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第7話 斎姫の神託
国王の崩御に伴い、新国王ジハードの即位の準備が慌ただしく進められていた。
突然の王位交代となったことと、半ば倒壊した後宮の後始末なども重なって、王位継承と奥宮殿の一切を取り仕切る宮内府、そしてウェルディ神を祀る大神殿は、蜂の巣をつついたような有様になっている。
ジハードは衆目がそちらを向いている隙をついて、式典準備とは直接関わりが無い軍部を訪れ、国境警備の強化を密かに進めていた。即位式の準備と重なって目が回るような忙しさだ。
サラトリアの姉であるタチアナ・ヴァルダンから、ジハードの来訪を願う書状が届いたのは、そんな折だった。
王城から大神殿を超えた先に位置するヴァルダンの屋敷に、ジハードは数名の供回りのみで訪れた。
タチアナはかねてからのジハードの助言者である。
古くは王家と祖をともにしたと言われるヴァルダンは、もともとは祭祀の家系だ。今はその役目を大神殿に譲っているが、ヴァルダンの代々の当主は名目や血筋に囚われることなく、能力のある者をその血統に取り入れてきた。
前王ベレスに見切りをつけ、ジハードの元に後の右腕とするべく長子を送り込んできたのも、能力を重視し先の世を見越して動くヴァルダンの気質によるところが大きかっただろう。
その実力重視の一族の中でも、タチアナは傑出した能力者だ。
神の声を聞き、先の世を見ることができる神聖な斎姫。ただし、その能力を得ることと引きかえに、タチアナは生まれたときから身体の自由を損なっており、成人することは難しいだろうとさえ言われていた。
明かりを絞った部屋に入った途端、ジハードはタチアナとの訣別の時がそう遠くはないことを察した。ただでさえ痩せていた頬がげっそりと窶れて、息をしているのが不思議なほどだ。
ジハードの視線から、それを察したのだろう。ベッドに埋もれた小さな顔が、消えそうな声で言葉を紡いだ。
「……なにやら、晴れぬご様子ですね。……望みは、叶いませんでしたか……」
弟と同じ榛色の瞳が瞬き、痩せこけて蝋のように白い頬に悪戯そうな笑みが浮かんだ。ジハードは苦笑を一つ零す。
今回の計画を実行するために吉日を選んだのは彼女で、玉座は彼女の予言通りジハードの物になろうとしている。計画は成功だ。それを知っているだろうに、タチアナは何かを揶揄するような笑みを浮かべた。肩を揺らして息苦しそうに浅い息をつきながら。
王位以上に心を悩ませる存在があることを、彼女には見抜かれているのだ。
隠すことをあきらめて、ジハードはいつもそうするように、寝台の傍らに置かれた椅子に腰を下ろした。
「サラトリアから聞いているんだろう。触れてはならぬと忠告されたものに触れてしまって、俺が壁に頭を打ち付けたいほど自分の愚かしさを悔いていることを」
ジハードは今にも事切れそうなタチアナを力づけるように、おどけた様子で笑って見せた。タチアナも笑みを深める。
ジハードはシェイドへの想いを、この斎姫に話して聞かせたことは一度もなかった。ごく個人的な些末なことでもあるし、他人に言う必要があるとは思っていなかった。
計画決行の数日前、彼女から『大切なものには手を触れずにおくこと』という忠告が来たのだが、それがシェイドのことを指しているのだとは思いもしなかった。『大切なもの』という言葉と、奥侍従に過ぎないと思っていたシェイドのことが、頭の中で結びつかなかったのだ。後になって、あのことを指していたのかと思い至ったが、もう取り返しは付かない。
いったいどうすればこの想いを叶えることができるかと、タチアナに問うのは容易いことだ。
だが、国を建て直そうという今の局面で色恋沙汰にうつつを抜かすことが正しいとは思っていないし、斎姫といえども一人の人間の心を意のままにできる術があるとも思わない。これは自分自身で片付けなければならない問題だ。
「……諦める、おつもり、ですか……」
声を出すのにも息を切らしながら、命の灯火がかき消えそうな斎姫が問う。
命数の残り少ないことと、この国の置かれた状況を思えば、他にもっと話すべき事柄があるだろうに。
「……仕方が無いだろう」
ジハードは短く答えた。
仕方が無い。すれ違いが多すぎて、もはやどれほど言葉を尽くしてもシェイドがジハードの真意を理解することなどないだろうし、想いを受け入れてくれる可能性はさらにない。後は生かして幽閉するか、殺して闇に葬るか。どちらにしても、諦めるしかない。
