのか、伺ってもよろしいか」  秋也は動揺すること無く問う。すると背の高い天狗がばっさばっさと羽音を立てた。 「我らがこの場所を先に見つけたのだ。それなのに、後から来た人間が勝手に独占するとは、言語道断!」 「そうは仰るが、何か印でも付けられましたか」  湯治宿の建設には私の父こと先代が関わっている。仕事に関しては手を抜かない先代が天狗が残した印を見逃すとは考えにくい。それに、散策した時もそのようなものは無かったのだが。すると背の低い方の天狗が、松の木を指差した。 「あの松の木が証拠だ! あれは我々が植えたものだ」  確かに樹齢50年以上経過しているであろう松の木がある。だがそれが証拠だと? 木も見たが、何も印なぞ付いていなかった。それに、此処は藩の領地だ。勝手に子供の秘密の隠れ家めいたことをされても困るのだが。 「なるほど。申し訳ありませぬ。とは言え、此処は藩の武家の拠り所にもなっておりまする。どうか寛大なお心で御容赦して頂きたいのですが」 「後からずかずか入ってきてから容赦だと!? その生意気な口を裂いてやろうか!」  天狗は聞く耳なしだ。仕方ない。秋也は影縄に目配せをする。影縄は懐から例の笛を取り出した。 「仕方ありませぬな。では貴殿らの長に話を伺うといたしましょう」  影縄は笛を口元に当てる。笛に刻まれた名前を見た途端、天狗が地上に降りてきた。 「そ……それは長の笛か!?」 「ということはおぬしは鬼祓いか!」  秋也はええと頷いた。 「現在頭領を務めさせて頂いておりまする、紅原秋也と申します。千風殿とは何度かお会いさせて頂いております」 「そんなことは知っている。待て、長に言うのは……」  やはり、あの霊山の天狗か。鞍馬はともかく、面識がない愛宕の天狗でなくて良かった。それに天狗の様子からするに、長に内緒でこの場所を占領していたのか。これは交渉に使えるな。 「貴殿らが今後、この湯治宿に手出しをしないと仰るのなら、内密にいたすが、如何か」 「ぐぬぬ……」  天狗は不服そうに唸る。 「ですが、それでは貴殿らにとってあまりにも不公平というもの。このような案で妥協して頂けないだろうか」  そこで秋也はある提案を話す。それは天狗がたまにこの地を訪れて湯治宿の者たちを守る代わりに、天狗達の宿での滞在を許すというものだ。これならば、宿の者たちだけでなく天狗にとっても都合が良いだろう。天狗達もそう判断したのか、渋々頷いた。 「それならば……まあ良かろう。俺たちは温泉に浸かることが出来ればそれで良いし」 「兄上がそう言うならば、俺も頷くしかあるまい」 「では、どうぞ此方へ」  何とか交渉には成功したようだ。後は紙に名前を書かせて、契約させるだけだ。秋也は先導しながら、ちらりと影縄を見る。影縄も穏便に済んだことに喜んだのか、優しげに目を細めて笑った。  それから、天狗と湯治宿の主の名前、そして秋也の名を記して契約を形に残す。秋也は一旦里に戻った天狗を見送ると、隣にいる影縄に視線を向けた。 「さてと。影縄、我々も温泉に浸かるするか」 「喜んでお付き合いします。主様」  気づけばもう夕焼けが空を赤く染めている。いつもならば、部下達と仕事の話をしている時間だ。このように影縄と夕焼けを見るのが久しぶりだからであろう。いつもよりも美しく見えた。  露天風呂というのは久しぶりだ。その上、貸し切りというのは何よりの贅沢というもの。だが、ひとつだけ問題がある。それは、私の背の傷跡だ。折角このようなところに来てまで私の背など見たくないだろう。 「影縄。すまぬが、先に入ってくれ」 「主様、もしやお身体の具合が悪いのですか?」  影縄は心配そうに私を見ている。誤解をさせてしまってはいけない。正直に言った方が良いな。 「その……折角の露天風呂だ。私の背が視界に入っては、興醒めするであろう?」  火傷や折檻で醜くなった傷跡だ。影縄は見慣れているとはいえ、きっと見たくないだろう。影縄はむっとした顔になると、私の手首を掴んだ。 「そのようなことなどございません。貴方様と2人っきりで入りたいです。私に寂しい思いをさせるおつもりですか?」  黒曜の瞳が潤み出す。影縄よ、どこで泣き落としのような真似を覚えてきたのだ。私が抗える訳がないではないか。思わず目を逸らしてしまった。 「分かった。一緒に入れば良いのだろう? ただし、嫌になったら言ってくれ。すぐにでも私は上がるからな」  愛している相手だからこそ、不快な思いはさせたくない。だが、影縄が私と入りたいと望むのであれば叶えてやらなければならない。そのような訳で、一緒に入ることになった。  露天風呂は広々とした貸し切り状態。陽が沈みかけているからか、星がちらちらと見える。近くには立派な紅葉の木や花を咲かせた低木が植えられている。  それよりも気になるのは、影縄である。髪を下ろし、胸元を手拭いで隠した姿は艶やかだ。