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第2話 嵐の夜①

 明かりを絞った薄暗い部屋の映りの悪い鏡の前で、シェイド・エウリートは背の半ばまである豊かな髪を一糸の乱れもないように丁寧に編み込んだ。  髪の先まで編んでしまうと、手慣れた動作で頭に巻き付け、崩れてこぬよう飾り紐で留める。その上から文官の地位を表す頭布を通常よりも目深に被ると、鏡に映って見えるのは口元だけだ。長めに作った袖で手の甲までしっかりと覆うと、人相どころか肌の色まで分からなくなった。これが人と接するときのシェイド・エウリートの装いだ。  少しの隙も無いかと鏡を検分していると、窓の外を続けざまに閃光が走った。思わず後ろを振り返ると同時に、腹の底にまで響く轟音が部屋を揺らす。次いで、窓越しにも響くような激しい水音。この季節にはめったにないほどの大雨と嵐だった。  シェイドは胸元を探って、首からかけた護符を取り出した。円の中に六つの角がある星を象ったそれは、表立っては母子と名乗れぬ母親から貰った唯一のものだった。祈るように手の中に握りしめたが、狂ったような雷鳴は止まることを知らず鳴り響く。まるで何かの警告にすら聞こえて、彼はその考えを無理にも打ち消した。  今宵が不吉な夜だなどと、決して考えてはならない。今宵はウェルディ神の末裔と謳われた世継ぎの王太子が、新たな奥侍従を迎える神聖な夜なのだから。季節はずれの嵐さえも、稀に見る吉兆ということにしておかねばならなかった。  護符を握り、鏡を見つめる。ぼんやりとした安物の鏡は、血の気のない白い口元だけを映し出していた。 「長官」  不意に後ろから声をかけられ、彼は傍目にもはっきり分かるほど肩を揺らせた。 「こちらは準備が整いました」  戸口にいたのは副官のラウドだった。父親と同じほどの年齢の部下は、言葉使いはいつも丁寧だが、声は固く冷えている。何年経っても全く打ち解けようとしないシェイドに、副官の方もすでに必要以上に関わることを諦めていた。 「では、参ります」  護符を胸元にしまい込むと、シェイドは足音も立てずにラウドの後ろに付いた。  シェイド・エウリートは今年二十八になる痩せた男だ。  寝室で王族に仕える奥侍従や奥侍女を束ねる司、内侍の司の長になって九年。この地位に就いてからは素顔を誰にも見せずに過ごしてきた。母親譲りの髪と目が、この国の人間とは違う色をしていたからだ。  彼の生まれた国ウェルディリアには、戦の男神ウェルディによって創建されたという言い伝えがある。王族はそのウェルディの末裔であり、必ず男神と同じ漆黒の髪と闇色の目を持って生まれる。当然のことながら高位の貴族もそれに準ずる姿をしており、一部の例外を除いては、髪や目の色が明るい者は、即ち生まれ育ちが卑しい者だと判断されるのがこの国の常だ。  そんな中、彼の緩く波打つ髪はほとんど色のない白金髪であり、瞳は夜明け前の空のような深い蒼色をしていて、虹彩を金泥のように散った褐色が彩っていた。海を挟んで大陸の北に位置する小島の、古代の神を崇める蛮民族が持つ色だ。  それはシェイドが、若かりし頃の国王ベレスが行幸先で献上された北方人の女に生ませた男児であるからだが、宮廷内でその事実を知るものはほとんどいない。妾妃の一人に迎えられた母親のエレーナは己の姿を恥じて後宮から一歩も出ず、父王ベレスはシェイドを己の庶子とは認めなかった。  シェイドは使用人の子として幼少期から国王付きの侍従を務め、今は外部の出入りがほとんど無い内侍の司に所属している。シェイドの血統を知っているのは、今や父である国王ベレスと世継ぎの王子である王太子ジハードの二人くらいだろう。  そして王太子ジハードは彼を娼婦の子と蔑み、嫌っていた。  