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サード2

「……待て。今と正反対だろ。そっくりだからって、もしかして間違えてるのか?」 「多聴兄ぃがオレたち間違えるワケないじゃんー。だぁーかぁーらぁー、多聴兄ぃはぁ、なちが好きなのぉー」  オレの昔話なんて知らずに、スヤスヤ眠ってる奈智の髪を梳く。  本人は知らないけど。  そういえばこの前も捻ったの左足だったから、クセとかにならなきゃいいけど。 「その後、多聴兄ぃとオレとケンカしてぇー……どーなったっけ?」 「俺が知るか」  可愛く首をかしげても、素っ気無い言葉しか返ってこない。本当に奈智にしか甘くない男。 『馬鹿め、いい加減に頭を使え』 『……う、』  手当て終了した奈智に対して、腕を組んだ長兄は威圧的に見下ろした。 『ちょっとぉー、なちイジメないでくんないー?』 『頭の無いヤツは黙ってろ。大体、誰のせいで怪我してると思ってる』 『それって、オレが原因だっていーたいワケ?』 『それ以外に何がある』 『っあ、俺が……!』  険悪な雰囲気を醸し出した二人に、焦った奈智の声が遮る。 『ぁあ? 怪我人は黙ってろ』 『ちょっとぉー? なちに当たらないでぇー、オトナ気なーいー。オレなんにもしてないもんー! 多聴兄ぃが護身術とか、無理やりなちにさせてケガさせたんでしょー』  普段から嫌がっている双子の兄に対して、長兄は空手だのケンカだのと教え込んでいたのは知っていた。それのケガをコチラに擦(なす)り付けられても困る。どうせ、練習に無理につき合わせて痛めたのではないのか。  嫌がる奈智に対してエゴを働いているのはどちらだ。  ムキになって声を上げた沙和に相手は、さもわざとらしく溜め息をついた。 『……ここまで能無しだったとはな』 『はぁー?』  腕を組みなおして見下した長兄は、眇めた目を更に鋭くさせて吐き捨てる。 『「メス犬」「ビッチ」「淫乱」』  どれも沙和を指して陰で囁かれている言葉の一部ではある。ソレは知っている。 『身に覚えがないとは言わせない。注目とは同時に嫉妬もあるだろうことは、その低脳でも知っているはずだ。周りの言葉の全てが正しいとは思っていないし貴様に興味もないが、同じ顔がもうひとつあるのを忘れるな』  困惑のまま彼の視線と指の先を捉えれば、何とも言えない表情の奈智を捉える。 『連れ込まれ未遂8、待ち伏せ5、物の紛失数知れず、たかが同じ顔だというだけでこの間抜けが受けた被害を貴様はどう償うつもりだ』 『──……ッ、』  いくら自分達兄弟の中ではそれぞれ個性が確立しているとはいえ、この年になっても近しい友人たちからも時々間違えられる互いの容姿。自分の行為によって、双子の兄が間違えられて要らぬ誹謗中傷を受けないとも限らない。  ちょっと考えれば、すぐに解ること。  ──でも。  声を漏らした沙和は多聴に向き合う。 『知ってるッ! けど、さっ! 多聴兄ぃなんかに言われたくない!』 『図星を指されて、癇癪(かんしゃく)を起すのはガキだな』  淡々と指摘され、更にカチンと来る。 『なんっにも知らないクセにッ! それに、空手とかケンカとか教えてるクセに、なちってばぜんっぜん使ってないじゃんっ! 何でケガしたのっ』 『ソレはコイツが馬鹿なだけだ。貴様は守られてばかりでいいのか? とばっちりが掛かっても、コイツは何も言ってないだろう。どっちにしろ、逃げ足ばかりだがな』  ヒートアップする二人の言い合いに間に挟まれた奈智はキョロキョロしながら、次第に焦りを滲ませていた。 『あ、あの、二人とも……』 『お前は黙ってろ!』 『なちは黙っててー!』 『ナベ焦げる!』 『『……は?』』  目を点にした二人の視線そっちのけで、当の双子の兄の注意はコンロ上のシチューに向けられていた。 『……そうだけどさ、違うもんっ! 多聴兄ぃのバカ!!』 