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会見の後
会見が終わった後、敏雄はオフィスに戻って原稿を書こうと、自分のデスクに座った。
パソコンの電源をつけて、新規にデータを開く。
さて、なんと書いてやろうか。
あのとき右腕に受けた傷の仕返しをするべく、敏雄はキーボードを叩こうとした。
腕の傷はすっかり癒えて目立った後遺症も無いが、縫合痕 が色濃く残っている。
石垣に至っては胸骨が折れて、いまだに入院中という有り様だ。
さあ、なんと書いてやろうか。
しかし、浮かせた手は思うように動かない。
それはなぜか。
敏雄自身が、よくわかっていた。
南はあまりにも堂々としていて、立派だった。
自分は負けたのだ。
いや、こんなことに勝ち負けなどない。
けれど、言葉にできない敗北感が敏雄の胸に残って、酷い胸焼けを起こし、それが手を止めている。
政治家だろうと、俳優だろうと、今の今まで取材してきた相手は、どいつもこいつも逃げてばかりいた。
カメラマンが目の前に現れて、記者が近づいても知らん顔するか、何も言わずに逃げるだけ。
そうして後になって、このままでは自分の立場がまずくなるという状況になって、ようやっと公の場で謝罪するのだ。
そんな連中なら、たとえ愛人がケガをさせられたとしても、知らん顔を決めるだろう。
そこから恨みを買って、愛人に週刊誌に売られるケースだって珍しくはない。
敏雄はそんな連中、散々見てきた。
しかし、南は違う。
リスクを犯してまで、こちらに抗議してきたのだ。
まして時期は12月。
多くの年末特番を控えていて、これから稼ぎどきという時期だ。
あまりにも大きいリスクを犯してまで、前科がつく覚悟を決めてまで、彼は襲いかかってきた。
それに比べて自分はどうだ。
大の男2人がかりで女に詰め寄り、女が逃げれば負傷させ、それに抗議してきた相手に負傷させられれば、そのことを逆恨みした。
なんと情けのないことか。
もし、記者会見で南が少しでも動揺してくれたなら、敏雄はこんなに戸惑うことはなかった。
結局、記事は書けたには書けた。
しかし、完成度はあまりに低いものだった。
録音して会見の質疑応答をそのまま書き写しただけの、当たり障りの無い内容。
いつもなら、タレントが何をしたか、どんなことを言ったか、どんな様子だったか、事細かに書いてその悪事をよりクローズアップして書くのに。
南を陥れるほどの文が、何ひとつとして出てこない。
少しぐらい言い訳したり、あわてふためいてくれたなら、まだ指も進んだのに。
それから敏雄は、戦意喪失した兵士のように何をする気にもなれなくなり、敗北感と惨めさに打ちのめされた敏雄が、辞表を提出するのにそう時間はかからなかった。
「と、まあ、こんなカンジ。そこから2年くらいはプータローやってたな」
敏雄は懐かしむような、悲しんでいるような顔をした。
「そうなんですね……」
青葉は何と返せばいいかわからず、敏雄の右腕を見つめた。
あの傷跡は、言ってみれば敏雄の失態の証のようなものだ。
冷静沈着で仕事ができ、いつも自分を引っ張ってくれていた大先輩の、若い頃と挫折と失態をこんな形で知るとは思わなかった。
「春也、軽蔑しただろう?」
「そんな、とんでもない」
これは、間違いなく青葉の本音だ。
軽蔑どころか、何でもそつ無くこなす完璧な上司だと思っていた敏雄の人間的な部分を垣間見た気がして、青葉は不思議な安心感さえ抱いた。
「俺はヤロウ2人がかりで若い女にケガさせたような、どうしようもねえ悪党だぜ?」
「もう過去のことじゃないですか」
青葉は立ち上がると、敏雄の隣に座り込んだ。
「ぼく、恋人の過去のことをとやかく言う気はないです」
青葉は、敏雄の頬を両手で優しく包み込んだ。
普段なら、こんなことをするのは敏雄のほうだ。
青葉の瞳が、敏雄を射抜くように見つめる。
やっぱりこの瞳には、何をしても勝てない気がする。
「優しいなあ、お前は優しすぎるよ、春也」
「ふふ、そうですかね」
青葉の両手が離れていく。
それと引き換えに顔が近づいてきて、唇を重ねられた。
「ねえ、そんな優しくていい子なぼくに、ご褒美くれませんか?」
唇を離すや否や、青葉はそんなセリフを吐いた。
こんな誘い文句をどこで覚えてきたのか。
ひょっとして、自分と過ごすうちにそういう駆け引きを身につけたのだろうか。
敏雄はウブでかわいくて真面目な青葉が好きだったが、こんな青葉も悪くはない気がした。
「いいぜ。ほら」
敏雄は着ていたシャツをめくり上げると、薄い胸を青葉の目に晒した。
それから1ヶ月後。
横居は謹慎が明けて、現場に復帰することになった。
前ほどとはいかないが元気を取り戻したようだったし、無茶苦茶な取材もしなくなった。
さすがに、アレほどの騒動が起きたともなると、大人しくならざるを得ないらしい。
青葉に突っかかることもしなくなったので、敏雄は安心して2人と接することができた。
「あ、そういえばね、敏雄さん」
いつものように現場に向かう途中、ライトバンの助手席に座った青葉が話しかけてきた。
「うん、どうした?ションベン行きたくなったのか?」
「やだなあ、とっくに済ませましたよ、そんなの」
敏雄の冗談に、青葉はクスッと笑った。
「それならよかった。で、どうした?」
敏雄は上機嫌でハンドルをきった。
「そろそろひとりで現場出ないかって、編集長から言われました」
「おっ、出世したんだなお前。まあ、ここ最近、修羅場の連続だったし、お前はそれを乗り越えてみせたものな。頑張れよ!」
「はい!」
青葉が笑ってみせる。
以前と変わらぬ、屈託のない笑顔だ。
かつては横居もこんな顔をしていた。
ひょっとしたら、いつかはこの笑顔が曇ってしまう日が来るのかもしれない。
それでもいまは、青葉の成長を喜びたい。
敏雄は微笑みながら、どこまでも続く道路をライトバンで走り続けた。
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