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第27話 王位を継ぐもの
馬車の足元に落ちていた地図をシェイドは拾い上げた。
扉板の割れた隙間から昼の光が差し込んでいる。シェイドは揺れる馬車の中で、最も明るい場所を選んで地図を広げた。
ジハードが無言のまま地図を睨み、旧街道の一部分を指で辿った。後僅かでグスタフ砦のあるヴァルダン領内に入るという、その手前だった。
馬車は坂を上り切ると大きく迂回し、走ってきた旧街道を元の方向に戻ったようだ。細い線で描かれた先を視線で辿る。最も太い道筋はミスル離宮へと続くものだが、それよりも細い道がこの先でいくつかに枝分かれしていた。生憎、正午に近いために陽の光は真上から照らしていて、差し込む光で進む方角を正確に知ることはできない。できることは馬車の揺れを身体で感じ取ってどちらに曲がっていくかを推測することだけだ。
南に位置するミスルの方角へは進まないだろうから、それ以外の方角へと伸びた道を辿る。枝道のような細い交通路を除けば、道は大きく二つに分かれていた。南東へ行けば国境の山を背にして多くの砦跡を記されるベラード領。西へ行けばエル・ウェルデ領――気候穏やかで実り豊かな王族の元直轄領に着く。
現在この直轄領を治めているのはアリア・ナジャウの父であり、臣下としてナジャウ家に降ったベレス王の王弟、カストロ・デル・ナジャウだ。旧国王派の筆頭で、かつては第一王位継承権を持つ王太弟でもあった人物だった。
シェイドは白桂宮を訪れた黒髪の美姫の姿を思い出した。
女王然として自信に満ちていた彼女は、あの一件以来蟄居を命じられ、城下の屋敷にこもっていると聞く。もう二度と王宮には足を踏み入れさせぬと国王は語ったが、果たしてその仕打ちは彼女にどれほどの恨みを植え付けただろうか。
「……もしも陛下に万一のことがあれば、次の玉座に着くのはどなたになるのでしょう」
声を潜めてシェイドは尋ねた。
ジハードには嫡子がいない。ジハードが王太子であった時代には王弟カストロが第二王位継承者であったが、国王が代替わりした今、先王の兄弟であるカストロの継承順位はどうなっているのだろう。もしもアリア・ナジャウが男児を産めば、その子は王位を継ぐことができるのだろうか。
だが、ジハードの答えは予想もしないものだった。
「お前だ」
簡潔な答えに、シェイドは続けるべき言葉を見失った。
「シェイド・ハル・ウェルディス。――王兄のお前が、第一王位継承者だ。即位の後、宮内府で正式な手続きを踏ませて、あの額環を作らせた。お前に嫡子がいればその子が第二王位継承者、いなければ叔父のカストロがその座に着く」
「まさか……」
常に身に着けておくようにと言われたあの額環が、密かに作られた非公式なものではなく、宮内府を通した正式なものであったとは。
北方娼婦の腹から産まれた庶子が、ウェルディス王家の一人として正式に迎えられるなど、長い歴史の中で一度の前例もない。ましてや、第一王位継承者だ。
それに、公の場で兄として遇することはないとジハードは言ったのではなかったか。
「一年待って……それでもお前が心開かぬままであったら、白桂宮から解放するつもりだった。議会には地震で怪我を負って直轄領で療養中だとしてある。いざという時はサラトリアと内侍の司のラウド長官がお前の身分を証立ててくれるはずだ」
荒れた道を走る馬車は、座っているのにも注意がいるほど大きく揺れる。その中で、ジハードはシェイドの身体を固く抱きしめた。
「何としてもお前は生き延びろ。身分を明かして奴らに協力する素振りを見せれば、粗略に扱われることはない。あの額環を誰にも奪わせるな。……あれは、お前のものだ」
方角を失わせようとしてか、馬車は何度も大きく道を曲がり、目的の場所まで回り道をしているらしかった。
だが日が傾く頃合いになれば、割れた戸板から差し込む西日で大まかな方角が分かる。馬車の走る速度や途中で渡った橋の様子からして、目的地は国境山脈の北側に散在する廃砦のうちの一つではないかと察しがついた。ベラード領である。
シェイドは以前からその領地の名を知っていた。内侍の司の長官であった頃、先王ベレスが迎えた妾妃の記録には一通り目を通したのだが、ベラード領からも領主の娘が後宮入りしていたからだ。尤もベレスの元には、カレリアの計らいで国中から後宮に人が集められたので、それは特段珍しい話ではなかった。
