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第26話 襲撃

 田舎道を走る馬車に揺られながら、シェイドは膝の上に地図を広げていた。  解放された覗き窓からは、明るい日の光とともにひやりとした爽やかな風が入ってくる。その風に地図が飛ばされないよう押さえながら、ジハードが一点を指で示した。 「今、進んでいるのはこの旧街道だ。王都へ戻るには、こちらの新街道の方が道幅も広くて走りやすいが、往来も多い。人目につきたくないので、この道を進んで……ここで新街道に合流する」  細い線として描かれている街道を辿りながら、ジハードが旅程を説明した。  早朝に離宮を出立して小一時間ほどになる。薄暗かった外が明るくなるにつれ、周りの景色を見る余裕も出てきた。  馬車が走るこの道はあまり整備されていないようで、石を踏んでガタガタと揺れるので、そのたびにジハードがシェイドの肩を抱く腕に力を込めて支えた。道の片側は木々が生い茂る暗い森で、その反対側は背の高い草に覆われた荒れ地の合間に畑らしきものが点在している。 「ミスル離宮はここだ。ここより南にも国土は広がっているが、山を越えて盗賊が降りてくるので、今はこのミスル領が事実上の南端だ」  丈夫な羊皮紙で作られた地図には、削って書き直した跡がいくつもあった。シェイドはそれを覗き込む。  ウェルディリア王国は、国土の北側を海に、その他の三方を峻険な山に囲まれた国だ。  王都ハルハーンはやや北寄りに位置し、神山に背を守られ南に大門を構えている。そこからいくつもの太い街道が、曲がりくねった放射状に伸びているが、その線の多くは国境の山裾に辿り着くことなく消えていた。  山脈の近くには砦を表す大小の印がいくつも記されている。隣国からの侵略と、山脈に巣くう盗賊に備えたものに違いないが、そのいくつかは削り取られ、国の中心に後退して書き換えられていた。この地図がいつ作られたものかは分からないが、国力の衰えがシェイドの目にさえはっきりと見て取れる。 「ここは……どのような場所なのでしょう」  シェイドは山並みが角のように突出した辺りを指さした。角の北側に砦の跡が密集しているが、それらは全て削り取られ、さらに北に下がった場所に一つだけ新たな砦の印があった。 「ここは山から湧いた水が川となって、広い沢になっている場所だ。山越えの商人が行きかう主要な交易路で、かつては国境の要所だったのだが、今は山賊どもの根城が散在する無法地帯になっている」  国を統べる若き王は苦々しげに言った。 「山狩りして掃討すべきだが、広範囲に散らばりすぎているため、とてもそれだけの兵力は割けん。手を付けられるのは、早くても来年の収穫期の後だな」  最盛期には大陸全土を支配した強国ウェルディリアも、今や血肉を食い荒らそうと山賊どもに狙われる巨大な獲物だ。地図に国境線は記されているが、実際にウェルディの民が住まう領土は縮小の一途をたどっている。  地図だけを見ていれば、この空白部分に新たな砦を書き込むことは、そう難しいことでは無いように思われる。だが砦を築くには多くの資材と人手が必要だ。旧街道の閑散とした景色と外に出ている人間の少なさを見て、シェイドは砦一つを維持し続けることの難しさを感じた。  国境を守るには砦や武器、馬と共に人が不可欠であり、人を養うためには多くの穀物が必要となる。だがその穀物を作るための農地や、それを維持するための人手が、まずここにはない。 「この辺りは元々は実りの良い土地柄だが、それを狙って賊が徘徊し、領主も国もそれを野放しにしたせいで土地が荒れた。春からは国境警備兵を増やして、まずは治安を固める予定だ。失うのはあっという間だが、取り戻すには長い年月がかかる」  ジハードの言葉がそれを言い表していた。  他にも、ジハードは地方の名産や、土地によって取れる作物の種類や量が違うことなどを話して聞かせた。  農作物の収穫というものは北に行くほど減っていく。エレーナが領主を務める最北のファルディアは、夏以外はほとんど収穫が見込めない土地だが、その代わりに鉱山では質の良い貴石が採れ、長い冬の間に作られる手の込んだ工芸品も領地を潤していた。