『多聴兄は沙和のことが心配なんだよ。もしも沙和が危険なこととかに巻き込まれないか』  不完全燃焼のまま幕を下ろした言い合いは、その後も尾を引いていた。 『うっそだー!』 『多聴兄は解りにくいだけだよ』  周囲が徐々に志望校を決めていく中、双子は──特に沙和は未だ決めあぐねていた。付き合いのいい奈智は引き摺られながらも学校見学を一緒に回ってくれ、行く先々の学校の生徒は人目を引く仲の良い双子を見ては遠巻きに騒ぎ、ゲッソリとしてしまう。 『えー……そんなコトな──』 『ごめんなさい、ちょっとお聞きしてもいいかしら?』 『あ、はい?』  二人で学校見学の後、話しながら歩いていれば見知らぬおばあさんから声を掛けられる。一緒に地図を眺めながら丁寧に対応をしている奈智を見て、自分との違いを改めて知らされる。本当に、同じ顔であるはずなのにこんなにもある差。  手持ち無沙汰になった沙和は、近くの境内の階段に腰掛ける。見上げる空は暮れかけ。  なんとなく覗いた先に居たのが、目の前の男──堀ちゃん先輩。 「『燻(くすぶ)ってるくらいなら、ケンカ吹っ掛けてみろ』」 「……あぁ。あの時か」  ややあって返された相槌に、堀も覚えていたのだと知らされる。  ゴリゴリ。  手元から発せられるミルからの音とともに広がる匂い。あの時も、確か神社とコーヒーというチグハグな組み合わせに首を傾げたものだ。慣れたしぐさで豆を挽いていく手元を眺めながら、沙和はそういえばと口を開く。 「今更なんだけど、どーしてあそこに居たのー?」 「コーヒー飲んでたに決まってるだろ」  豆を挽いていたのだから当たり前といわれればそうであるが、どうも納得いかない。 「あそこの湧き水は美味いからな」 「あ、まぁーねぇ」  器具を持ち込んで、ヒッソリと建物の陰に隠して使っていたらしい。神様も神主もさぞかしビックリだろう。更に驚くことは、柄の悪いお兄さん方も大人しく飲みに訪れていたということ。どうやら臨時カフェと化していた境内では不可侵条約というワケの解らない暗黙の了解があった。 「ある意味、平和だったのかねぇー」  当時を思い出して長身を見上げれば、さも当然かのように顎を引かれる。 「俺は平和主義者だからな」 「ウソツキー! 堀ちゃんセンパイに唆(そそのか)されたからオレ、多聴兄ぃにケンカ売ったのにぃー」 「まさか、あの人の弟だとは思わないだろう」  軽くため息をつきながら、コーヒーミルの箱から挽いたばかりの粉を取り出すのを視線で追いかける。行儀をどうのと注意する人物も居ないのでついた肘に顎を乗せて、沸かしていた湯をまるで糸のようにフィルターに描いていく男の手元を見守る。 「そっかなぁー?」  家族や兄弟以外から比べるとその様に映るのであろうか。  考え方の違いはそれぞれであるものの、沙和から見れば一卵性双生児の奈智ほどではないが、自分と多聴もそれなりに外見的に似通っている所もあるとは思うのだが。 「あの人は基本的に核爆弾だからな。──確か、砂糖二つだろう。ほら」  小首を傾げた沙和は差し出されたコップの茶色の水面を眺めた。 『連れ込まれ13、待ち伏せ10、物の紛失数知れず』  一番上の兄を前にして、負けないように気合と共に腹に力を入れた沙和は口を開いた。 『この一ヶ月、本当は奈智が受けるはずだった数』 『聞いてやる。』  腕を組んで冷たい視線のまま微動だにしない美丈夫に、一瞬緊張を飲み込む。 『多聴兄ぃには、全部守れるの?』  大切な子であると思うのは、何もこの兄なだけではない。  自分にだって、大切な大切な片割れだ。 『人気がでることは注目が集まることだけど、だから目があるからこそ手は出しにくいよ』  大きなカモフラージュ。  陰でコソコソと行いたい者に対しては大変有効。 『言うことはソレだけか』  さも下らないとばかりに言い放たれ、カチンとくる。 『多聴兄ぃはいっつもそうやって──』 『夕飯できたよー?』  