ベラードの領主は元は軍部を預かる将の一人だったが、役職を退いて以来王都ハルハーンからも去り、領地で隠居生活を送っているはずだというのが、ジハードの言だった。
山沿いに建つ三つの廃砦のうちのいずれかであろうとジハードは言い、それぞれの砦の元の名と特徴をシェイドに伝えた。
一帯は山賊たちの根城と化し、砦としての機能は果たしていないと話したのは今朝の事だ。隙を突いて逃げ出すことができたなら、北に新しく建てられた城砦まで助けを求めて行かねばならない。そこまで辿り着くことができれば、ベラード領の領兵が護ってくれるはずだ。
それにフラウが無事にグスタフ砦に辿り着いていれば、ドルゴ・グスタフがあたりの領主に向けて救出への協力を呼び掛けてくれているかもしれない。望みはまだすべて断たれたわけではなかった。
「…………」
薄暗くなってきた馬車の中で、シェイドは静かに息をついた。今朝から様々なことがありすぎて、頭の中を少し整理したかった。
まず、どうして自分たちは捕らえられることになったのだろうか。
ミスル離宮に赴くことは、王宮では明らかにしていないという。白桂宮で下働きが持ち込んだ病のせいで王妃が倒れ、ついで国王も倒れたために厳戒態勢で療養中ということにしてあるのだそうだ。
真実を知っているのは、旅に同行した白桂宮の侍従数人の他はヴァルダンだけだ。
護衛兵たちはヴァルダンの私兵であり、グスタフ砦もヴァルダン領の一部だった。――ならば、これを画策したのはサラトリアだろうか。
シェイドは柔和な笑みを浮かべた青年貴族の姿を思い描いた。明るい褐色の巻き毛と榛色の瞳は、北方の血を思わせる。代々血統には拘らず能力の優れたものを伴侶として迎えてきた祭祀の一族は、歴史を遡ればウェルディス王家と祖を同じくしている。
しかし現在は公爵家の一つに過ぎず、王位継承権とは無縁だ。彼が玉座を得るには、ウェルディス王家を根絶やしにした上で、起こるはずの内戦を勝ち抜く必要がある。王太子ジハードに王位を授けた陰の立役者であるヴァルダンが、そこまでの労力を払って玉座を奪い取る必要があるだろうか。
仮にヴァルダンが関係していないとすれば、これは山賊の仕業だろうか。
自分たちは山賊が支配する廃砦に連れて行かれようとしている。山賊、あるいは山賊を装った隣国の軍隊だという可能性もなくはない。だがそれではミスルへの旅程が漏れていた事実を説明できなかった。これを為すにはヴァルダンか白桂宮のどちらかに所属する者の助力が必要となり、他国者や山賊が素性を偽ってそこへ潜り込むことは困難だからだ。
だとすれば――。シェイドの脳裏に自然と浮かび上がってきたのは、怨嗟に満ちた従姉姫の顔だった。
ナジャウ家ならば、長年の縁故を辿って白桂宮やヴァルダン家に間者を紛れ込ませることも可能だろう。それにジハードとシェイド以外で唯一正式に認められた王位継承権を持つのはアリアの父カストロだ。
一人娘のアリアに王位継承権はないが、カストロが今からでも男児を設けることができれば、ウェルディリアの王家はウェルディスからナジャウに系譜を繋いでいくことになる。いや、カストロが公爵家を離れてウェルディス王家に復権することが認められれば、話はさらに早い。
ベラードの領主は、果たして旧国王派であったか、それとも元王太子派であったのか。事と次第によっては、北の城砦に逃げ込んだところで敵の手の内という可能性がある。
それをジハードに問いかけようとした時、走り続けていた馬車が停止した。
周囲を囲む兵士が次々と馬を降りる、鎧の金具と鞘が擦れる音があたりに響いた。中庭かどこか、壁に囲まれた空間のようだ。
剣の柄に手を当てて身構えたジハードの前に、シェイドは身を滑らせた。
「私が先に出ます。隙があるようでしたら、陛下は馬を奪ってお一人で脱出してください」
「シェ……」
「王位を狙うものならば、私に危害は加えません」
先ほどジハードから告げられた言葉を用いて、シェイドは扉の前に立った。
黒幕がカストロ・デル・ナジャウだった場合を除いて、とは口にしなかった。もしもそうならば、この賊の集団は襲撃を仕掛けたあの草原で馬車の中の二人とも首を刎ねているはずだ。山賊の仕業だと見せかけておけば、何もせずとも王位が転がり込んでくる。そうしなかったのは、首謀者がカストロではないからだ。