逆に温暖な土地にある領地は作物に恵まれるために、税率が少し高く組まれている。そのことも、このあたりの領地を治める難しさに繋がっているとジハードは語った。  国王の言葉を聞いていると、今まで書の中の文字でしかなかった諸々のことが、シェイドの中で実感を持って形になっていくのが感じられた。  かつて、シェイドはジハードの起こした謀略を正しき事であったとは思えなかった。  王太子という地位にあり、黙って待っていればいずれ王位が手に入るというのに、何故実の父を弑してまで玉座に座らねばならなかったのか。シェイドはそれをやっと理解した。  国というのは一つの巨大な生き物に似ている。何代にも亘る患いのせいであちこちが病み、息も絶え絶えであったこの国は、放置すれば数年を待たずに世界から失われていたかも知れない。ジハードは待てなかったのだ。 「……お前と、こういう話ができるのは嬉しいものだ」  真剣な表情で地図を凝視するシェイドに、国王は笑みを浮かべた。 「王宮の中で書を眺め、耳障りの良い報告を聞いていても、この目で見なければ分からないことがある。国の底を支えているのは名も知らぬ大勢の民だ。俺が北方の血を引く民を、ウェルディリアの国民として受け入れようとしているのも、綺麗事ばかりが理由でないのは理解してくれたか」 「はい……」  王宮にいるだけでは気づきもしなかった。シェイドの想像以上に、この国は危ういところまで来ているのだ。  ジハードは手を伸ばして、隣に座るシェイドの肩を抱き寄せた。 「これからは政のことも、お前と相談してやっていくつもりだ。いずれは王兄として表宮殿の政治の場にも出てもらう。遠い異国には二君主制で栄えている国もあると聞くから、それを試してみるのも悪くない。……今はまだ、この腕の中から少しも外に出したくはないが」  馬車が揺れた拍子に平衡を崩して、シェイドはジハードの胸にもたれかかった。太い両腕が飛び込んできた獲物を逃がすまいと、拘束を強める。  膝から滑り落ちていきそうな地図を掴んで、シェイドはそれに視線を走らせた。  海を隔てた先にある北方諸国は貧しい国々だ。かつては繁栄を誇った時代もあったのだろうが、一年の半分を雪に閉ざされていては食いつないでいくのも難しい。温かい南の地での安住を夢見て、夏が来るたびに多くの北方人が海を渡ってウェルディリアにやってくる。シェイドの母エレーナも、そのうちの一人だった。  言葉も違い、崇める神も違う。だが身一つで口を養い、世代を重ねるうちに、ウェルディリア人との混血も増えてきている。今は家畜のように扱われている彼らが国民として認められれば、ウェルディリアは確実に今より強くなる。  だが長年の確執は、ウェルディリア人と北方人の双方にあった。北方人は長らく迫害され、追いやられてきたし、ウェルディリア人から見れば、北方人は言葉も通じず教養も無く、主の元から逃げ出しては略奪行為を働く蛮民族ということになる。ともに手を携えて国を盛り立てていこうなどと言っても、どちらもそれを拒むことは間違いない。  ――しかし、それを言うのがウェルディ神そのもののような若き国王であったらどうだろう。そして、その傍らに北方の血を引くものがおり、人として扱われている姿を北方人たちが見たならば。  国中に散らばる北方人も少しは安堵してこの国に根を下ろすことができるのではないか。  もしも、己が生き続けることに意味があるとすれば、それは反目し合ってきたこの二つの民族が一つになるための礎になることではないかと、シェイドは思った。  かつて王位継承者の証である星青玉の額環を授けられた時、シェイドが感じたのは怒りだった。  王族としての教えも受けてこなかった自分に、第一王位継承者の印を身につけさせるなど、冗談だとしても許せぬ冒涜だと感じた。けれど、白桂宮で過ごした三ヶ月あまりの間、ジハードは食事の席で毎日のように政について語り、シェイドはその話題に応じるために書斎の本を読み耽った。