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第5話 嵐の夜④

 外はまだ嵐が続いているようだ。朝までは後どれくらいだろうか。  半覚醒の状態で雷鳴の響く音を聞いていたシェイドは、体の奥に走った痛みと異物感に我に返った。 「動くな。……手当てをしているから、じっとしていろ」  反射的に起き上がろうとした背中を、大きな手が押さえつけた。低く艶のある声には聞き覚えがある。そう、王太子ジハードのものだ。  シェイドは諦めたように目を閉じ、柔らかい敷布を握りしめて寝台の上に伏せた。冷たい軟膏のようなものが、ジクジクと疼く場所に塗り込められている。触れられる痛みはあったが、塗られた場所は感覚が麻痺したようになり、少しは苦痛が和らぐ感じがした。  細い息を吐いて、シェイドは気を失う前のことを思い返した。  罰を受けるために服を脱ぎ、命じられたとおりに寝台に這った。背中に鞭を与えられるとばかり思っていたのに、罰を受けたのは別の場所だった。娼婦の腹から生まれた者に相応しい場所に罰を下されたのだと、そう思うしかない。 「かなり出血したから、今日はこのままじっとしていろ」  手当を終えた王太子が、下衣の乱れを直して上から掛け布までかけてくれた。あれほどの怒りを示して罰を与えたというのに、手ずから手当までしてもらえるのが不思議なほどだ。些細な罰で気を失うという醜態が王太子を驚かせたのかも知れない。今はもう憑きものが落ちたようにその声は穏やかさを取り戻し、王位を継ぐ者に相応しい威厳や慈悲さえ感じられた。  寛大な王太子はじっとしていろと言ってくれるが、ここは王太子の寝室のはずだ。自分のような身分の者が身を横たえていて良い場所ではない。両手を突いてそろそろと起き上がろうとしたが、途端に下肢に走る痛みと目眩とで、結局仰向けに倒れてしまった。汗を浮かべて荒い息をつくシェイドの胸を、寝台の上に腰掛けた王太子が制するように押さえた。 「動くなと言っているのに、お前は俺の命令を何一つ聞こうとしないな」  叱責の言葉は辛辣だったが、何故か口調は優しく響いた。覗き込んでくる闇色の目が穏やかな光を帯びているせいもあるだろう。  わずかな戸惑いを見せた後、王太子が重たげに口を開いた。 「……お前は、本当に父王に忠誠を誓っていたのか」 「え……?」  思いもかけぬ言葉にシェイドは訝しげな声を上げたが、王太子はすぐに「いや、いい」と首を横に振った。 「もう分かっている。疑いをかけてすまなかったな」  大きな掌が汗を拭うように額に触れ、頬に張り付く髪を指先で払いのけた。 「もう目を閉じろ。朝になったら側仕えを寄越すから、それまでに少し眠っておけ。いいか、俺が戻るまでお前はこの寝台の中で体を休めておくんだ。……分かったな」  剣だこのあるゴツゴツした手が目を覆い、シェイドの瞼を閉じさせた。何か言いかけるシェイドを黙らせ、額の熱を測るように暫く手を置いたままにしている。その掌が余分な熱を吸い取って、必要な分の温かみを注いでくれたような気がした。 「……武運を祈っていてくれ」  離れていく王太子の声がしたが、その時にはもう目が開かなかった。疲れ切った体が深い眠りに引き込まれていく。  王太子の残していった気配に包まれて、シェイドは心地よい闇の中に意識をゆだねていった。  夜が明ける前に最も気温が下がる頃、シェイドは目覚める。それは物心ついた頃から変わらぬ習慣だ。常にないほど温かい寝台で目覚めたシェイドは、見慣れぬ天蓋の模様を暗闇の中で見つめた。  ここは王太子宮殿の王太子の寝室。  ほんの数時間前に起きたことが詳細に思い出された。寝台の中でそっと足を動かしてみると、痛みは僅かになっていて、ゆっくりとならば動けそうだ。  王太子からここで待てと言われたことは耳に残っている。だがシェイドはゆっくりと体を起こすと、傷に響かぬようにそろそろと寝台を降りた。王太子の言葉の一つ一つが、今更ながらに恐ろしい予感を伴って迫ってきていた。  ここ数年の国王と王太子の不仲を知らぬ者は、宮廷の中には居ない。  