そう、――――諦めるしか、ない。
精というものを覚え始めた年頃から、ずっと諦めきれずに追い求めた相手だった。
王の居室での激情に駆られて行った振る舞いを、後から詫びたいと思ったときには、もうシェイドの行方は分からなくなっていた。内侍の司に命じて王都中の北方人を連れてこさせたのだが、ついに見つけることはできなかった。それも道理だ、皮肉なことに相手はその内侍の司の長官に収まっていたのだから。
それを知って何度呼びつけようとしても、やってくるのは副官だけ。職責を放棄するほど敬遠されている事実にどれほど腹を立てても、結局諦めることはできなかった。
父王の奥侍従だったとしても良いのだ。国王の側室に囲われる愛人でも、それが過去のことになるのなら目を瞑ろう。これから先、自分だけに忠誠を誓うというなら許すつもりだった。――――だが、腹違いの兄だけは駄目だ。
表沙汰になっていないとはいえ、父王の首を刎ねて座る玉座は不安定で、シェイドの存在は命取りになりかねない。だから、今度こそは本当に諦めなくてはならないのだ。
心を落ち着けるために、ジハードは一つ息を吐いた。
「……いや、違うな」
自らを嘲笑うような苦笑が口元に浮かんだ。
闇色の瞳に、飢えた獣のようなギラギラした光が走った。獲物との距離を測る肉食獣のように、ジハードは強い視線で虚空を睨み付ける。
「……仕方がないと言って諦められるものなら、もうとっくに捨てている」
忘れようとしたことも、諦めろと自らに言い聞かせたことも、両手の指では足りぬほどだ。それでもどうしても諦めきれず、ついには自らの生死さえかけた王位簒奪の計画の夜に、王太子宮におびき寄せて肌を合わせようと企むほどなのだから。
諦めるとすれば、それはどちらかが命を失ったときだけだ。
どれほど可能性が低くとも、生きている限り勝ちの目は必ずどこかにある。戦いを挑みもせずに敗走するなど、愚か者のすることだ。
手段を選ばずあらゆる手を尽くしても、必ずやこの想いを成就させてみせる。
「勝負はまだこれからだ」
「……よう、ございます。……ではあの箱を、ジハード様に差し上げましょう……」
青白い顔の斎姫は満足そうに微笑い、胸元から小さく出した指で机の上に置かれた大きな箱を指し示した。
優に一抱えもありそうな巨大な箱は、部屋に入ったときから気に掛かっていたものでもある。ジハードは椅子から立ち上がると、机の上に置かれた絹張りの箱を無造作に開いた。
「…………これは……!」
中に入っていたのは、純白の婦人用礼装だった。それも只の礼装ではない。
上質の絹が幾重にも重なったその形は、贅を凝らした婚礼の衣装であり、背部には国家の紋章がレースで編み上げられていた。国王の正妃となる人間だけが纏うことを許される格式高い婚礼衣装だ。
冬の衣装であるそれは誰のためのものなのか。
女物にしてはずいぶんと丈が長く、タチアナの背には合わないだろう。それに、彼女が次の冬を迎えるまで生きていられるとは到底思えなかった。
「……私が去った後、タチアナの名を、自由にお使いください……誰を王妃に迎えるも、ジハード様の思うままに、なさいませ……」
肩で息をつき、途切れ途切れに言葉を紡ぐ斎姫を、ジハードは無言のまま凝視した。
どこまでの未来がその目に見えているのか、聞いてみたい気もしたが、タチアナはきっと答えないだろう。今までがそうだったように。
そして、これがタチアナ・ヴァルダンからジハードに与えられた、最後の神託となった。
数日後、王太子宮殿の寝室で目覚めたシェイドはジハードの訪問を受けた。
半年後の冬の吉日に、タチアナ・ヴァルダンの身代わりとして王妃に迎えることとする。体調が整い次第、城下のヴァルダン屋敷に身を移して、以後は婚礼の日までに国母に相応しい素養を身につけよと、その場でジハードからの勅命が下った。
たとえ長い眠りから目覚めたばかりでなくとも、シェイドにはその真意を推し量ることなどできなかっただろう。
シェイドはまだ朦朧とする意識の中、即位を控えた新王に忠誠を捧げ、勅命に従うとの誓いを立てた。
――――約一月後、新王の即位式に王都中が沸き返る中を、一台の簡素な馬車が王城の裏門を滑り出て、ヴァルダンの屋敷へと吸い込まれていった。
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