この国の成り立ちから議会の在り方、宮内府と神殿が果たす役割などについて、今では一通りの知識がある。白桂宮に入ったばかりのあの頃とはもう違う。  もしも国王が許してくれるのならば、どんな形であってもこの国のために尽くしたかった。自分にしかできないことが、きっと一つくらいはあるはずだ。  シェイドはずっと以前から抱き続けていた懸念を、思い切って口に出した。 「陛下には……お世継ぎとなられるお方は真におられないのですか」  体を抱く腕に力が増したのを感じて、シェイドは奥歯を噛みしめた。以前、国王の従姉姫が白桂宮に乗り込んできた時に一度口に上らせて、ジハードから厳しく責められた話題だったからだ。  だがジハードの怒りは別の所に起因していた。 「本当にお前は懲りないな。二人きりの時には名で呼べと、何度言ったら分かる」 「んっ……!」  小石を踏んでガタガタと揺れる馬車の中で、ジハードが唇を吸ってきた。我が物顔で入り込んできた舌を、どうかすると揺れた拍子に噛んでしまいそうだ。  歯を当てぬように薄く開いたままのシェイドの口内を好き放題に荒らし、シャツ越しに胸元をまさぐって、ジハードは探り当てた柔肉をシャツごとつまみあげた。 「んぅ、っ……」  身を強張らせた途端、体内から始末しきれないままだったものが溢れ出てきて、シェイドは慌てて後孔を締めた。朝方近くまで啼かされて、内部にはまだたっぷりとジハードの精が収まっている。  下着が汚れると冷たくて不快な上、匂いが立つのが厭わしい。ジハードの牡の匂いを嗅ぐと条件反射のように下腹が疼き、堪え性のない娼婦のように欲しくて堪らなくなってしまうからだ。  せめて白桂宮に戻るまでは平静を保ちたくて、シェイドは『ジハード……』と耳元に囁いた。 「ジハード、ここではどうか……」  囁き声での懇願に、名残惜しそうにしながらもジハードの指は離れていった。唇も離れたが、引き寄せられた肩はそのままだ。煽られかけた熱が燻るのを感じながら、シェイドは火照った頬をジハードの外套に押し当てて冷やした。 「世継ぎか……残念ながら実子と呼べる人間はいない」  あれほど国政に精力的なジハードが、さしたる関心もなさそうな声で呟いた。シェイドはその答えを意外に思った。  王太子であった頃のジハードの閨が華やいだものであったことをシェイドは知っている。  内侍の司は十日と空けずに王太子宮から要請を受け、求められた相手を送り込んできた。シェイドは決済書面の上でしか知らないが、それこそ老若男女を問わずに、ありとあらゆる土地から条件に適う相手を探し出してきたものだ。  後宮の定員には上限があるため、新しく入った者がいれば、暇を出される者も居る。内侍の司で受け入れるにも限りがあり、大半は元いた場所にそのまま送り戻されたはずだ。 「……言っておくが、ここ五年ばかりで後宮に入れた者は全て政治絡みで、一切手をつけてはおらんからな」  咳払いを一つして、ジハードはシェイドの誤解を正した。  そうだったのか、とシェイドは得心した。確かに王太子の後宮に誰が入って誰が出ようと、入れ替わりがあまりに激しいために宮廷ではほとんど関心が払われることはなかったように思う。内侍の司を隠れ蓑に、ジハードは随分前から譲位に向けての準備を始めていたということだ。  白桂宮に来たばかりの頃をシェイドは思い出した。あの頃は、ジハードの関心が自分から離れる日を指折り数えて待っていた。  大半の奥侍従がひと月と保たずに暇を与えられていたため、ジハードは移り気なのだと思っていたし、それが唯一の希望だった。長くても月が一巡りする間耐えれば良いのだと自分に言い聞かせていたのは、見当違いの目算だったようだ。  ジハードの言葉が全て真実だとして、ここ五年の間に後宮に入った者に懐妊の可能性がないのなら、どこかに落とし胤が存在するという期待は持てそうにない。それよりも前に王太子宮入りした奥侍女たちは、後宮を出された後は全員女官として一年以上配属され、子を孕んでいないことを確かめてから解放されているからだ。 「……それではなおさら、妾妃を早く迎えねばなりません」  奥侍従に過ぎない己が口を出せば不興を買うとは承知の上で、シェイドは言った。