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第1話
今日、兄が結婚した
『瑞希 、お前がいてくれたから、兄ちゃんはここまで頑張れた。いつもに兄ちゃんを支えてくれて、ありがとうな』
白いタキシードに身を包んだ兄貴が、俺をまっすぐに見つめてる。
マイクに乗った兄貴の声が微かに震えると、兄貴の隣で綺麗な花嫁さんがそっと白いハンカチで目元を押さえた。そして、同じテーブルに座っていた親戚たちの何人かも、示し合わせたかのように同じ動きをする。
兄からの手紙。
結婚式的には、感動の1シーンに違いない。
早くに両親を亡くした兄弟が、手に手を取り合って立派に成長。
幼い頃こそ親戚の厄介になっていたけれど、高校を出た兄はすぐに仕事を見つけ、弟と共に二人暮らし。
十八歳と十四歳の暮らしは決して楽なものではなかったけれど、しっかりもの同士で協力し、しっかりと生活を成り立たせていた。
そして兄は今日という好き日に美しい花嫁を迎え、これからは新しい家庭を築いてゆく。大学生の弟のほうも無事に大手メーカーの内定を得ていて、春からは立派な社会人。
ゆくゆくは弟のほうも結婚して家族が増えてゆくだろう。これから先も、お互いの手に手を取り合って、賑やかな未来を築き上げてゆくに違いない——……
目を潤ませながら『ふたりとも頑張ったわね』『お兄さんのおかげね』『瑞希くんの結婚式も楽しみね』と口々に俺の肩を叩く親戚たちの脳内には、きっとこんなストーリーが展開しているに違いない。
そりゃそうだ、どこからどう見ても美談だから。
しっかり者の兄が俺という弟を立派に育て上げ、次は奥さんと一緒に子どもを育てていく。
頼もしくてかっこいい俺の兄貴。やさしくてしっかり者で誠実、ギャンブルもタバコもやらない真面目な男。しかも顔までイケメンときてる。
完全無欠の俺の兄貴は、未来も完全無欠でいてもらわないと困る。
兄貴の未来は輝かしく幸せなものでないと、俺が嫌だ。
だからこそ、今日で俺のこの気持ちは封印しなくちゃいけない。
俺という汚点が、兄貴の人生に薄汚い痕跡を刻むことのないように。
頬を濡らす俺の涙は覚悟の証だ。
兄貴への想いを断ち切る覚悟の。
だけど、結婚式に参加してる親戚のジジババどもの目にはきっと、兄を祝福する清らかな涙と映っているに違いない。
凛々しい瞳に涙を浮かべ、俺に歩み寄ってくる兄貴の笑顔はものすごく綺麗だ。
眩しそうに目を細め、俺の頭を撫でながら、ほとんど体格の変わらなくなった俺にハグをする。小さいころからいつもこうして、兄貴は泣き虫だった俺を抱きしめて、慰めてくれた。
『大丈夫、瑞希はいい子で、強い子だ』『しっかり泣いて、しっかり元気になろうな』……まるで母親のように、まるで父親のように、俺を抱きしめ、力をくれた。
兄貴の背中に腕を回しながら、俺は花嫁を見た。
涙で揺らめく俺の視界の中、花嫁は射抜くように俺の顔を見つめていた。
……多分、この会場の中で、彼女だけは気づいている。
兄に対して、彼女と同じ感情を抱く人間が、ここに存在していることに。
その相手が他ならぬ実の弟であるという事実に、彼女は心底嫌悪感を抱いているに違いない。
+
「瑞希、みーずき。おい、飲み過ぎだって」
「んん……」
披露宴の帰り道にコンビニで手当たり次第酒を買い込み、よそ行きのスーツを脱ぐのも忘れて浴びるように酒を飲む。普段からさほど酒に強いほうじゃない俺だけど、今日ばかりは飲まずにいられるわけがない。
兄の結婚記念日は、俺にとっての失恋記念日。
長い長い片想いを無理やり断ち切った、決断の日なのだから。
「……あれ? 夕翔、なんでいんの……?」
「なんでって、お前が泣きながら電話してきたんじゃん。寂しいから来て〜って」
「はぁ……? 俺、そんなこといった……?」
「ま、言われてないけど」
「なんそれ。うざ」
酔った身体には重たいスマホを持ち上げて履歴を確認してみると、どうやら俺は確かに自分で澄田 夕翔 を呼び出していたらしい。部屋の合鍵を持っている夕翔が勝手に家に入ってくる頃には、俺はとっくにへべれけで、そんな記憶は一切なかった。