かつてウェルディリアは大陸全土を統べる大帝国だった。しかし数百年の間に少しずつ国力を落とし、今では北の海岸線を除けば、三方を囲む山脈が事実上の国境線だ。それも今の王の代になってからは夜盗山賊が山脈を越えて流れ込むようになっており、近いうちに山裾の領地は隣国に攻め取られるのではないかという噂まで立っている。  王太子ジハードはその危機を訴え、宮廷および軍部の大がかりな改革を叫んでいるが、改革を望まぬ国王と現在の要職に就く貴族達はそれに耳を貸そうとせず、反目は深まるばかりだと聞く。地方では冬が来るたび餓死者が出ているが、王宮では三日と空けずに贅を尽くした夜会が開かれ、地方領主の中には不穏な動きを見せる者もいるとか。  内侍の司に籠もりきりのシェイドの耳にさえ聞こえてくるのだから、相当に深刻な状態ではあるのだろう。そして、国王と王太子の不仲も、話に聞くよりずっと切迫した状況になっているのに違いない。  ジハードは、国王ではなく自分に忠誠を誓えと迫った。それはつまり、国王と王太子はすでに敵対関係にあることを意味している。  内侍の司の長官を味方に引き入れることにはどんな利があるか、考えればすぐにわかることだ。王太子は新しい奥仕えを入宮させるという名目で、己の意のままに動く兵士をいくらでも奥宮殿内に抱え込めるようになる。現に昨夜もサラトリアが二十人あまりの側仕えを連れて王太子宮殿に入ったが、それを何度か繰り返せば奥宮殿内を制圧する兵力を持つことは容易い。これは、王太子による内乱の兆しだった。  シェイドはふらつく体を騙しながら、丁寧に畳まれた官服を着付けた。髪も適当に編み上げて崩れぬ程度に飾り紐で止める。内侍の司の長官をあらわす頭布を被れば、奥宮殿内の何処にでも出入りは自由だ。与えられたこの地位をこれほどありがたいと思ったことはない。  夜が明ける前にこの事態を知らせ、そして戻ってこなければならなかった。  息を整え、まだ暗い廊下をゆっくりと歩き始める。数歩歩き始めると、腰に巻いた長衣の中で内股を何かが伝い落ちるのがわかったが、屈んでそれを拭うような時間も体力も無かった。足音を立てず、衣擦れの音さえも立てぬように。そして不審がられて誰何を受けぬよう、背を伸ばしてゆっくりと回廊を進んでいく。奥宮殿の最奥にある、王の後宮へ向かって。  しばらく進み始めて、シェイドは奥宮殿を警備する兵士が異様に少ないことに気がついた。侍従をしていた頃には回廊のあちらこちらに兵士がいたように覚えているし、二人組で絶えず巡回する兵もいたはずだ。なのに、誰にも会いはしない。  もしかして王太子は自分が思うよりもずっと早くから全てを計画していたのか。  緊張に高鳴る胸を押さえながら、シェイドは後宮を目指した。妾妃である母エレーナに会い、彼女から国王にそれとなく忠告して貰わなければ。  エレーナ自身もできるだけ早く北端の領地ファルディアに身を隠す必要がある。王太子が譲位を待たず王位簒奪を目論んでいるのならば、まず目障りになるのは異母兄のシェイドとその生みの親のエレーナだからだ。  出血が多かったせいか、歩くと息が切れた。焦る気持ちはあるが、これでは誰かに見られたときに不審がられる。壁に凭れて静かに息を継いだとき、シェイドは微かに聞こえる言い争う声のような物音に気づいた。ここはすでに王宮殿の一角であり、聞こえてきたのは国王の居室の方角だ。ジハード、と聞こえた気がした。  後宮はもう目の前で、その角を曲がった先は王の居室だ。壁伝いにぎりぎりまで身を寄せて、耳を澄ませる。部屋の中の何かが倒れる物音が断続的に聞こえた。  何かが起こっているはずなのに、駆けつけてくる王宮兵もいなければ、侍従達らしいやりとりも聞こえない。もしや、と思ったとき、荒々しい音を立てて扉が開く音がした。 「止めろ! 止めろ、ジハードッ……!」  狼狽して掠れた声は、老いてはいるがかつて聞き慣れた国王のものだ。それが悲鳴に変わるのを聞いて、シェイドは弾かれたように走り出した。 「誰だ!」 「止まれ!」 「追え! 始末しろ!」  通り過ぎざまに見れば、何人もの武装した兵士と廊下に倒れてもがく国王の姿が見えた。