このような姿を私以外に見せる訳にはいかない。本当に、貸し切りで良かったと思ってしまう。 「さあ主様。お背中お流しいたしますので、お座りください」 「いや……それは流石に自分でする」  いくらなんでも影縄の手を煩わせる訳にはいかない。影縄から離れようとしたが、がっちりと腕を掴まれる。こんな華奢な身体のどこにそんな力があるのか。 「お前、そんなに私の背中を流したいのか」 「ええ。大事な方のお背中ですから」   影縄はゆっくりと頷いて答えた。想いを通わせてからであろうか。影縄に「大事な方」と言われる度に、気恥ずかしくなってしまう。熱くなった顔を見られたくなくて、顔を背けた。 「仕方ない。その代わり、私もお前の背中を流してよいか? 愛しいも者の背中を流したくてな」 「有り難き幸せ。では、まずは主様から洗わせてください」  見られたくないが、仕方がない。私は逆さにした風呂桶に腰を下ろした。影縄の手つきは優しく、強ばっていた肩から力が抜ける。そういえば、人に背中を流してもらったことなどあまりないな。時雨にすら見せたくなくて、代わりに影縄と風呂に入らせていた。もし、時雨とこのような場所に来る機会があったら、互いの背中を流し合っても良いかもしれない。……いや、時雨にも見せぬ方が良いだろうか。  秋也はいつの間にか、そのような考え事に耽り出す。その時、背中に柔らかい感触が触れた。 「っ……!? あっ……何だ……!?」  予想しない感触に、背中が仰け反る。口づけを落とされていると気づいたのは、何度も口付けの雨を背に落とされてからであった。 「んっ……いや……まて……」 「主様、気持ち良いですか?」  影縄はうっそりと笑うと、口付けを再開する。秋也は腰に巻いた手拭いを掴んだ。 「影縄っ……どうして……。まさか私を……抱く気か……!?」 「滅相もございません。ただ、主様の背に口付けが出来る程、貴方の背の傷ごと愛していると証明したくて」  もっと他の示し方があるだろうに。影縄の唇が触れる度に、腰が砕けそうになる。 「勃つから止めろ……ん……あっ……」  いや、既に勃っている。とは言え、今のままなら時間が経てば収まろう。これ以上されたら己の本能と戦わなくてはならない。これ以上は耐えられない。秋也は振り返ると、影縄の手首を掴んだ。 「影縄。前を洗うから、糠袋を貸せ」 「あ……そ、そうですね。申し訳ございません。つい夢中になってしまいました」  影縄は顔を羞恥で赤らめながら、糠袋を渡す。危ないところだった。胸を撫で下ろすと、前を洗う。己の硬くなったものが手拭い越しに視界に入ってしまう。私の馬鹿。何と浅ましいのだ。己を罵りながら身体を洗う内に、何とか己のものはそれほど目立たなくなった。 「それでは。主様、お髪を洗いますね」  影縄は私の髪に揉み込み始める。それは桔梗が椿油の粕や布海苔などを調合したもの。なんでも初代が存命の時、天狗の里の薬師から教えられた特別な調合法だとか。お陰で、髪だけは容姿で褒められたことがある。 「主様、気持ち良いですか」 「ああ。お前に髪を洗ってもらうのは久しぶりだな」  若い頃、手の安静を言い渡された時に洗ってもらっていた。あの頃も、頭皮を揉んでもらったっけ。あの頃よりも気持ち良いのは気のせいだろうか。 「そうですね。ただあの頃よりも、少し頭皮が硬くなっておられますね。頭皮が硬いと薄毛になるらしいので、もうちょっと揉ませてもらいますよ」  思わず表情が強ばってしまう。そうか……薄毛か……。この間、あまり歳の変わらない町奉行殿から薄毛に効く霊符は無いかと相談されたな。紅原に薄毛がいないとは言え、私も一応は気を使っておくべきか。ただでさえ、私は美しい影縄に釣り合っていないのだ。薄毛になってしまえば余計に外見の差が広がってしまう。 「薄毛……。それは嫌だな。頼んだ」 「承知しました」  影縄はしばらくの間、私の頭皮を揉む。薄毛のことを考えないようにして、心地好さに身を委ねた。 「主様、流しますので目を瞑っていてください」 「分かった」  目を瞑ると、人肌よりも少し熱い湯が掛けられる。自分ではしているが、人からされると少し子供扱いされている気分になるな。私は完全に洗い流されたのを確認すると、立ち上がる。そして座っていた桶を洗うと、影縄に座るように促した。 「影縄、今度はお前の番だ」 「はい、お願いしますね」  影縄は桶に腰掛けると、髪を己の身体の前に持っていく。すると白い背が露になった。傷1つ無い背中。妖だから当然ではあるが、こうも美しいとは。影縄は人間の私と違って、そこまで洗う必要など無い。背中を洗い流すこと自体がごっこ遊びのようになってしまうのでは。そう思いつつも、糠袋でそっと影縄の背に触れた。 「主様に背中を流して頂くのは、蛞蝓の時以来ですね」 「そうだな。あの時は、ぬめりがしつこくてなあ。