夕翔は空き缶をテキパキと片付けたあと、散らかったワンルームの小さなテーブルに突っ伏している俺の隣に膝をつき、着込んだままのジャケットを脱がしにかかってきた。
「ほら、これ高かったやつだろ? シワんなるからほら、脱げ脱げ」
「ん……んん、どーでもいいよ……しわんなろうが俺のゲロで汚れようが……」
「そんなこと言って、あとから後悔すんのお前だから。おら脱げ」
「んん」
半ば無理やりジャケットを脱がされ、そのままラグマットの上に転がされた。だが、脱がされたジャケットのほうは丁寧に皺を伸ばされ、きちんとハンガーに掛けてもらっている。
なんとなく恨めしいような気持ちで吊るされたジャケットを見上げていると、夕翔は俺の上に馬乗りになり、今度はネクタイを緩め始めた。
「……あー……なんか、見慣れた光景」
「はいはい、それはまた後でな。今は脱げ、脱いでさっぱりしろ」
大学に入学してすぐ、夕翔とはマッチングアプリで知り合った。
何度かやりとりしたメッセージで、妙に生活環境が似ていることで親近感が生まれ、会ってみると同じ大学。しかも、学部は違えど同学年。
初めはその偶然に大いに面白みを感じたし、会って話してみると楽しかった。
その上、お互いこの手のマッチングは初めてで、それも自分たちにとってはラッキーだったなと盛り上がったものだった。
経済学部の夕翔は頭をド金髪にブリーチしていて、いかにもバカそうなチャラ男といった風体だ。バイト代はすべて流行りのファッションに注ぎ込んで、いかにも若者らしく人生を謳歌しているタイプの陽キャに見えた。
ノリが軽くて話しやすい反面、夕翔が何を考えているのかわからなかった。
だが、俺にははそれがとてもちょうどよかった。
俺はただ単に、兄貴の代わりに抱いてくれる相手を求めていただけ。一人の相手と関係を深めるつもりなんてさらさらなかった。
一、二回飲みに行ったあと、お互いにとって初めてのセックスをした。
身体の相性は悪くなかった……というかむしろ良く、こいつとは今後も遊んでもいいかもしれないと思っていたら、夕翔のほうから「セフレなら俺にしときなよ」と言われた。
初対面の相手とヤってなんか怖いことになる可能性はゼロじゃないんだから、俺にしとけばいいじゃん——と、処女を失ったばかりの俺の腰をマッサージしながら、夕翔にそう説得されたのだ。
セックスが丁寧でよかったこと、そして、アフターフォローまでしてくる夕翔の優しさに絆された格好で、俺たちはセフレになったのだった。
そして気づけば、三年半の付き合いだ。
「お兄さんの結婚式行った帰りに、どうすりゃこんなグダグダになれるんだよ」
「……いや……ほら、俺にとってさぁ、ゆいいつのかぞくだし……」
「それならもっと嬉しそうに酔っ払えるもんじゃねーの? 目、真っ赤じゃん。まさか泣いてた?」
シャツまで脱がされてタンクトップ一枚という姿になった俺の目元を、夕翔が拭う。重たい瞼を持ち上げて夕翔を見上げると、心配そうとも訝しげとも読み取れる表情で俺を見下ろす夕翔と視線が結ぶ。
当然、兄貴への気持ちは夕翔に話したことはない。話せばドン引かれてしまうことは目に見えていたし、俺の心の奥底にある最も大切な感情について、夕翔に話す必要などないだろうと思っていた。
だから今俺が何に対して悪酔いしているのかを夕翔は知らない。
だけどこうして、俺の世話を焼いてくれるこいつの優しさに、俺はただただ甘え切っていた。
「……夕翔、したい」
「はぁ? やめとけって、ヤりながら吐かれたらやだよ俺」
「挿れなくていいよ……俺がしゃぶるだけ」
「ええ? 瑞希、なんか変だよ?」
「いいからいいから……ほら……ベッド座って」
ぐいぐいと夕翔の手を引いてベッドに座らせ、俺はふわふわした頭のまま上半身を起こした。夕翔の膝の間に割り込んで跪き、あいかわらずの困惑顔で俺を眺めている夕翔の顔を上目遣いに見上げてみる。
「あれ……? 黒髪になってる……?」
ツーブロックの金髪パーマ頭だった夕翔が、こざっぱりとした黒髪短髪になっている。
