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第6話 花の王

 窓からは明るい光が差し込み、心地よい風が通る部屋の中に、ジハードは足を踏み入れた。  かつて王太子の部屋の壁を飾っていた国家の紋章や、勇壮な戦神の姿を描いた織物は片付けられ、その代わりに運び込まれたのは大振りの花器だ。そこには匂いの強くない花が、花器から零れ落ちそうなほど生けられていた。  装飾品次第で部屋の雰囲気も随分変わるものだと、ジハードは目を眇めた。確かに、今この部屋の主となっているものには、厳めしい紋章よりも花の方がよほど似合う。  ジハードは足音を立てぬように気をつけて、寝台の脇にある椅子にそっと腰を下ろした。薄い紗の天蓋布を通して、中に横たわる者が微かに胸を上下させていることを確かめる。眠りを妨げぬようにそっと布の端を持ち上げると、生けられたどの花にも負けぬほど美しい青年が一人、静かな寝息を立てて眠っていた。痛々しい唇の傷も治り、蒼白だった色白の顔にもいくらかは血の気が戻ってきていることに、ジハードはほっと安堵の息をつく。  こうして花に囲まれて静かに目を閉じる姿は、花の王のようだと、ジハードは思った。  あの激しい嵐の夜から今日で五日が経った。  大量の出血と内臓への衝撃で、一時は完全に息が止まり胸の鼓動も途絶えた肉体は、奇跡的に命を繋いだ。  あの時、ピクリとも動かぬ体を腕に抱き、ジハードは呆然と座り込むばかりだった。シェイドとエレーナが親子であったという事実と、突き上げるような突然の地震がジハードの思考を奪っていた。助けたのはサラトリアだ。サラトリアが鼓動の止まった胸を押し、口から息を吹き込んで、去っていこうとする命を呼び戻したのだ。  あまりにも静かに眠り続けるので、もしや知らぬ間に息絶えているのではないかと何度も案じたが、昨日辺りから瞼の下の瞳が動き、目覚めそうな兆候が現れてきている。  ジハードは息をつき、疲れを感じる両方の目頭を指で押さえた。回復の兆候に安堵する一方で、目覚めたこの相手になんと言って声をかければ良いのか、見当も付かなかった。  これが腹違いの兄だなどと、どうして考えてみることができただろう。  ジハードはただ、少年の頃に出会った美しい異国人の侍従に恋をしたのだ。  北方の民は、ウェルディリアの人間とは全く異なる姿を持つ。淡い色の髪、空の色の瞳、白く日焼けを知らぬ肌と細身の体。公用語を話せぬ者が多いことと、異教の神を信仰することから、この国では家畜同然に扱われることも珍しくない。特に年若く姿形の整った者は富裕者の寝所の相手として売られてくることが多く、王都に居る北方人のほとんどは娼婦と彼女らが産んだ混血児たちだ。  シェイド・エウリートも王宮に売られた性奴隷の一人だと、長い間ずっとそう思っていた。  卑しく穢らわしい男娼だとどれほど蔑んでみても、目が奪われ、心が囚われて行くのを止められはしない。国王の奥侍従だと思いこんだときにも、王の側室と密通する奸臣だと確信したときにも、はらわたが煮えそうな程の怒りを覚えたが、諦めるという選択肢はなかった。  シェイドが他に心を寄せるなら、その者を片端から消し去ってやればいい。そうすれば、最後の最後にはシェイドはジハードに縋り付くしかない。逃げ場を与えず追い詰めて、身も心も自分のものにしてしまうつもりだった。  その想いは、シェイドの素性を知った今でさえ、欠片ほどの変化もない。  ウェルディの姿とは似ても似つかぬ、だが夢に見るほど美しいこの兄を、体の下に荒々しく組み敷き、喘がせ、甘く啼かせて縋り付かせ、身も心も何もかもお前のものだとその口から言わせたかった。  だがそれは見果てぬ夢と終わることになりそうだ。  祖国を再建するためとは言え、ジハードは王太子の身でありながら譲位を待たずに父王を弑逆した。偶然あの朝王城を揺さぶった地震を幸いと、国王は倒壊した後宮の中で崩御したということにできたが、不審を抱く者も不満を抱く者も宮廷にはまだ数多く居る。彼らがシェイドの存在を知れば、禿鷹のように群がって玉座に座らせ、自分たちに都合の良い傀儡政治を行わせようとするだろう。外見が北方人であることを除けば、シェイドは王族の一人として迎えられていても不自然ではない。  シェイドを生んだ側室のエレーナ・ファルディアは、北方の辺境から買われた女ではあるが、シェイドを産み落としたときにはすでに妾妃の地位にあった。その上元を辿れば没落した王朝の末裔で、血筋は決して卑しくない。王族としての権利を要求するには十分だ。  宮廷は再び二分し、ジハードが思い描く国家の建て直しは夢物語に終わる。  白い寝顔を見つめていると、速やかに殺すべきだ、と囁く自分がいた。  今ならばシェイドの素性を知るものはごく僅かだ。今のうちに命を奪っておけば、元国王派の重臣達も旗印なしで第一王位継承者に挑むような愚かな真似はするまい。  あるいはヴァルダンの申し出を呑むのも一つだ。サラトリアは療養の名目で、シェイドの身柄を引き取る用意があると言ってきている。王族の一人として丁重に、しかし永遠に自由を与えることなく籠の鳥として生かしておくと。それも一つの策ではあった。これ以上血腥い玉座に座らずに済む。  だがどちらを選択しても、失うことに変わりは無い。目覚めれば、もう二度と触れることも語らうことも、この思いを告げることもできなくなる。  どちらの道を選んでも、シェイドはジハードに憎悪されていると確信したまま、その命を終えるだろう。ジハードはそのことを思って重い溜息をついた。  未通だった体を力尽くで犯し、侮蔑の言葉を投げつけながら手酷く陵辱した上に、殺してしまうところだったのだ。あんなことさえなければ、今頃は兄弟の名乗りを上げて、ともに国を正していこうと語りあえたかもしれないのに。  ――――いや、それはないな。  ジハードは白い寝顔を見つめながら甘い考えを打ち消した。  兄と知った今でさえ、荒れ狂うような恋情と欲望が渦を巻いている。兄弟としての肉親の情など望んではいないのだ。  その肌に触れ、声を聞き、熱い肉の中に身を埋めたい。女を追い求めるように、この男を欲望の対象として以外に見ることはできなくなっていた。焦がれる時間が長すぎて、今頃になって急に兄として見ろと言われても、とてもできはしないとわかっている。  ジハードは考えあぐねたまま、重いため息をついた。

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