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23 シルシ
バチン!
耳元で鳴り響いた音に、奈智はバチッと眼を醒ました。
ついでに、何故か耳朶が熱を持ったように、そしてじわじわと右だけ痛いような気がするのは、錯覚か?
訳が解らず、ベッドの中で混乱する奈智に今度は舌打ちが降ってきた。
「流石に起きたか……」
見上げた先には、普段自分の部屋に寄り付きもしない、足立家長兄・多聴(たき)。
「ぁ、おはよ、う……?」
お兄さま。手に持っている白い四角ぼったい物はナンでしょうか?
自分の知識にある、ピアッサーという代物ととても酷似しているのは、気のせいでしょうか?
嫌な予感に駆られながら、奈智は熱を持つ自分の右耳に手をやった。
もしかしなくても、何かが付いている。
「あ、あの?」
「ピンでなかっただけ、良しにしろ」
「…………ぇ?」
いやいや、安眠を貪っている所にピアッシングして、良しも無いと思いますが?
本人の了承もなしにやるのって、立派な家庭内暴力では?
さも面倒くさい、仕方ないという風情を保っている兄を奈智は呆然と眺めた。
「あーっ! 多聴兄ぃー、奈智の寝込み襲ってるー!」
どれから文句を付けてやろうかと、頭の中をグルグルしていると、朝っぱらから大音量の沙和の声がそれを遮った。
「襲ってねー。俺が襲うのは、お前くらいだ」
ウソつけ!!
充分過ぎるくらいだ。
そんな奈智の心の声は彼らには届かない。
自分が一体、何をしたというのだ。
彼らには何もしていない。むしろ逆にこちらが被害を被(こうむ)っているはずである。
「…………もう、ヤダ」
彼らが賑やかに部屋を出た後、奈智は泣きべそをかいて布団に突っ伏した。
長兄にも、双子の弟にもそれなりに家族的な愛情はあったつもりだが、現在の奈智にはそれが崩れかかっていた。
本日も寝不足だ。何てったって、起床予定時間の三時間前に叩き起こされたのだ。だが悲しいかな、普段の半分以下の睡眠時間だが目はバッチリと冴えている。
「っ、痛い……」
時間を追うごとにジンジンと熱と痛みを訴える耳朶に途方に暮れる。
しかしそれ以上に、自分の与(あずか)り知らないところで施行されたことによる精神的ショックの方が大きい。とても自宅に居られる心境ではなく、奈智は脱走した。
もう、いっその事、本当に家出してやろうか?
いや、そうなるとお腹の大きな母親に否応なしに負担が掛かる。できればそれは避けたい。
グシグシと涙を拭っていると、不意に鳴りだす携帯電話。
なんなのさ、誰だよ、こんな時に。
着信相手を確認して、奈智の思考は止まった。
『堀克己』。
逡巡しつつ、止まらない着信音に奈智は意を決して通話ボタンを押した。
「は、いっ!」
『……何かあったな』
努めて明るい声を出したのが裏目に出たのか、確信を持たれた言われよう。
「っ、なんにも、無いですっ! 何か御用ですか?」
もう、誰も彼も放っておいてほしい。
『今、何処だ?』
「ホントに、何にも無──」
『東高の近くか』
──え? 何で、解っ……た?
『二十分で迎えに行く。そこを動くな。着いたらまた連絡入れる。いいな』
奈智の答えを聞く前に、通話は切られた。少し寂しさを感じながら、徐々に焦る気持ちが上回る。
──会って、どうする?
幼馴染によって気付かされた自分の気持ちは相手に伝える気は更々ないため、今まで通りに会えばいい。だがしかし、落ち着かない。
かといって、今彼から逃げても、どこも当てもないし、普通から考えれば逃げる理由もない。もう色々どうでも良くなって、奈智は大きな溜め息を吐いた。自分の近くを野球部の集団が通り過ぎていく。
休日も大変だなぁ。……あ、これか。
彼が奈智の居場所が解った理由は野球部のランニングの掛け声だ。
「よく、わかったなぁ。耳いいんだ」
妙な事に感心しながら、近くの石に腰掛ける。
……熱い。
いくら朝方とはいえ、夏の日差しに曝されて熱を吸収した石は焼けるようだ。
疲れたなぁ。
ぼんやりとグラウンドを眺める。
自分は端くれでも生徒会に入っているため、部活は入っていない。両立は難しい。青春だと思う。運動に汗水を流し、友人と喜びを分かち合う。自分には無い楽しみを、少しうらやましく思う。
そういえば、沙和は何かやっているのだろうか? かっちゃんは? それすら知らなかったことに今更ながらに愕然とする。
──俺、知らない事多すぎだ……。
それだけしあわせな生活を送ってきているという意味ではあるが、目を背けてきた見ていない振りをしてきたのではないだろうか?