馬車の扉が外から開いていく。シェイドは顔を上げ、腹に力を込めて足を踏み出した。もし闇雲に矢を射かけられるようなことがあれば、この身をもって盾とする以外に背後の国王を守るすべがないからだ。
外はすっかり日が落ちて暗闇だった。
ざっと目を走らせただけで、周りを取り囲む松明の炎が三十はくだらないのが見て取れた。兵士の数はそれよりももっと多い。如何にジハードが勇猛な剣士であろうとも一人で相手取れる人数ではなかった。
馬車が止められていたのは、城砦の中庭のような場所だった。四方が高い壁に囲まれ、その向こうには山脈の岩肌が続いている。月が見えるのと同じ方向には塔が聳え立ち、夜空の星を切り取ったような暗闇で覆い隠していた。
シェイドの姿を見て、周りを取り囲んだ兵士たちが動揺を示して視線を泳がせた。中にいるのは国王だと確信していたのに、出てきたのが北方人だったので困惑しているのだろう。シェイドは兵士たちの顔を眺め渡し、最後に背の高い老人の上で視線を留めた。
老齢の域に達しているが立派な体格を持ち、上質の鎧と外套を纏っている。逆賊を束ねているのはこの老人にまず間違いあるまい。
シェイドは息を吸い、腹から押し出すように声を張った。
「首謀者は誰です。進み出て膝を突き、名と身分を名乗りなさい」
夜の空気を貫いて、朗々とした声が発せられた。己の口からこれほど大きな声が出るのを、シェイドは初めて聞いた。声が震えていないのが他人事のようだった。
誰何して射貫くように見据えるシェイドに、老人は皮肉そうな笑みを浮かべて一歩進み出た。
「北方娼婦に名乗る名はないが、国王陛下には敬意を表そう。我が名はマクセル・ベラード。先王陛下には東方を守護する将軍としてお仕え申し上げた!」
老人とは思えぬ、腹の底にビリビリと響くような大音声だった。
「――先王に敬意を払う気があるのならば、身を低くせよ」
シェイドの背後から、よく通る低い声がその名乗りに応じるように響き渡った。
「お前たちの目の前にいるのは国王ジハード・ハル・ウェルディスと、その兄にして第一位王位継承権を持つシェイド・ハル・ウェルディスだ」
馬車から降り立った国王は、剣の柄頭に手を置いたまま、マクセルと名乗った老将の前に進み出た。
広い背中に視線を遮られると、極限状態であった緊張が途切れて、血の気が引いていきそうになる。だがこんなところで無様を晒せば嘲笑を浴びるのは国王の方だ。シェイドは奥歯を噛み締めて顔を上げた。
「旧エスタート城砦か。朽ち果てた砦に呼び寄せてまで訴えたいことがあるというなら、直訴を聞いてやろう」
シェイドに聞かせるためにだろう、ジハードは城砦の名を口にした。シェイドは馬車の中で聞いた砦の特徴を思い返す。
エスタートは東の国境山脈の最も近くに作られた城砦だ。塔が一つに、一重の空堀、正門には跳ね橋を備えている。山からの交易路の真横に道を塞ぐように建てられており、かつては隣国からの侵入を真っ先に叩くための要塞だった。あたりの廃砦の中では最も大きい砦だ。
それにしても五十を超える敵兵に囲まれ、相手は父王より年上の老将軍だというのに、ジハードの声には少しの揺らぎもなかった。生まれながらに王であり、命尽きる最後の瞬間まで神の末裔である男の声だ。
だが、老将軍は若き国王をせせら笑った。
「父王殺しの国王と混血の庶子では、国の主に相応しいとは到底申せませぬな。正当なる世継ぎの君に、その座を明け渡していただきましょう」
「何だと……」
ジハードの詰問を躱すように、老将は地に片膝をついた。周りの兵士たちも同じように敬意を示して次々と跪いていく。割れた人垣の後ろから、一人の背の高い人物が悠然と歩いてきた。
「……まさか……」
夜目の利くジハードの口から、信じがたいと言いたげな声が漏れた。シェイドも息を飲み、声も出せずに近寄ってくる相手を見据える。
王者の風格を備えて二人の元へ進んでくるのは、浅黒い肌に昏い色の髪を持ち、逞しい長身を毛皮の外套に包んだ壮年の男だった。
シェイドより、二つ三つは年上だろうか。厳しく整ったその貌は、まさに神殿の壁に描かれたウェルディ神そのもの――傍らに立つ国王ジハードと瓜二つだった。
「ラナダーン・ハル・ウェルディス……先王ベレスと妾妃テレシア・ベラードの間に生まれた、この国の真の後継者だ」
その左の耳には、王位継承者の額環に嵌まっているのとよく似た、大粒の青玉が輝いていた。
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