後継の決まらぬ王権は弱い。ジハードが国の再建に精力的なのならばなおさら、世継ぎの王子の養育は一日でも早いほうが良かった。  ジハードにそれが分からぬはずもないだろうに、二十五歳の若き国王は不機嫌そうな表情で黙り込んだ。  その音が酷く耳障りに聞こえたのは、何かの予感だったのかも知れない。  短い休息を取ったのみで、馬車は走り続けていた。覗き窓から差し込む光は短くなり、陽気が感じられる。正午が近いようだ。最前、ジハードからもう間もなくグスタフ領に入ると聞いたところだった。  窓の外の田園風景はのどかだが、昼食時ということもあってか、人の姿はまったく見当たらなかった。そこに、低く響く地鳴りのような異音が近づいてきていた。  馬車の周囲では二十騎以上の騎馬が併走している。最初は彼らの蹄の音かと思ったが、それにしては妙に遠くから聞こえる気がした。  言葉では上手く説明できないまま、胸騒ぎのような感覚に従って、シェイドは覗き窓から身を乗り出して外を見た。 「如何なさいました?」  すぐ脇を併走していたフラウが用向きを尋ねに馬を寄せたが、シェイドはそれには答えず、後方に目を凝らした。背の高い草が伸びる荒れ地の中を、一塊の影が進んでいる。見晴らしの良い街道ではなく、足場の悪い草原をわざわざ疾走する一団がいるのだ。 「陛下!!」  シェイドの視線の先を追ったフラウが切迫した声で馬車の奥のジハードを呼んだ。血相を変えて窓際に駆け寄ったジハードと入れ違いに、シェイドは座席に戻った。  ――あれは、武装した軍隊だろうか。  はっきりとは見えなかったが、日の光を浴びてチカチカと光っていたのは、剣や甲冑かもしれない。その一団が、足音や砂煙の立ちにくい草原の中を追いすがってくる。旗印も上げず、鬨の声も上げず、密やかに。 「馬車を全速で駆けさせろ! フラウ、お前は俺の馬に乗り換えて、この指輪を持ってグスタフの砦へ先行しろ。領兵を連れて即座に折り返してこい!」 「はい!」  ジハードが己の身分を表す指輪をフラウに託すのが見えた。ついで、馬車の揺れが激しさを増す。御者が必死の声を上げて馬に鞭をくれる音がシェイドの耳に入った。  座っていてさえ床に放り投げられそうな揺れの中で、ジハードは窓の扉を下ろすと、手早く上着を脱いで腰に剣帯を巻き直し、革の手袋を嵌めた。馬車を取り囲む騎馬隊からも、殺気立った号令が聞こえる。 「山賊……でしょうか」  シェイドの問いかけに、ジハードは苦い表情で眉を寄せた。  山賊かと問いかけてみたものの、シェイドにもあの一団が寄せ集めの賊の類いであるという印象は持たなかった。小石が散らばるこの旧街道よりもさらに足場の悪い草原を一斉に駆けてくるのだ。しかも、人数は馬車を守る騎馬隊の数倍はいるように思えた。――訓練の行き届いた軍隊、というのが第一印象だ。それが、この人の往来もほとんどない旧街道を追いすがってくる。  暗殺、という言葉が脳裏に浮かんで、シェイドは服の裾を握りしめた。ジハードが父王の命を奪って玉座を得たように、今度はジハードの命を奪って国の実権を手にしようという者が居たとしても不思議ではない。  ジハードに後継がいない以上、ウェルディス王家に準ずる家格の大貴族ならば王権を引き継くのも自然だ。たとえば、ヴァルダンやナジャウのような――。  シェイドはジハードの袖を捕らえた。 「今すぐ騎乗して、砦へお向かいください」  地鳴りのような馬蹄の音はますます大きくなっていた。隠す必要がなくなったために、軍勢は馬の足を取られる草原を出て街道の上に乗ったらしかった。追いつかれるのは時間の問題だ。  この街道は道が悪い。御者がどれほど馬を急かしても、朝から走り続けの馬が牽く馬車にこれ以上の速力は望めまい。騎馬ならば、護衛の兵と道を塞ぐ馬車で時間を稼ぐ間に、砦まで駆け抜けることができるかもしれなかった。 「馬には乗れるか」  窓の外の気配を探りながら、ジハードが問うた。シェイドはまっすぐにその目を見返した。 「はい。すぐ後をついて参ります」  ――偽りだった。  