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序章

序章  2023年6月中旬。  新宿駅周辺にはその日も大量の人間が犇(ひし)めく。その群の中の1人1人がそれぞれ膨大な情報を持った個体であると認識した瞬間、眩暈がしてしまいそうな街。  そこからただ1人、求める人間を探そうなど普通は笑ってしまうような馬鹿らしい行為なのだろう。  「正哉(まさや)お兄ちゃん?」  新宿駅の近くの小さな映画館。大型映画館では上映されないようなマイナーな映画がよく上映されている、未だ昭和の雰囲気を漂わせるミニシアター。映画の上映を待っていた戸田絵里奈(とだ えりな)は、自分のすぐ近くで同じく映画の上映を待っているらしい男にそう声をかけた。  半袖の黒いティーシャツと、まるで工場の作業員が着るようなカーゴパンツを履いているその男。歳は30代半ばだろう。背丈はやや高めで、マスクを付けていても分かる彫りが深い顔立ちと明るい琥珀色の瞳は少し日本人離れしている。  男は目の前の背の低い眼鏡をかけた女を見下ろし、僅かに首を傾げる。  「…………え?」  彼は困惑していたし、それは彼に声をかけた絵里奈も同様だった。  彼が彼女のよく知る“正哉お兄ちゃん”──兄の戸田正哉(とだ まさや)ではないことは直ぐにわかった。  金曜日の18時、正哉は普段ならまだ仕事中のはずだし、こんなミニシアターに足を運ぶような趣味はない。それに正哉は外でその男のようなラフな格好を滅多にせず、髪はいつもきっちりセットしていて、その男のように無造作に肩まで伸ばしていない。  しかしどういうわけか、その男は背格好も顔も正哉に瓜二つなのだ。  何も言わず自分の顔をじっと見つめる、今年で30歳という年齢にそぐわず化粧っ気の無い絵里奈の顔を、男は暫し怪訝そうに見下ろした。  そして彼は唇を開く。  「“まさや”って言いました?」  「は、はい」  「……あなたは、もしかして戸田正哉を知っているんですか?」  彼が口にした問いに、絵里奈は目を見開く。  「正哉は、お兄ちゃんです。あなたは誰ですか?」  自分から声をかけておいて、“誰ですか”なんておかしな質問だ。彼もそう思ったのか、無精髭の生えた口元を僅かに緩ませる。  「僕は西祥哉(にし しょうや)です。あなたのお兄さんの正哉の双子の弟……多分ね」  それは偶然だったのだろうか。血縁が生んだ奇妙な出会いだった。

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