兄の部屋の扉を開けて、ヒョッコリと小動物かのように顔をのぞかせた奈智に思考も言葉も遮られる。 『二人ともどうしたの? 珍しいね』  渦中の人物ではあるが、如何せんちょっと本人の前ではしたくない話題。しかも突き詰めればある意味下品で、楽しくない話だ。 『……あぁ、こいつの進路について、「西高」の詳しい情報を、な』  多聴と対峙ばかりに集中して奈智の出現をハナから考えていなかったため、どうしたものかとイヤな汗を背筋にかきつつ試行錯誤していれば、固く組んでいた腕を解いた長兄がさも面倒くさそうに口を開いた。 『沙和、西高に志望校決めたの?』 『その様だな』  急に何を言いだすのかと、沙和は長身を睨み付ける。 『前に見学行った時、「おもしろそうな人が居る」って言ってたもんね。よかったね、行きたいところ見つかって』 『……そ、そうだ、ねぇー』  ふんわりと微笑む片割れに目を奪われながら、大変不本意ながら沙和も同意を唱える。顔が引き攣っていないという自信がこれっぽっちもない。  もともと参考にと取りあえずの状態で学校見学に行っただけで、今の自分の学力では数学以外はどうにもこうにも手の届かない進学校だ。何を思って、この長兄がソレを口にしたのかは不明であるが、いいことでないことだけはさすがに鈍い沙和にも簡単に想像がつく。 『決まったのも良かったけど、それよりも、多聴兄と沙和が仲良くなって安心した』  己の手を合わせてひとり納得したのか、その表情に更に言いようのない罪悪感を負った沙和を露知らず、双子の兄は『ご飯冷めちゃうから、早く来てね』と言い残して、とっととドアを閉めてしまう。  静まり返った室内で、相手の溜め息が大きく響く。 『……西高が志望校だって、オレ初耳ぃー』  嫌味ったらしくジットリと睨(ね)めつければ、尊大な答えが返ってくる。 『せっかくの助け舟に対して、いい根性だな』 『ダレも頼んでなーいー!』 『志望校もやりたいことも未定で、あやふやな考えならばどこも不合格に決まってる。白黒ついて手っ取り早い。感謝しろ』  とても繊細な精神状態な灰色受験生に対しての声掛けではない激励に、沙和の堪忍袋の緒が音を立てて切れる。そして、落ちる、滑る、不合格は誰もが知る禁句であるはずを抜けぬけと言う、その神経が信じられない。 『確定だなんて、シッツレーしちゃう! ソレってオレに中卒になれってことー!?』 『学歴の問題じゃない。腹を括れと言ってる』 『ワッケ解んない! いい、オレ多聴兄ぃに負けないからッ!!』 「……まだ続くのか? その下らない馴れ初め」  さも興味なさそうに頬杖をつく男に、沙和は眦(まなじり)を吊り上げる。 「堀ちゃんセンパイがなちいじめたからでしょー!」  未だベッドで丸くなっている双子の兄に眼を向ける。まだ起きない。一体、どれだけくすぐり倒したというのだ。 「そのバツ!」  馴れ初めを聞かされるのが、どんな罰なのか甚だ意味不明であるがそれなりに付き合いのいい先輩は溜め息一つで帳消しにした。 『おい、あいつらイイな』 『あぁ』  どこからともなく聞こえる潜められた声に、不自然ではない程度に沙和は辺りに目を配った。  あの集団、か。 『沙和、こっちに湖きれいに見える場所があるって。行ってみる?』  二ノ宮に家庭教師として付いてもらい、人生三大奇跡に数えられる西高の合格をもぎ取った沙和は奈智と共に卒業記念と合格祝いを兼ねた旅行に来ていた。受験に感(かま)けてあえて放置していたが、あの後長兄とは決裂したまま。どこをどう取ったのか、奈智は高校合格を機に仲良くすると勘違いしたまま、間違いを正す気力もなくそのままにしている。思い出すのも腹が立つが、今はソレを忘れようと遊びに来た途端コレだ。  密かに頭痛を覚えながら、パンフレットを広げている双子の兄を見つめる。ナンだろう、この魔性。 『沙和?』  返事のない自分を訝しがったのか、小首を傾げた奈智は目を瞬かせる。 