額をスッキリ出しているせいで、涼しげな上がり眉や、実は綺麗な二重瞼などがずいぶんクリアに見えるようになっていて、まるで別人。間違えるような好青年だ。
「いや、当たり前じゃん。来週から職場でバイト始まるし」
「そっか。……なんか、兄ちゃんみたい……」
「え?」
ふっと湧いたそんな思考に、俺はぎょっとして顔を引き攣らせた。
今日は兄貴への想いを断ち切る日と決めたはずなのに。まさか、セフレの夕翔の姿と兄がダブってしまうとは。
俺はパッと目を逸らし、夕翔が買ってきてくれていたらしいペットボトルの水をラッパ飲みした。いくらか頭がスッキリしたような気がする。
「な、なんでもない。あれだよな……なんとかっていうマーケティング会社。金髪じゃダメなん?」
「別になんでもいいって言われてるけどさぁ、一応社会人として?」
「ふーん……似合ってたのに金髪」
「マジ? 瑞希がそんなに金髪好きとは知らなかったけど?」
別に金髪が好きなわけじゃない。ただ、黒髪が見慣れないだけだ。
意外そうに目を丸くする夕翔の顔も見慣れているはずなのに、別人に見える。よくよく見ればもちろん兄貴には似ても似つかない顔立ちをしているのに、黒髪というだけで今日ばかりは兄を思い出してしまうらしい。
「瑞希は地毛が茶色いからいいよなぁー、染めなくてもオシャレだし」
「……まぁ、金かかんなくていいよね」
「瑞希もいっかい金髪やってみれば? 意外と似合うかも……っ」
髪に触れようとした夕翔の手を、俺は無意識のうちに荒々しく弾いていた。
だってそこは、さっき兄貴が撫でてくれたところ。
最後に頭を撫でられた感触を今でもありありと思い出せるくらいなのに、夕翔に触られてしまったら、その感覚が消えてしまうような気がして……。
「あっ……ご、ごめん」
「……なぁ、何だよ。瑞希、やっぱおかしいって」
「……ごめんって。なんでもないからさ」
当然、夕翔は気を悪くしてしまったようだ。
再び訝しげにひそめられた眉間のしわが、額を出しているせいではっきりと見て取れる。不愉快そうに怒った顔など初めて見るような気がする。
気まずさはあるものの、セックスになだれ込んでしまえばあとは会話などしなくても済む。
さっさと始めてしまおうと、俺は夕翔のジーパンのチャックに手をかけようとした。……だが、突然ぐっと顎を掴まれて上を向かされ、俺は思わず息を呑む。
こんなふうに、夕翔に荒っぽいことをされたのは初めてだからだ。
若干怯みながら見上げた夕翔の瞳には、いつもののほほんとした穏やかさのかけらもない。さっき手を払いのけたことで、そんなにも怒らせてしまったのだろうか。
だが、夕翔はそんなことで怒るようなやつではなかったはずだ。疑問を抱きつつも、文句の一つでも言ってやろうと息を吸い込んだところで、夕翔の冷たい声が降ってくる。
「なぁ、もう終わりにしよっか」
「……え? えっ、何を……?」
「俺らのこういうの。お互い就職先も決まったしっつーことで」
「ちょっ……な、なんでだよ!! 急にそんなこと言われても……」
「仕事し始めたらこうやって会いにくくなるし。それならさ、同じ会社で相手見つけるなり、もっと都合のいいやつ見つけるなりすればいいんじゃね?」
さー……っと、全身から血の気が引いていく音がした。
足元が抜け落ちていきそうなほどの不安感が込み上げて、全身が震えて呼吸が乱れる。
兄貴への想いを断ち切ると決めた日に、夕翔にまで離れて行かれてしまったら、俺はひとりになってしまう。
こんな日にひとりでいるなんて耐えられない。怖くて怖くてたまらない。
俺はゆるゆると頭を振りながら、夕翔のシャツを握りしめた。
「待っ……待ってよ! そんな……ひとりになるなんて、俺……っ」
「ははっ、なんだそりゃ。ひとりになりたくないから俺に縋んの?」
「え……だって、だって俺らせフレだし。ずっとうまくやってたのに! どうして急にそんなこと言うんだよ!」
捨てられる恐怖に耐えきれず縋りつく俺を、夕翔はキッと鋭く睨みつけてきた。
その鋭い視線も、突き放される経験も、夕翔との穏やかな関係性の中においてはあまりに異質なもののように思えて不安が増し、俺は震えた。