知ろうとしないことと、興味が無いのでは雲泥の差がある。
逃げてばっかりだ。
自己嫌悪に陥っていると着信が入る。本当に来てくれたことに対する安堵と申し訳なさ。
奈智を発見した彼は眉間に皺を寄せた。
「もしかして、ずっと炎天下に居たのか?」
「……え」
日陰に引き込まれ、少し待ってろと、どこかへ行ってしまう。
無意識に広い背中を追った眼の近く、汗で張り付いた髪をそよ風が撫でる。
見上げれば、自分を日の光から遮ってくれる青々とした木の葉が揺れる。
「涼しい……っひゃ!?」
急に首筋に当たったヒンヤリとした感触に堪らず声を上げ、肩を竦めるのは同時。
「そうだろ。水分補給しろ。顔色悪い」
「あ……すみません」
こめかみ辺りの痛みは考えすぎではなく、熱中症か。
首に当てられたスポーツ飲料を手渡され、喉を潤す。
「お前は、自分のことに頓着なさ過ぎだ」
「ぅ……」
「お、なんだ、開けたのか? 穴。奈智は藍の方が似合いそうだが」
大きな手で右の耳朶を弄ばれる先には、ちいさな紅い石が埋め込まれている。
「あ、朝、寝てたら、気付いたら兄に開けられてて」
今朝の情景を思い出し、無意識に目の奥が熱くなってくる。
再び沸々と湧き起こる、怒りと悲しみ。そして、痛み。
「…………さすが、多聴さん……」
「知ってるんですか?」
やれやれと溜め息をついて空を仰いだ彼はポツリと呟いた。
「……暑いな」
堀ちゃん先輩の提案により、炎天下の木陰ではなく、涼しいクーラーの効いた部屋へと移動することとなった。
「あ、そういえば……」
「どうした?」
相手が開錠している姿を見上げながら、奈智は思い出した。前に彼の自宅のカギを渡されたままだった。
「カギ、預かったままで。やっぱり、返し……あ」
そう言いながら焦って彼からの誕生プレゼントを探し出せば、重みでスルリと手から滑り落ちる。
拾い上げてくれた彼は眉を顰めた。
「……これは?」
「え……?」
意味が解らず首を傾げていると、部屋へ通される。
席を指定され、コップに入れられた冷えた麦茶を勧められるままに口をつける。
「これは?」
チャリ。
音を立ててキーリングがテーブルに置かれる。
再び同じ質問をされ、訳が解らない。
しかも、彼は普段の温和な表情ではなく、どこか冷たい。
「あの? えっと、この前貰ったキーリング、です」
「……ここにあるのは?」
示された物に奈智は改めて思い出した。
確か、少し大きめな紙と一緒に……
「押し付けられた、ユビワ、デス……」
「ほーう。それで?」
自分の斜め右側で頬杖をつきながら、意味深に目元を細める彼が何故か怖い。責められているような気がするのは、自分の気のせいだろうか?
奈智の背筋に嫌な汗が伝った。
確かあの時は、前に助けてくれた兄の友人が何を血迷ったのか届けとこの光る輪っかを土産に、中々にオカシナことをほざいていた気がする。
給料三か月分のに変更してくると置いていかれたモノをどうしようかと途方に暮れていると、双子の弟は何でもないことのように言い放った。
『換金するか質にでも入れればー?』
そして、行き場の無い輪っかはキーリングに通され、己の運命を無言で待つ。
──俺、先輩に何か、した……?
「あ、あの? せんぱ」
「奈智」
「は……はい」
自分の頬に寄せられる彼の手。
「あ、あの……?」
鳴り響く、着信音。
沙和、だ。
しばらく眉間に皺を寄せて無言だった彼は手を離した。
「……奈智、携帯貸せ」
「あ、はい」
溜め息をついた堀ちゃん先輩が通話ボタンを押すのを奈智は黙って見上げていた。
「──沙和。随分といいタイミングだな」
『オレとなちは双子だからー!』
自分の行いが相手に筒抜けという事か。全国の双子が聞いたら卒倒ものである。沙和と自分には今の所そんなテレパシーの類はないはず。
「……理由になってねぇ。いい加減にしろ。お前ら兄弟、奈智に過保護すぎだ」
『前に堀ちゃん先輩がゆった「逃げられないよう、傍に置く」ってことはできないけど、似たような事はできるもーん』
「あれは言葉のアヤだ」
互いに不機嫌さを隠そうともしない声音に、奈智は再び麦茶入りのコップに口を付けた。
どんどん室温が下がっているような気がするのは、冷房の所為だけではないはず。
カラカラに渇いた喉に程よく染み込む水分。
先ほどの熱中症とは違い、今度は知らず緊張していたらしい。
目の前の彼の視線に。
そっと息をついて、背後にあるベッドへ背を預けて辺りを見回す。
久しぶり、だ。
自分が体調を崩して、厚かましく彼に縋りついて上げてもらったとき以来。変わっていないように見える。
あたたかさがある。
こう、包んでくれるような。
力を抜いた身体は、忘れていた疲労と睡魔を呼び起こす。
人の話し声もどこか遠い──。
「今度、付け替えてやるよ。俺のに」
瞼を閉じて意識を手放した奈智は、耳朶を弄る手とその言葉を知らない。
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