シェイドはもはや後ろも振り返らずに後宮に向かって走った。背後からは、追いすがってくる兵士達の重たげな甲冑の音が聞こえる。足が縺れそうになりながら回廊を走り抜ける。後宮への扉が目に入ったとき、シェイドは僥倖に感謝した。扉を守っている老兵は、シェイドが内侍の司に配属となったときに母からの護符を届けに来てくれた男だった。 「火急の用件だ。通してくれ!」  当直の任が終わろうという時刻で半ば居眠っていたらしい老兵は、目を白黒させながらも扉を開けてくれた。中に飛び込んで頭布を脱ぐと、扉の把手に巻き付ける。少しくらいの時間稼ぎにはなるだろう。  廊下にある調度品を床に叩きつけながら、シェイドは後宮の端に部屋を構えるエレーナの元を目指した。迷惑顔で部屋から出てきた後宮の女達も兵士の足止めになってくれるはずだ。 「エレーナ……エレーナ様!」  二十年ほど前に出たきりの懐かしい部屋の中に、シェイドは飛び込んだ。飛び込むなり力尽きたように床に倒れ、破れそうな胸を押さえて荒い息をつく。走り通したせいで喉も胸も脇腹も痛む。それに体の奥の傷が開いたらしく、息を吸うたびに引きつるような痛みがあった。 「何事ですか……」  エレーナはすでに目覚めていたらしい。部屋着の上にガウンを羽織った姿で、奥から怖々と様子を見に来た。シェイドは床に倒れたまま、その姿を見上げた。  白い肌、蜂蜜色に渦巻く豊かな金髪、澄んだ蒼い目。僅か十四歳でシェイドを産み落とした母は、四十の坂を越えたはずの今もまるで少女のようだ。 「……シェイド……?」  幼い頃に別れたきりだったが、走ったせいですっかり解けた長い髪が、エレーナの記憶を喚び覚ましたらしい。忘れられてはいなかったという、ただそれだけで、シェイドは何もかも満たされたような気持ちがした。  床から半身を起こして、母を見上げる。奇妙なほどに静かな気持ちになれた。 「政変が起こりました、母上。王太子殿下が国王陛下を……」 「……!」  怯えたように息を詰まらせたエレーナに、シェイドは両手をさしのべた。瞬きを繰り返しながら声も出せぬ様子で腕に収まった体を、シェイドは守るように両腕に抱きしめた。  本当は逃げてくれと言いに来た。だが、もう遅すぎるのだ。  エレーナも自分も、北の領地には一度も行ったことがない。今から馬車と従者の手配をして、路銀をかき集めて王都を逃げ出し何処とも知れぬ領地に逃げ延びるなど、夢のまた夢だ。追っ手はもうこの後宮の中にまで迫っている。できることと言えば、こうやって最期のひとときを手を取り合って過ごすくらいのものだ。  それでも来て良かったと、シェイドは思った。来なければ最期に一目顔を見ることも叶わずに殺されたはずだからだ。  シェイドがエレーナの元で養育された期間は短く、互いに愛情らしきものがあったとも断言できない。親子だと名乗ることも、親子だと実感することもないままだった。  だが、この髪と瞳の色が、確かな血の繋がりを教えてくれる。シェイドはこの世にたった一人生まれたわけではなく、この女の腹から産み落とされたのだと、やっと確信を持つことができた。 「居たぞ!」  部屋の扉が叩きつけるように開けられた。追っ手の兵士達が雪崩れ込んでくる姿に、エレーナが悲鳴を上げる。それを庇うように抱きかかえたシェイドの背後で剣が振り上げられた。これまでだ、と思ったその時――――。 「やめろ! 剣を下ろせ!」  雷にも似た鋭い制止の声が、部屋の空気をビリリと凍らせた。  逸れた剣先がシェイドの髪を揺らし、床に火花を散らして止まった。鞭打つような鋭い声音には聞き覚えがあった。顔を上げて確かめてみれば、部屋の入り口に立っているのはあのサラトリアだ。だが、昨夜の柔和な笑みを浮かべた青年はそこにはいなかった。 「何故、貴方がここに?」  冷え冷えとした感情のない声で、サラトリアは抱き合って蹲る二人に問うた。明るい色の瞳は目の前の光景に嫌悪を抱いたように、薄く眇められている。手は腰に帯びた剣の柄にかかっており、卑しい北方人などいつでも斬り捨ててくれるとその表情が言っていた。 