王宮から一歩も外に出たことのなかったシェイドが、馬に乗れるはずはない。二人乗りでは馬の足が鈍る。シェイドはジハードを一人で行かせるつもりだった。だが置いて行けと言ったところで、存外情の深いところがあるこの国王はきっと迷うだろう。逡巡するその時間が惜しい。だから、シェイドはまっすぐに目を見て答えた。 「必ず後ろをついて行きます」  国王が馬車を降りたら、彼が脱ぎ捨てた上着を被ろう。後方の一団からは、馬車を降りたのが何者かを見分けるのは難しいはずだ。馬車に残ったのが国王の方だと思わせることができれば、少しの間でも時間が稼げる。 「シェイド……」  ジハードの黒い瞳がシェイドを見つめ返し……やがて苦渋を浮かべて伏せられた。  剣の柄に添えられていた手が離れ、シェイドを抱きしめる。絞り出すような声がその口から漏れた。 「……俺は、お前を置いては行かない」 「陛下!」  もどかしさにシェイドは叫んだ。 「……お前が俺をまっすぐに見る時は、死を覚悟した時だ。お前を一人置いては行かない。そんなことをすれば、その時点で俺は死んだも同然だ」  感傷的ともいえるジハードの言葉に、シェイドは激しい苛立ちを感じて詰った。 「貴方は……御身を何だと思っておいでですか!」  世の中には替えの利く人間とそうでない人間がいる。今ここでジハードが倒れれば、いったい誰がこの国を建て直していくというのか。何者を犠牲にしてでもジハードは生きて王都に戻らねばならない。奥侍従が百人死んだとしても、ジハード一人の命には到底代えがたいのだ。  だが――。 「俺は愚かしい一人の男だ。己の伴侶と国とを天秤にかける、救いようのない馬鹿者だ」  縋るようにしがみついてくる異母弟を、シェイドはどうしても突き離せなかった。  もしもシェイドにサラトリア並みの体格があれば、ジハードを突き飛ばして馬に乗せることができたかもしれない。あるいは馬を駆ることができれば、後を護衛に託して逃げることも可能だっただろう。もっと世慣れていたならば、ジハードが納得するだけの弁舌をふるえたのかもしれない。  だが、今は抱きしめる腕を振りほどくだけの力もないのだ。  無力だ、とシェイドは己の力のなさを歯噛みした。  いくら命を捨てる覚悟があっても、それだけでは何の役にも立ちはしない。何かを守りたいと願うならば、為せるだけの知恵や力が必要だ。自分がそれを持たないことが悔しかった。  怒涛のような蹄の音は、すぐ背後まで迫っていた。馬を急かせる掛け声と、風を唸らせて飛んでくる矢の音が聞こえる。馬車のすぐ外では、後ろから矢を射かけられた護衛兵と馬の悲鳴が聞こえた。もう、馬で離脱するには遅い。 「…………ッ!」  不意に馬車が大きく跳ね上がったかと思うと、斜めに傾きながら進み始めた。御者がやられたのか、街道の上を逸れて脇の草むらの中を進んでいるようだ。剣戟の音と叫び声が激しくなった。  制御するものを失った馬車は、やがて馬の足が鈍るにつれて停止した。その頃には、激しかった戦いの音もすっかり止んでしまっていた。考えたくはないが、おそらく護衛は全滅してしまったのだろう。息を荒げた騎馬集団が馬車の周りを取り囲む気配があった。  傾いた馬車の中で、ジハードが剣の柄に手をやった。だが馬車の中は足場が悪いうえに、狭い空間で長剣を振り回しても、外から矢を射かけられればどうしようもない。  息詰まるような緊張の中、覗き窓を塞いでいた扉板が外から割られた。  僅かにできた隙間から、誰かが中を覗き込むのが見える。ジハードがその隙間を抜身の剣で貫こうとするより早く、顔は離れていった。賊が馬車の中を覗いて、中に乗っているのが何者かを確かめたのだ。  指笛が一つ鳴り、御者台に誰かが乗り込む気配がした。掛け声とともに馬が足を踏み出し、草原の坂を力強く上っていく。馬の嘶きさえ上がらず粛々と進む騎馬集団の中心を、馬車はゆっくりと進み始めた。  ――戦神ウェルディの末裔たる国王が、逆賊に捕らえられた瞬間だった。

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