すると夕翔は苛立ち混じりのようなため息を吐くや、タンクトップの胸ぐらを掴んできた。
「ひとりになりたくないって、どの口が言ってんだよ。この三年、俺のことなんかこれっぽっちも見てなかったくせによ」
「……えっ……?」
「瑞希って好きなやついるよな? 実の兄貴に、惚れてるんだよな!?」
「っ……」
今最も弱っている部分を真っ直ぐに貫かれ、呼吸が止まった。
胸ぐらを掴まれたままきつい視線を受け止める俺の反応を見て確信を得たのか、夕翔は「マジかよ」と小さく呟いた。
「……どうして」
「どーしてもこーしてもあるかよ。兄貴の話するときのお前の顔見てりゃわかるに決まってんだろ」
「……っ、うそだ!」
「嘘じゃねーし。スマホに兄貴の写真撮り溜めてることも、電話で兄貴と話してるとき、何より幸せそうな顔してることも、俺は誰より知ってんだよ!」
「な……」
夜な夜な兄貴の写真を眺めるのは、大学生になって一人暮らしを始めてからの俺の日課だ。時折かかってくる兄貴からの電話に心を弾ませていることも事実だ。
だけど、絶対に気づかれていないと思っていた。兄貴を交えて顔を合わせざるを得なかった花嫁以外には……。
「兄貴のことは……別に、そんなんじゃない。だって、家族だし。家族で、親みたいなもんだから、俺は……」
「いつだったか、寝てるお前にちょっとイタズラしてやろうと思ってフェラしたことがあったんだ。そんときお前、俺にしゃぶられながらなんて言ったと思う? 『兄ちゃん、すき、気持ちいい、もっと』って言ってたぞ。それでも、ただの家族っていえんの?」
「なっ……」
カッと全身が熱くなり、俺は思わず夕翔(ゆうひ)の腕を払いのけて立ち上がった。
そのままフラフラと後ろによろめき、壁に背中をぶつけてしまう。
とんでもない恥部を無遠慮に暴かれていたことに対する怒りとともに、これ以上ないほどの羞恥に全身を苛まれ、眩暈がした。震える唇を拳で押さえつけながら、俺は夕翔を睨みつけた。
『寝込みを襲うなんてありえねーだろ』『この変態が!!』などと夕翔を罵る言葉が腹の奥底から込み上げてくるけれど……俺は、それを口にすることはできなかった。
何より一番気持ちの悪い変態は、俺。
俺を育ててくれた優しい兄貴に恋をして、そればかりか、兄貴を性の対象として見ていたのだから。
高校に入ったあたりから、俺は兄貴に抱かれる妄想を何度も何度も繰り返した。自分で後ろを慰めるだけじゃ足りなくて、もどかしくて、切なくて、寂しさを埋めるためにウリに手を出そうと本気で考えたことさえあった。
バカなことをしようとするたび、妄想ではない実物の兄貴の笑顔を見て我に返った。
俺の気持ちを知ったら兄貴はどう思うだろう。この笑顔を永久に見ることができなくなるかもしれない——……そう思うたびに俺は恐怖のあまりゾッとした。兄貴の弟でいるために性欲を殺し、必死で正しい道を歩いてきたつもりだった。
一人暮らしを始めたきっかけでタガが外れて、マッチングアプリに手を出したけれど、兄貴への想いを抑えるためには必要なことだからと自分に言い聞かせて……そして、夕翔と出会った。
寂しい時に甘えられて、ムラッとした時に抱いてもらえて、たまに飲みに行ったり、一緒に課題をしたり、どっちかの家で飯を食ったりする。夕翔との距離感はあまりにも心地が良かった。
報われない兄への気持ちを、夕翔にずっと癒してもらっていた。
この三年半という長い時間、誰よりも俺のそばにいてくれた。……だけど俺は、まるで夕翔のことなんて考えちゃいなかった。
——俺はバカだ。夕翔に甘えて、我儘を言いすぎたんだ。……捨てられて当然か。
ひとりになるのが怖いなんて言って夕翔に縋ったけれど、そんなのこっちの身勝手だ。夕翔を利用し、三年半も振り回し続けた罰として、孤独を受け入れる時が来たのかもしれない。
「わかった。……終わりにしよう」
そう口にした途端、身体が鉛のように重くなり、壁に背をつけたままずるずるとその場に座り込む。
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