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第2話

 天から授かったシルラたちとともに、神子として人々に癒しをもたらす務めはとてもやりがいがある。この満たされた日々の先に、もっと素敵な未来が待っていると信じられるのだから、恵まれていると感じるくらいだ。 (僕のつがい……どんな人なのかな)  八歳のときから独りこの里で暮らしてきたアイは、恋をしたことがない。誰かを好きになるという感情が、どんなものなのかもわからない。  けれど母が言っていたように、いつか運命の人と巡り合い、好きになることを想像し楽しみにしながら、毎日笑顔で生きている。ときには孤独を意識し涙ぐんでしまうときも、急に寂しくなってしまったときも、とにかく笑ってさえいれば気持ちが晴れやかになってくるし幸運が引き寄せられることを、この十年間でアイは学んでいた。  くつろいだ表情で寄り添っていた二頭のシルラが、いきなり顔を上げた。湖のほとりに寝そべっていた獣たちもすばやく身を起こし、皆同じ方向――誰にも知られていない里の入口のほうを見る。 「どうしたの?」  アイも緊張する。シルラの聴力は人の十倍だ。危機を察知する能力にも長けている。  何かが起きた、と身構える間もなく、長く甲高い警戒音のような鳴き声が届いてきた。見張りを任せたシルラたちのものだ。 「行くよ!」  アイは獣たちに声をかけ、声のするほうに向かって駆け出した。  シルラの里は深い森の奥に位置し、そこに至る道は巧みに隠されている。シルラを奪い、その底知れぬ力を悪しきことに利用しようとする者から身を潜めるためだ。鬱蒼とした森の中は迷路のようになっており、危険な野生の獣もいる。そうやすやすと入りこめるはずがないのだが……。 (まさか、グルが……っ?)  シルラの天敵である獰猛な魔獣の恐ろしげな姿が浮かび、血の気が引いた。アイは足を速め、飛ぶように森を駆け抜けていく。 「っ……!」  茂った木々の間にちょうど里の入口が見えてくるあたりで、見張りのシルラ四頭が一人の人間と対峙しているのが目に入り、アイは息を呑んだ。 (軍の人……っ?)  アイよりは年上に見えるがまだ若そうなその男は国軍兵士の軍服を身に着け、手にした剣を構えている。対するシルラたちは怒りの唸りを上げながら身を屈め、今にも男に飛びかかろうとしている。本来は見事な銀色の毛並みが今は漆黒に変化し、知的で穏やかな瞳も黒く変わり爛々と輝いているのを見て、アイは青ざめた。 「待って!」  両方に向かって叫びながら、一触即発の緊迫感をはらむただ中に飛びこんだアイは、シルラたちを背にかばうように立ち、男に向かって両手を広げた。  振り向くと、アイとともに駆けつけた残りのシルラも、剣を向ける男を警戒し牙を剥きはじめている。その毛色が変わる前に、アイはシルラたちを宥めるように手を上げた。 「駄目だよ!」  そのひと声で、冷気すら感じられるほどの殺気が獣たちから急速に消えていく。 「あなたも剣を納めてください!」  アイは兵士に向かい、声を張り上げる。 「この子たちを怒らせないで!」  彼は鋭い目を細め、刺すような視線をアイに向けてきた。  男らしく硬質な顔立ちは整っているが冷酷な印象で、近寄り難さがある。軍服を着ていてもわかるたくましい肉体からは、目に見えぬ炎のように闘気が燃え上がっており、氷のような無表情と反している。一歩でも近づけば、躊躇なく一刀両断にされそうだ。 (軍神様みたいな人……)  アイは息を詰め、男を見つめる。  凛々しく雄々しいが、冷たく容赦がない印象だ。その昔、圧倒的な強さで敵国の攻撃から国とシルラを守り、守護神と崇められたという伝説の軍人の姿をその兵士は彷彿とさせた。 「おまえはシルラの里の者か」  冷徹な声が響いた。怯えても怒ってもいない、抑揚のない低音が耳に刺さる。 「そうです! お願いですから剣をしまってください!」  怯んではいられない。シルラたちを誰にも傷つけさせず、また、誰も傷つけさせないようにするのが、神子としてのアイの役目だ。 「凶獣を前に武器をしまえと言うのか」  凶獣のひと言が胸に刺さりアイは唇を噛むが、決然と顔を上げる。 「あなたが攻撃しなければシルラたちもしません。シルラはあなたの心を映す鏡なんです!」

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