控えの間に入ると、一人の青年が落ち着いた様子で椅子にかけて待っていた。壁際には二十人ほどの従者が主から少し離れて立っており、シェイドが入室すると一斉に礼を取ってきた。  椅子にかける青年の明るい褐色の巻き毛と榛色の目を見れば、事情を知らぬ者は下級貴族の子弟か平民だろうと侮ったかも知れない。だが、宮廷に出入りする者でこの青年の名を知らぬ者は居ない。  サラトリア・ヴァルダン。  古くは王家と祖をともにするとも言われる、代々祭祀の長を務めてきた公爵家の長子だ。明るい髪と目の色は、血筋や家柄に固執せず能力の優れた者だけを配偶者として迎えてきた家の歴史の証明でもあった。二十四歳の若き子爵は大層な切れ者との噂で、今では同い年の王太子の右腕とも目されている。今夜、王太子に寝室で仕える奥侍従として王太子の宮に入るのはこの青年だった。 「そろそろ刻限かな」  外の大嵐を気にした様子もなく、のんびりした様子でサラトリアが言う。甘く整った横顔は柔和で、今から王太子の寝室に出向くという緊張や戸惑いは感じられなかった。シェイドは椅子の傍らに歩み寄り、深々と腰を折った。 「はい。今から王太子宮殿の居室までご案内させていただきます」  サラトリアの淡い色の目がシェイドの全身をじろりと眺め下ろした。大丈夫、髪も顔も見えはしないと自らに言い聞かせ、誰何される前にシェイドは小さく名を名乗った。 「内侍の司の長を任ぜられております、シェイド・エウリートと申します。今宵は私がご案内をさせていただきます」 「……ん。長官殿の案内ならば異存は無い」  満足そうな返事に、内心でほっと胸をなで下ろした。  国王や王太子の元に、新しい従者を連れて行くのは本来内侍の司の長の役割だ。だが長に就いてこの方、シェイドはこの任を果たしたことがなかった。自分の姿を見れば、きっと国王も王太子も不快に思うだけだと、今までこの役目は副官のラウドに任せきりにしていたのだ。だがサラトリアほどの大貴族の子息が入宮するのに、知らぬ顔はできなかった。後々案内役が副官だったということが明らかになれば、内侍の司そのものが厳罰を受けることになりかねない。 「では行こうか」  まるでどちらが案内役か分からぬ落ち着きぶりで、サラトリアが立ち上がった。シェイドは椅子から立ったサラトリアに思わず、あっと声を上げそうになる。  隣に並び立ったサラトリアは見事な体躯をしていた。決して背が低くはないシェイドよりも、優に頭一つ分は上背がある。それだけではない。戦場においては王太子とともに軍馬を駆る将校でもあるこの子爵は、顔立ちこそ優男風だが、首から下は鍛え上げられた軍人の厚みを持っていた。シェイドなど片手で摘まんでしまえそうなほどの逞しさだ。  国で一、二を競う名家の跡継ぎであり、これほど男らしい肉体を備えた青年が、王太子に寝所で仕える奥侍従として入宮する。その姿を思い描こうとしてみたが、閨の知識に疎いシェイドにはまったく想像ができなかった。尤も、王太子の後宮が非常に出入りの激しいことは、書類を決済するシェイドにはよく知るところだ。一ヶ月と保つ方が稀なので、王太子はおそらく飽きっぽい性格なのだろう。どちらにしても、己のような身分の者が詮索するようなことではない。 「それでは参ります」  儀礼用の重い銀の燭台を手に持って、シェイドは先に立って歩き始めた。副官のラウドが 通り過ぎざま静かに腰を折って見送る。ラウドにはこの後、サラトリアとともに入宮して王太子宮殿の所属になる、サラトリア専属の側仕え達を案内する役割があった。  奥宮殿へ出る扉を開けると、回廊はすでに薄暗い。  背後を歩く青年よりも己の方がビクビクしていると感じながら、シェイドは王太子宮殿までの気の重い旅路を歩み始めた。

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