少し取るのに難儀した」  ぬめりが取りにくいからと言って、擦りすぎてはいけないと用心したものだ。今はぬめりなど無いので、優しく擦れば良い。白い背に口づけしたくなったが、今してしまえば止まらない気がする。いかんな。影縄の前では一人の男になってしまう。本能を理性で押さえつつ、背を洗う。終えるにはさほど時間はかからない。 「影縄、髪を洗わせてくれないか」 「勿論です。では糠袋をお貸しください」  影縄が髪を後ろに戻した後、彼に糠袋を渡す。私は洗髪の物を手に掛けると、影縄の髪に揉み込み始めた。影縄の髪は天狗の風のせいか、少し砂が残っている。それ以外は指通しの良い艶やかな髪だ。きっと世の女性にも負けぬ、ぬばたの髪。いつまでも触れていたいと思ってしまう。  思わずその一筋を手に取り、そっと口づけを落とす。だが、影縄は前を洗うのに集中していて気づいていないようだ。 「主様、前は洗い終わりましたよ」 「そ、そうか。では今から洗い流そう」  湯を汲んできて影縄の頭上からそっと湯を掛ける。当然のことながら、口づけの痕跡など跡形もない。それどころか、口づけも洗い流されたのだろう。 「やはり、背に残せば良かったか」  独り言をぽつりと溢す。己の跡を付けたいという欲求は、男の性か。いけない。情欲を抑えよと己を叱咤すした。  それから秋也は、影縄の髪を綺麗に洗い流すことに専念し始める。そのせいか、影縄が頬を真っ赤に染めていることに気づかなかった。  やがて髪を洗い終えると、二人で湯に浸かる。湯の温度は熱すぎない。 「影縄、湯加減はどうだ」 「気持ち良いですよ。肌が美しくなりそうな気がします」  影縄は気持ち良さそうに、肩に湯を掛けている。お前は十分美しいだろう。白い肌は月明かりに照らされて、輝かんばかりだ。それにしても、こうも情交以外で互いの裸を見るのは、なんだか恥ずかしいな。 湯のせいか、頬が火照ったように熱い。 「こうやって温泉でゆっくり出来るなんて夢のようですね」 「そうだな。恋人となったというのに、仕事ばかりであったからな」  想いを通わせたはいいものの、仕事ばかりでろくにゆっくりと出来ない。最近は特に、時雨の教育や蒼宮の彼のことで忙しかったのだ。こうして時間に追われる心配をせず、影縄と穏やかな時を過ごせるのは嬉しい。  上空を見れば、立派な月が輝いている。見慣れているというのに、どうしてだか、いつもより美しく見えた。 「酒を持ってくれば良かったな」 「それは駄目ですよ。入浴中の飲酒は禁忌だと桔梗が言っておりました」  影縄に窘められて、苦笑する。そうだった。風呂では血の巡りが良くなる故に、酒の回りも早いのだとか。入浴中に死んだとあっては笑われる。 「では影縄、酒の代わりにお前の唇を味わっても良いか?」  我ながらとんだ言葉を言ったものだ。正直言って恥ずかしい。影縄は耳まで赤くなると、こくりと頷いた。 「主様の……お望みのままに……」  これ以上、恥ずかしがっている顔を見せたくない。影縄を引き寄せると、その唇に己のものを重ねる。影縄がおずおずと舌を絡ませて来たので、それに応えようと舌を絡ませる。 「ふっ……あっ……」  口吸いの合間に聞こえる影縄の甘い吐息、それに理性を抑えられなくなり影縄を抱き締める。湯のせいか、はたまた互いに密着しているせいか。身体中が火照っているような気がした。  それから四半刻後に、風呂から上がる。髪は術で水気を取り、着流しに着替えた。2人が部屋に戻って、すぐ後に食事が用意された。山の幸をふんだんに使った豪勢な料理は食べきれない程ある。秋也は舌鼓を打ちながら、我が子達のことに思い耽っていた。  時雨や桃香が食べれば、どんなに喜んだであろうか。彼らを差し置いて、私が贅沢をして良いものか。持ち帰ることが出来たらどんなに良かっただろう。だが生憎、日保ちしなさそうなものばかりだ。 「主様、もしや時雨様や桃香様のことについてお考えですか?」  影縄に声をかけられ、はっと我に返る。駄目だな。影縄との食事の最中に考え事をしては。 「すまぬな。ついこんな豪勢な料理を口にしてはな」 「いいえ、お気になさらず。私も同じですから。お2人に食べさせることが出来れば、どんなに良いだろうと思ってしまいます」  お前もか。影縄は2人を血の繋がった弟や妹のように愛してくれている。愛しい者が私の大切な者を、それ以上に大切に思ってくれるのがなんと嬉しいことか。 「だが、持ち帰っては傷んでしまう。それでは旅館の者に失礼だから、我々の胃に納めるしかあるまいよ。2人には帰りに土産を買っていこう」 「そうですね。では、お2人が好きそうなものを沢山買って帰りましょう」  互いに微笑み合ってしばしの食事の時間を楽しむ。いつもより食事の時間はかかった筈だが、あっという間に過ぎていった。

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