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第1話

 ――アイ……愛しいわが子、よく聞いて。  優しく心に届いてくるのは懐かしい母の声。鈴を転がすようなやわらかな響きとともに、温かい指先が頬に触れてくるのを感じ、アイは安らぎに包まれる。 (母さん……)  ――あなたはきっと幸せになるわ。いつの日かあなたの前に、天が結び合わせたつがいが現れるの。アイは、その人と家族になるのよ。  ――母さん、つがいってなぁに?  幼い頃の自分の声が続く。  これは夢? それとも過去の記憶?  どちらでもいい。母の声が心地よく、とても安心できるから。  ――つがいというのはね。アイのことを誰よりも好きになって、大切にしてくれる人のことよ。アイもその人のことを大好きになるの。  ――母さんと父さんみたいに?  気品に満ち美しいがどこか儚げな母が、嬉しそうに微笑む。  ――そう。だから、これからどんなことになっても、アイは独りじゃないの。あなたのつがいが、きっとどこかにいるのだから。  ――でも僕、ひとりにならないよ? 母さんと父さんが一緒にいるもん。  包みこむような微笑が、少しだけ悲しげに陰った。  ――母さんと父さんは、あなたとずっと一緒にはいられないかもしれない。でもアイ、たとえ何があってもね、あなたはシルラの神子。このシルラの里と、シルラたちを守っていかなくちゃならないの。  だから強くなって、と母は両手のひらでアイの頬を包む。  ――つらいときも、悲しいときも、信じていて。あなたのつがいと、いつか巡り合えること……幸せになれること……。  慕わしい面影がぼやけ、次第に薄くなっていく。 (母さん……っ)  消えゆくその姿に手を伸ばそうとして、アイは目を開けた。  ザリザリした感触の舌で、涙に濡れた頬を撫でられているのに気づく。二頭のシルラが両側から、静かな瞳でアイを見つめていた。吸いこまれそうな銀色の目は思慮深く、獣でありながら賢者のような知性を湛えている。 「エド、ルゥ……ありがとう」  いつも傍らにいてくれる従者たちの頭を撫で、アイは体を起こした。  白く細い幹が美しい木々の中に見えている、神秘的な蒼色の湖。そのほとりで六頭のシルラが腹這いになり、ゆったりした時を過ごしている。彫像のように動かないその姿は神々しく、彼らを見慣れているアイですら見事な銀の毛並みに見惚れてしまう。  シルラはこのシルヴェリア国建国よりさらに昔、この世の平和と人の幸福を守るために天から遣わされたという伝説の神獣だ。大型の猫科動物めいた外見だが、その体は獅子よりも大きく、オスは頭に美しい二本の角を生やしている。特徴的な瞳は落ち着きに満ち知的で、じっと見つめられると不思議と迷いや不安が消え心が凪いでいく。  シルラは人を癒し、支え、助けるために天から贈られた獣だ。そのシルラと人を結ぶ懸け橋となる神子として生まれたことを、アイは誇りに思っている。  まばゆい銀色の髪と、月の光のように輝く大きな銀の瞳は神子の証だ。前の神子である母もそうだったが、シルラを総べる神子は代々銀の髪と瞳を受け継ぐ。 (母さん……)  うたた寝をしながら、また幼い頃の夢を見ていたようだ。アイは、母の手のひらの感触の残る頬にそっと手を当てる。  母はいない。父もいない。ここ、シルラの里でともに暮らしていた仲間は、もう誰一人残っていない。十年前からはアイと、十二頭のシルラがいるだけだ。  今はシンと静まり返っているこの湖のほとりに、かつては響いていた仲間たちの笑い声が耳によみがえってきて、アイはそっと目を閉じた。聞こえてくるのはやはり、微かな風の音だけである。 「エド、ルゥ、大丈夫だよ」  心配そうに身を寄せてくるシルラたちを撫でてやり、アイは自分を励ますように力強く頷いた。口元には明るい笑みが戻っている。  ――だから、アイは独りじゃないの……。  ――あなたはきっと幸せになる……。 「うん、母さん。僕はきっと、幸せになる」  もちろん今だって幸せだよ、とつけ加え、アイは空を見上げる。  幸せだ。青い空のさらに上で、両親も仲間たちもいつも見守ってくれているのを感じるから。そして何より、家族のように大切なシルラたちがそばにいるから。だからアイは今も、独りではない。

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