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その先

 ついに、辰紀が寮を離れる日がやって来た。今日の目覚めは早い。この日は朝食の後にすぐシフトが入っている、と言うと悲しそうな顔をしたので、揃って早起きをする約束をしていたのだ。  部屋に備え付けてある音の小さい目覚まし時計のアラームを止め隣のベッドを見ると、大きな荷物二つの前で正座をして何やらを握りしめている辰紀がいる。おはよう、と声をかけると、取り繕ったような笑顔でおはようと返してきた。 「今日でお別れだね」 「ああ、寂しくなるな」  余裕のあるふりをしようとして、単調なしゃべり方になってしまった。年上がいまいち格好がつかないので、2人揃ってぎこちなくなってしまう。こういった些細なことに気が付くたび、いちいち別れを実感する。 「……ねえ、リョウくん。僕、後期から一人暮らしすることになっているんだ」 「やっぱり、通うの大変だったか」 「うん。これね、引っ越し先の住所」  半ば押し付けられるように渡された紙を開いてみる。東京で生まれ育ったリョウには、書かれている住所でどこの大学に通っているのか見当がついた。男子が通える私立大学で文系学部のある学校は、その辺りにひとつしかない。 「……お前は、オレを信用しすぎだ」 「だめ?」  上目づかいの要領でこちらをまっすぐ見つめられると、けじめを付けろと言われているような気分になった。いい加減、年下に甘えているというのもやめにしなくてはいけない。これまで散々アプローチされていたのには気が付いていたつもりである。今度は、こちらが勇気を出す番だ。 「いいよ。……だったらさ、オレの恋人にならないか」 「え……」 「オレ、お前のことが好きなんだ。ちゃんと、本気で。お前が良ければ、こんな信用ならねえ奴だけど、そんな男の隣にいてくれないか」 「……嬉しい。喜んで」  花がほころぶような笑顔を見せた辰紀。今までどんな思いをさせていたのかということが、ダイレクトに伝わってきて罪悪感が胸を刺す。同時に自分を2年も忘れずにいたという一途さを実感し、大切にしなくてはという使命感すらも湧き上がってくる。 「本名、教えてくれないかな。愛する人の名前が分からないなんて悲しい」  リョウは部屋の中にいるとはいえ隣近所に聞こえることを警戒し、恋人にだけ自身の本名を耳打ちした。ついでに、名乗りにくくなったきっかけの事件のあらましを語ってやる。あまりに悲惨で連日報道されていたので、そんな事件があったことは記憶にあると辰紀が言った。犯人の名前は苗字を聞けば思い出せる、ということも加えられる。 「……やっぱり、今後も“リョウくん”で良さそうだね」 「な?」  甘く柔らかな彼の声で紡がれる自身のあだ名の響きは、とても心地良い。優しい笑顔で味わうように何度か繰り返されるのが妙に官能的で、心の中で己の本名を唱えているのだろうと思うとたまらない気持ちになる。  せっかくなので、朝食の前に海辺を歩こうと誘う。ベタなことしか思いつかないことが残念だが、どうしてもこの土地らしい思い出も作りたかった。 外に出ると、緩やかに潮風が吹いていた。海面にはさざ波が立ち、他の人の姿は見当たらない。再び寂寥感に襲われる。 「懐かしいね。あの時もさ、最後の日に誘ってくれたよね」 「そうだっけか」 「忘れたの?」 「いーや、忘れてねえよ。……忘れるもんかよ」  2年前の別れの日、辰紀が神妙な顔をしていたので海辺に連れて行った。その時涙ながらに「好きかもしれない」という曖昧な言葉を貰ったのを覚えている。ちょうど、同じ場所であった。当時は嬉しいというよりも、焦りが勝っていた。あの頃は、誰かと特別な関係になることを恐れていたのだ。迷惑をかけることになるうえ、リョウ自身、まだ人を信じられるほど傷が癒えていなかった。でも今は、少しずつ傷が癒えつつある。既に本名で働き口を見つけることが出来るようになっているのだから。 「オレさ、この名前これで最後にしようと思ってるんだ」 「本名に戻るの?」 「ああ。もう、本名で働けるようになったからな。……この土地では偽名を使ってたから、もう働けねえ。これで最後だと決めて、お前に会えないか来てみたんだ」  格好悪い本音をぶちまける。少し離れた場所を歩いていた恋人が心底嬉しそうな笑顔を見せたので、リョウまで嬉しくなる。大袈裟なくらいに感情表現をする辰紀は、見ていて飽きない。 「良かったよ、またタツに会えて」 「僕も。あのままなんて、嫌だもん」  2人は爽やかに笑いあって、急ぎ足で寮へ戻った。朝食を15分でかきこんで、今日の仕事先へ向かうことになる。まるでただ朝寝坊した日のようで、ここでの日常的なルーティンをこなしているにすぎない。それが、寂しさを和らげてくれているようでありがたかった。  リョウが寮を出る時に、電車の時間まで余裕のある辰紀も外まで見送りに来た。辛気臭い雰囲気はなく、至って普通の日常的な会話をする2人の間を、乾いた涼風が駆け抜けていく。 「またね、リョウくん。必ず連絡するね。ここのバイトが終わったら、うちに来てくれるの待ってるから!」  2年前の「またね」とは違って、あっけらかんとした明るさの声色。満面の笑みで腕を大きく振っている。行ってらっしゃい、と朗らかな声で送り出されたリョウは、意気揚々と最後の偽名での仕事先まで向かって行った。

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