『なっちぃー、温泉入って、オレのど渇いちゃったー!』  声音を上げて、先ほどの危惧には気付かなかった振りをしていつも通り抱きつく。 『何が欲しいの?』  仕方ないとばかりに、ちいさな溜め息で自分を容認してくれるそのやさしさを逆手にとって細かな要望を伝える。コレでしばらくは戻ってこれないだろう。 『解ったよ。でも、こんな雪降っるところじゃ寒いから、近くに建物あるみたいだしソコで待ってる?』 『なちったら、やっさしぃー!』  パンフレット手がかりに、もと来た旅館へ続く道に消える背を見送る。 『きゅーけーじょー』  ややわざとらしく声にして、自分に注意を引きつける。コレくらいで騙されてくれるのならば、頭の方はそれほどではない集団だろう。  ただ問題なのは、自分ひとりで五人も相手ができるか、という所だ。  今まではどんなに結託していても三人。そして同学年か少し上の先輩程度であったが、それがどう見積もっても五つくらいは年が離れている。もしかしたら成人を超えているかもしれない。それなのに未成年のしかも男に手を出そうという魂胆はどうなのだ。体格も違う上に、パッと見では地元民。土地勘がない沙和にとって、不利ばかりが浮かぶ。  ──腹を括れ。 『……知ってるよ。』  一番思い出したくない人物の言葉がチラつきながら、ちいさく悪態をつく。  知ってる。  うかつな奈智を心配して、嫌がる彼に多聴がケンカを教えていることを。少しでも自分の身を守れるようにと、厳しい反面やさしい眼差しで追っていたことも。その視界に入れてもらえなくて、拗ねている自分も。だから必要以上に、すぐ上の兄である奈智に甘えていた。  でも、自分にはどちらも大切なのだ。手放せない、選択できない。  それが決められない覚悟だとからかわれたとしても、譲れないものはある。  はじめは長兄が見守るのは同じ顔をしているのに、どうして自分ではないのかとちいさな子供のように癇癪を起したが、違った。自分と、奈智では。  自分が奈智を守る方法は多聴が伝授した方法とは異なるが、自分にしかできない方法──同じ容姿をした、自分にしか。 『ちょっといいかな、ボク?』 『……ぇ、』  急に視界を遮られ、沙和は心の中で舌打ちした。  これでは何もできないし、まず相手の反応が解らないのが一番困る。 『……、ゃ……な、に?』  怯えて、語尾と手の振るえを演出しつつ、意識して眉を下げる。 『かっわいー。おにーさんたちとイイ事しよーなー』 『ハハッ、怯えてるってのー』  目隠しを取ろうとするその手も阻まれまとめられた。 「『そうして、駆けつけてくれた多聴兄ぃに助けられて、二人は愛を深めました。』メデタシメデタシ~!」 「……やっと終わったか」  両手を重ねて締めくくった沙和に、男からの反応はかなり薄かった。 「ちょっとー!? オレたちのめくるめく愛憎劇に対して感想ソレだけー?」 「長かった。」  もうちょっとデリカシーとかいうものがないのだろうか、この男。  振り返って頬を膨らませた沙和に、すでに半目になってたぶん聞き流していただろう堀ちゃん先輩は戯れに奈智の髪を梳く。 「興味ないからな」 「なちにも話したことない、すっごぉーいぃヒミツなのにぃー!」  そうだ。大雑把な所は知っているかもしれないが、この双子の兄には詳細を説明した事はない。いつも不本意ながらに巻き込まれ、彼の立ち位置からすればなんて不当な扱いだと怒られかねないが、生来の性(さが)かはたまた自分たちに挟まれた環境のせいか。 「オレが全部の元凶。オレ、ワガママだから。多聴兄ぃから大切な奈智取り上げて、でも多聴兄ぃは護るヒトが欲しいんだよ」  自分を頼ってくれる存在を。いつまでも沙和が子供の振りを続けているのは必要だからだ。一見他人に興味のない多聴は実は甘えさせるのも好き。だがしかし、奈智の成長もそれなりに受け入れようとしている。だから自分は騙す、総てを。  ──まぁ、堀ちゃんセンパイは素直に騙されてくれないけれど。 「……親か。あの人が大人しく、たとえカケに負けたのだとしても、さすがにソコまで従順じゃないだろう。考えすぎだ」  意味を掴みきれなくてやや困り顔で目の前の男を仰げば、いつの間にかベッドに腰掛けていた。少し考えた後、手近にあったコーヒーを引き寄せ、空いていたカップに注いでいく。 「これがお前、奈智、あの人」  先の二つはセットらしいカップに砂糖と、クリープをそれぞれ入れ、残りの種類の違うカップはブラックのままに。 「沙和はこっちが好きでコウなっているのを引き離したと思ってるんだろう?」  ミルクたっぷりにブラックを近づけ、そして離す。 「で、ココに自分が入り込んだ、と」  間に砂糖入りを置く。 「あのややこしい性格は理解できないが話を聞く限り、保護欲とか家族愛とかそんな風に聞こえるぞ」  でも、護る人が欲しいんだよ。  のどまで出掛かった言葉を飲み込む。 「いくらカップが同じだからとはいえ、ミルクと砂糖じゃ全く違うだろ。砂糖がどんなに似せようとしてもミルクのまろやかさは出ないし、逆にミルクが砂糖の甘さを出そうとしても無理だ。それに気付かないほどコイツも馬鹿じゃない」  ブラックを示して、ヒタリと見つめられる。 「さっきも自分で言ってただろ、たとえ双子だからといって間違えないって。俺にはお前達カップルに関しては興味ないが──」  言い置いて、奈智の頭に手を置きながらの思いの外真剣な眼差しに息を飲む。 「まず大前提でそんなカケとも言えないモノに乗るのも、たとえ負けたとしても、自ら旅行先の雪山に来るような可愛いらしい性格してないだろう。違うか?」  ……違わない。  俯いて、唇を噛んだ沙和に短い溜め息を落として男の声が響く。 「今、ナニで揉めてるか知らないが来てるぞ」 「……ぇ?」  顎でしゃくられてつられて視線を向ければ、確かに見覚えのある車。 「行って来い」  やや投げやりな言葉を聞くのも、別れの挨拶もそこそこに沙和は駆け出した。 『ザンネンだったな、逃げられなくて』 『……っく、は……』  せめて人数を減らしたいと足掻いた沙和の思惑も突き崩された。奈智が飲み物を買っている時間も限りがある。それまでに決着を付けたかったのだが。  汚れに塗れている自分を、双子の兄のその澄んだ眼に映させたくない。  抵抗の制裁を頬に受け、熱を持ったように存在を知らしめる。  剥ぎ取られた服はどこかへ放られ、寒さなのか怖さからなのか不随意運動を指先や身体に覚えながら、これからのことを考えてゲンナリする。さすがにこの状態で奈智に会うのだけは避けたい。今までは連れ込まれた場所で息を潜めたりしてやり過ごしていたのだが、今回はそうもいってられない。それに下手したら、奈智にまで危害が及ぶだろう。 『……ん、』 『いい恰好だな』  日頃の行いの悪さのしっぺ返しがココに来たのだと、適当に解されただけの後口にヒタリとオトコを感じて観念すれば、思いもよらない声に瞠目する。 『コレが貴様が言う「護る」か。失笑すら起きん』  一番近くに居た男が蹴り飛ばされ、沙和は長身の一番上の兄を呆然と眺めていた。  ……ど、して?  この男がこの場に立ち会っているのか。  沙和の二の腕をつかんで問答無用で立ち上がらせ、多聴は眉を潜める。 『汚い』 『……ッ、どうせ! 触んないでよっ!!』  カッとなって手を振り払おうとするも阻まれて、むしろ逆に引き寄せられる。 『俺に喧嘩を売っておいて、いい度胸だな』  吐息ごと吹き込まれるようにして耳元で低く潜められる。 『なん──んむぅ……ッ』  抗議は飲み込まれた──兄の唇に。  口唇を、歯列を、上顎を、下顎を、引き攣れる痛みを持つ頬の内側を、滲む血も、逃げる舌も、総て強制的に男に引きずり出される。 『……、ハッ』  何もない雪の中、ケンカ中の兄と白い吐息を吐き出しながら、ナニをしているのだろう。  