「……最期に、この方に一目お会いしたかったので」  何もかもを覚悟して、シェイドは正直にそう言った。サラトリアがピクリと不快そうに目を細め、周りを取り囲んだ数人の兵士が侮蔑の表情を浮かべた。  だがそれよりも、拳を扉に叩きつける音が部屋に居た全員を凍り付かせた。 「……お前は、どこまで俺を愚弄する気だ……」  腹の底から怒りを絞り出すようなその声に、死を覚悟したはずのシェイドの喉が干上がった。扉の影から、血に染まった剣を手にした王太子が姿を現したのだ。  怒りの気配が、まるで黒い炎となって全身から立ち上っているような気さえした。胸が早鐘を打ち、冷静であろうとする覚悟を砂の城のように突き崩してしまう。  これは本能的な畏れだ。ジハードの怒れる姿を見ただけで、その足下に這いつくばり、理由の如何に関わらず許しを請いたい衝動に駆られる。体さえ自由に動けば、きっとそうしていただろう。だが全身は怖れのあまりに硬直し、母親のエレーナが怯えたように縋り付いているために動くことはできなかった。 「……その女を離せ」  少し掠れた、地を這うような低い声。爆発しそうな怒りを無理矢理に抑え込んでいるような、抑揚の少ない声だった。  シェイドは息を荒げて王太子を見上げた。手を離さなければと本能的に思う。思うのに、恐怖のあまりに握りしめた手を開くことができないのだ。 「離せと言っているだろうッ!」  溜めに溜めた王太子の怒りがついに箍を失った。叫びざま父王の血に濡れた剣を床に投げ捨てると、ジハードは左手に持った鞘でシェイドの背中を打ち据えた。指の先まで痺れが走るような強打に力が抜け、悲鳴を上げるエレーナがサラトリアの手によって引きはがされていく。取り戻そうと伸ばしかけた腕も打たれ、脇腹には硬い革の長靴を履いた王太子の爪先がめり込んだ。  身を丸めて呻こうとしたが、襟首を掴んで体を持ち上げた王太子がそうはさせなかった。後ろから羽交い締めにして、顔を上げさせる。体一つ分離れた正面に、同じようにサラトリアの手で羽交い締めにされたエレーナの姿があった。 「その女を殺せ、サラトリア。貞淑な妾妃として父の後を追わせてやるんだ」  恐慌に陥ったエレーナが金切り声をあげたが、サラトリアは眉一つ動かさなかった。小柄な体を抱え直し、背後からその首に太い腕を巻いた。  じわじわと首を絞め上げる腕にエレーナが叫びながら爪を立てたが、サラトリアに動じる気配はない。狩りの獲物を捌くかのように、一片の躊躇いも同情も見せはしなかった。 「よく見ておけ。お前のせいであの女は死んでいく」  耳元で、王太子が残酷に囁いた。  何か言おうとすると腹の底から熱の塊が迫り上がってきて、口を開くと同時に鉄錆の匂いが鼻腔を満たした。 「……母上」  恐怖と混乱のさなかで縊り殺されようとしている母親に、シェイドは手を伸ばした。  自分を産み落としさえしなければ、こんな風に無残に殺されることもなかっただろうに。自分がここへ駆け込みさえしなければ、もう少しは平穏な死があったはずなのに。 「は、はうえ……」  涙で視界が霞む。声を絞り出せば、腹の底から熱い塊が後から後から湧き出して、鼻からも口からも溢れ出た。  拘束が解かれ、床に体を投げ出されたが、もう瞬きをする力も残っていなかった。ぼんやりと開いた目に、腕を解かれて激しく咳き込むエレーナの姿が映ったが、ぼやけてしまってよく見えない。闇が深くなり、何も見えなくなっていく。 「……イド!…………ド……」  名を叫ぶ声に、複数の悲鳴が重なってかき消されていく。  身を横たえた石の床が揺れ、ものが倒れて壊れる音が続いたが、それも僅かな間のことだった。手足の感覚が消えていき、耳に届く音も小さくなっていく。  最後まで耳の奥でこだましていた自らの鼓動が緩やかに伸び、ついには止まった。苦痛からも喧噪からも解放され、闇はただ安らかにシェイドを包みこんだ。  死とは、これほど心地よく穏やかなものだったのかと思いながら、シェイドは胸に残った最後の息を静かに吐き出した。 

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