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第3話 嵐の夜②

 ウェルディリアの王都ハルハーンは、背後を守護神が住まう神山に守られた巨大な城塞都市である。  王城は神山の山裾に市街を見下ろす形で聳えている。城の中は政務の場である表宮殿と、直系の王族が住まう宮と後宮で構成された奥宮殿に分かれていた。内侍の司は奥宮殿の中の比較的表に近い場所に執務の場を与えられている。  歴史は様々あるが、内侍の司が奥宮殿に据えられた最も大きな理由は、司そのものが元は奥侍従の勤めを辞した者達の受け皿となっていたためだろう。王族の閨での事情を知る者達を野に放つことが憚られたために、口封じの意味合いを込めて彼らは一生をここで飼い殺しにされたのだ。副官のラウドも十数年に亘って先王の寵愛を一身に受けた元侍従である。  しかし、今日入宮するサラトリアは奥侍従の任を解かれたとしても、内侍の司にやってくることはない。ヴァルダンほどの大貴族ともなれば、若い頃に王太子の寵愛を受けたという事実は後の誉れにこそなれ、妨げとなることはないだろう。 「……長官殿、こちらだ」  後ろから掛かった声に、シェイドはギクリとして足を止めた。  ここはすでに王太子宮殿の中だった。二百年ほど前に建てられた城は時代に応じて増改築が繰り返され、暗殺除けの狙いもあって入り組んでいる。その上この宮はどの部屋を通り抜けても同じような装飾が為されているために、自分が今どこに居るのかが容易には分からぬ造りになっていた。迷いそうだと思った矢先のことだ。  振り返ると、サラトリアが壁の一面を指している。燭台を近づけてみると、壁の装飾に紛れるようにして扉が一枚存在しているのがわかった。  ラウドから渡された簡素な見取り図では直進が正しい。だがもしかすると、どこかですでに経路を誤ってしまっていたのかも知れない。 「王太子宮は複雑だから、こう暗いと迷いそうだ。燭台を貸して」  シェイドの逡巡を断ち切るように、サラトリアが確信を持った声で明かりを求めた。確かにサラトリアは何度も王太子の宮へ出入りしているのだろう。本当ならば案内役など必要ない。  シェイドは謝罪の言葉とともに、サラトリアに燭台を手渡した。青年貴族は迷いのない足取りで先に立って歩いて行く。足の速い青年の後をついて歩きながら、シェイドは今度は帰り道を記憶するのに必死になった。  やがて他とは違う重厚な扉が目の前に現れた。扉に掛かった青い垂れ幕は、この中が王太子の居室であることを示している。サラトリアに目顔で促されて、シェイドは樫の木でできた分厚い扉を拳で叩いた。 「内侍の司より、本日御入宮のサラトリア・ヴァルダン様をお連れいたしました」  張り上げた声が緊張で震えて掠れる。 「入室を許可する」  扉の内からの応答を確認して、シェイドは金象眼の把手を握って重い外開きの扉を開いた。  サラトリアがゆったりした足取りで中へと入っていく、と思われたが、ふと何かを思い出したかのように、彼は足を止めてシェイドを振り返った。 「燭台を忘れていたよ」  囁き声とともに燭台が差し出された。そうだ、これがなければ暗闇の宮内を進むことにも難渋する。受け取ろうと反射的に伸ばした手が、鋼のような腕に捕らえられた。 「え……?」  声を上げる暇も無かった。  サラトリアに掴まれた手が引き寄せられ、たたらを踏んで均衡を崩した体が腰を掴まれて宙に浮いた。声を上げたときには、シェイドの体は軽い荷のように部屋の中へと投げ込まれ、したたかに背中を打って床へと落ちて呻きに変わっていた。目深に被っていた頭布が体から離れていく。それを追っていたシェイドの目に、燭台を拾い上げたサラトリアが扉を閉めて出て行く姿が映った。  いったい何が起こったのか、全く理解できない。  説明を求めて後ろを振り返ったシェイドは、喉が鳴るほど息を吸い込んだまま、凍り付いたように体を強張らせた。 「随分と久しぶりだな、シェイド・エウリート。内侍の司の長だというのに、異な事だ」  皮肉を含んだ、良く通る低い声。  それを発したのは、浅黒い肌に漆黒の髪と闇色の瞳を持った、まさに戦の男神がそのまま地上に降り立ったかと思える若き偉丈夫だった。第一王位継承者の証である、星を含んだ青玉を戴いた黄金の額環を見るまでもない。鋭く切れ上がった眦や、吸い込まれそうに深い闇色の瞳に、かつて一度だけ邂逅したことのある相手の面影が残っていた。 「なぜ黙っている。俺が誰だか分からないとでも言うのか」  険のある表情は、それでも年齢を重ねた分、以前よりは幾分穏やかだと言えるだろうか。  シェイドは震える唇を開いた。詰めていた息を吐き出しざまに、尊いその名を口にする。忘れるはずもない、その名。 「王太子……ジハード殿下」  九年前、国王の側仕えをしていたシェイドを『薄汚い娼婦』と痛罵し、内侍の司へと追いやった腹違いの弟の名を。

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