荒い息が整いきる前に、力が抜けきった身体が何かに包まれているのに気付かされる。 『こいつは連れて帰る』 『あ……、うん』  いつの間にか佇んでいた奈智は理由が解らないなりにも頷いたらしい。 『な、なち!?』  一体ドコから見ていたのだろう、この片割れは。  多分手にしていただろうペットボトルのジュースが足元に転がっており、しきりに目を瞬かせている。 『ちょっと、離してー! オレはなちと旅行続け──』 『こんな跡作りやがって。コレをあいつの前で曝すつもりか』  嘆息とともに耳元に吐き出された正論。  そうだ。これから腫れがひどくなって、奈智に心配をかけてしまうだろう。  頬に添えられた掌に冷たさを分けられる。  そうして共に連れて行かれた、この手のぬくもりに。 「多聴兄ぃー! どーしたのー?」 「ついでだ」  まぁそうだろう、この恋人のことだ。堀ちゃんセンパイが考えているような行動はそうそう起してくれないだろう。  疑いもなく助手席のドアを開いて、シートに身体を預けながら気付く。 「あ。まだ、あの子起きてなくて、置いてきちゃったー」  ついついこの男が来ていたのが、珍しくてうれしくて。 「起してくるねー、ちょっと待ってて──」 「おい」 「? ナニコレ?」  放り投げられたちいさな箱に首を傾げる。 「一周年」 「いっしゅーねん? ……あ、」  あのあとすったもんだの末、数年すれ違っていた互いのシコリというのは中々溶けなかった。結局沙和と多聴が正式にお付き合いをはじめたのは、それから一年後の今日。 「あいつはいい。行くぞ」 「……ありがと、多聴兄ぃ」  広げた包装紙の中に佇む、彼からのプレゼントに沙和は心から微笑んだ。 「もう、いいぞ」  掛けられた声に、奈智は鈍(なま)った身体をベッドから起した。 「寝てた方が、いいモノ聞けただろ」 「うーん。騙していたみたいで、あんまりいい気持ちはしなかったです」  途中までは本当に眠り込んでいたのだが、いつしか沙和の声に漂っていた意識を浮上させ夢の世界から戻ってきた。無言でタヌキ寝入りを促したのは、堀ちゃん先輩の指だ。 「知ってはいましたが沙和も結構考え過ぎというか、意外と卑屈で」 「普段からは想像できないな」  そうだろうか? 「多聴兄は好きな子ほど虐めたいタイプなんですよ」  沙和はソレに見事にドンピシャだ。つかず離れず、時にキツイことを言い放ち、反応を見て楽しむ。そして、本当の危機には何を差し置いても真っ先に駆けつける。 「面倒くさいな」  とても嫌そうに顰める顔に苦笑する。 「本人に言ったら、絶対に怒られますが」  撫でられる頬に意識を向けながら、テーブルに並べられたカップを眺める。  沙和は何を思って、あの多聴との喧嘩の数年間を過ごしたのだろう。もっと自分が彼らのために動いてあげていたら違っただろうか。そうすれば、少しでも寂しさを埋めてあげることができただろうか。  視線の意味に気付いたのか、腰を引かれると同時にブラックと砂糖入りのコップが近づけられる。 「コイツは俺のだ」  あぶれたミルク入りは、彼ののどに流し込まれる。 「……あ、ちょっと、先輩?」  蒼いシルシを食まれた後、耳元で潜められる言葉に目を見開く。  いつの間にか裾から入り込んだ、あたたかな掌が素肌を弄(まさぐ)る。  吐息を漏らした唇は塞がれ、目元を染める。 「……こども、ですか?」  まさか、オトナであるはずの彼からそんな発言があるとは。 「上等」  声を潜めてひとしきり笑えば、微笑んだ彼から再び催促が。 「解りました。もう付いていきません」  諸手をあげて反省すれば、その手を取られる。 「……そうだな、俺以外の人間には心を開かないで欲しいな」 オシオキがくすぐりだけとは限らないと、身を持って知らされた奈智だった。

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