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サード

「っなっちー! ごっめんねぇー、遅くな──」 「静かにしろ」  遠慮なく元気に先輩宅の扉を開け放ち、沙和はその光景に固まった。さも迷惑そうに眉間に皺を寄せて口元に人差し指を立てる己の先輩と、彼のベッドにぐったりと沈んでいる双子の兄。足を忍ばせて近寄れば、その目尻には涙の跡。 「……ナニ、やったの」  いくら自分に無関心で、他人にはほとほと優しいあの奈智が選んだ相手とはいえ、沙和自身もある程度二人の仲は応援していたとしても、この子に危害を加えるのならば容赦しない。急速に臓物が冷えるのを自覚しながら、知らず漏れる低い声。  ゆっくりと振り返って、その高い身長を睨みつける。 「オシオキ」 「……」  端的に返ってきた言葉に更に視線を鋭くさせる。  先輩後輩の間に流れる、肌を刺す痛い緊張。  嘆息した男は降参とばかりに諸手を上げた。 「──付いていきそうだったんだよ、怪しいヤツに」 「……また?」  あまりにも人を信用しすぎる片割れに張り詰めていた緊張を解すが、コレまた別問題が上がってしまう。以前の夏の教訓を活かせてはいないだろう、全く。 「ああ。だから、くすぐりの刑」 「……は?」 「よく見てみろ、服着てるだろ」  なるほど、着衣はしている。顎をしゃくられた先、まさか無体なことをしたのではないかと危惧した沙和の心配損となって、ホッと胸を撫で下ろす。  どうやら、オシオキに涙を流しながらひとしきり暴れた後、疲れて寝入ってしまったらしい。何て子供だろう。出生に数分しか違いのない兄に、沙和は肩の力を抜いた。 「平和だねぇー」 「そうでもないぞ。心配性のどっかの小舅(こじゅうと)がいるからな」 「それって、多聴兄ぃー?」 「お前も、な。二人も居て敵(かな)わん」  心底嫌そうに渋面を作る堀を笑う。 「ふーん? オレはともかく、多聴兄ぃは手ごわいよー。なちにゾッコンだからぁ」 「お前への間違いだろ」  さも興味無さそうにコーヒーのカップを煽る先輩に沙和は口を尖らす。 「えー? 違うよぉ。多聴兄ぃが好きなのは、なちだもん。ちょっと前まで、オレと多聴兄ぃって、すっっごぉく仲悪かったんだよー」  あの時期は奈智命名・暗黒時代と怖れられ、記憶の彼方へ封じ込まれている。 「……ウソだろ。」 「ホントー。なちが居てくれたからねー」  呆然と声を漏らした先輩を笑って、サラサラと流れる双子の兄の髪に手をやる。  同じ母と父から同時に誕生し、同じ様な顔だけれど違う。性格は特に。 「ちぇー、なちが起きるまで、ヒマツブシかぁ」  苦笑した沙和は薄く開いた奈智の唇をひと撫でした。  ちょっとならば、あの暗黒時代を垣間見てもいいかもしれない。  いつからだったか。  無視して、無視されて。互いに視界に入れないよう、まるで存在に気付かないかのように振る舞って。そんなよそよそしい多聴と沙和を、出生順と同じように間に挟まれた心やさしい奈智は何も言わずにそれぞれ接してくれていた。危うくともそれとなくバランスを保っていた均衡が崩れたのは──確か、彼がケガをした時から。  今よりも身長も低くて、ちょっと声も高くて。中学までは同じ学校に通っていた双子は、見た目はそっくりだったが今のように性格はもう既に全く違っていた。男女関係なく囲まれて賑やかに騒ぐ沙和と、それなりに仲のいい友人と日常生活を静かにヒッソリと送る奈智。 『なぁーちぃー!』  夕食作りのため台所でナベをかき回していた双子の兄に沙和が飛びついた時、いつもと違う反応が返ってきた。 『……沙和、今はダメッ!』  しばらく声もなく悶絶した奈智は、珍しく厳しく沙和を嗜(たしな)めた。 『どぉーしたのー?』 『何でも、ないから。とりあえず、お皿出して。シチュー入れる』  首を傾げつつ指示されたことに対して遂行しようと食器に手を掛ければ、直後背後で悲鳴が上がる。 『ッう、わっ!? ちょ、ちょっと、多聴兄!?』  いつの間に帰ってきたのか、渋面の長兄が問答無用で双子の兄を俗に言うお姫サマ抱っこでソファへ担いでいく後ろ姿。 『いつからだ』 『ッわ、からなぃ……』  散々暴れたせいか、息を乱して涙目になった奈智は多聴の詰問から逃れるようにして視線を外す。揺れてちいさくなる語尾に、コレは何かを隠している。さすがの沙和にもピンと来る。 『……ッ!!』  見れば赤く腫れている患部を突かれて、声もない。なるほど、先ほどはどうやら沙和が抱きついたため、足に負担が掛かっての反応だったらしい。 『うっわぁー、痛そぉー』  思わず呟けば、はじめて沙和の存在に気付いたかのように眉を潜めた長兄は言い放つ。 『おい、そこのデクノボウ。さっさと救急箱持って来い』

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