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第8話 婚礼の日①

 儀式の始まりを告げる鐘の音が聞こえた。  冷たい寝台の中で一晩中起きていたシェイドの元を、小さなノックの音とともに侍従が訪れた。 「お目覚めでいらっしゃいますか、殿下。そろそろお支度を始めてもよろしいでしょうか」  気遣うような優しい声音は、王太子宮殿で目覚めたときから身の回りの世話をしてくれている、フラウという名の青年のものだ。二十歳そこそこの柔らかい面差しをした青年は、波打つ明るい色の髪を持っており、北方人の血を引いていることが窺える。  疲れの滲む息を漏らしながら、シェイドは寝台から起き上がった。 「隣の部屋に湯桶を用意してございますので、お使いください。その間に朝食のご用意を致しておきます」  女物の室内履きを履いて、続きの間になっている隣の部屋に行ってみると、部屋には暑苦しいほど暖炉の火が焚かれ、大きな湯桶いっぱいに湯が満たされていた。  婦人用の寝間着を脱ぎ落とし、貴人の裸体を隠すための幕を潜って湯桶の中に小さくしゃがみ込む。冷えた手足が湯の温かさにピリピリしたのも初めのうちだけだ。数日前から降り続いた雪が、いくら暖炉の火を大きくしても熱を奪っていってしまう。  シェイドは体を清めると、早々に湯桶から上がって暖炉の前の椅子に腰を下ろした。気配を察したフラウが、間を置かずに朝食を運んでくる。小卓の上にパンと果物と、湯気を立てるいくつかの飲み物が用意されていた。  食欲など無いが、儀式の途中で倒れるわけにも行かないので、牛の乳を温めて蜂蜜を垂らした飲み物を手に取り口をつける。 「ご朝食の後、御衣装を改めまして馬車で大神殿に向かいます。大神殿で正午から宣誓の儀、その後は国王陛下とともに王宮に入られて戴冠の儀がございます。戴冠の儀の後は……」 「もういい」  濡れた髪に焼き鏝を当てて乾かしながら話しかけるフラウの言葉を、シェイドは遮った。 「都度、何をするかだけ言ってくれれば良い。そのようにする」  不機嫌な声が出たが、取り繕うことさえ煩わしかった。黙り込んだシェイドに小さく返事をして、重苦しい雰囲気の中、フラウは腰まで伸びた長い白金の髪を見事に巻いていく。  今日は国王ジハードと、ヴァルダンの斎姫であるタチアナ・ヴァルダンの婚姻の日だった。  国王ジハードの即位式の喧噪に紛れ、フラウとともに王宮からヴァルダンの屋敷へと送り出されたシェイドは、ここで半年間の令嬢教育を受けた。  身につけるものは全て女物。女性らしい所作、言葉の選び方、衣装の身に付け方から化粧の仕方までみっちりと指導され、合間にヴァルダンの家系図や歴史、王妃たる人間に相応しい素養までも念入りに教育された。  愚かしいことだと思わずにはいられない。  病弱だという噂のタチアナは、おそらく婚姻を前に亡くなってしまったのだろう。王太子だったジハードは、国王弑逆という大罪に荷担してまで後押ししたヴァルダンに、何か明らかな形での褒賞を与えなければならなかったのに違いない。双方の間には、タチアナを王妃に迎えるという口約束があったのだろう。  だがタチアナは死に、国王とヴァルダンは身代わりを立てる必要に迫られた。誰でも良いと言うわけではない。この秘密を決して外に漏らさぬ人間が必要だった。そして、シェイドがそれに適任だったと言うわけだ。  今日の婚姻の儀が無事に終われば、すぐにでも殺されるのだと、シェイドは考えている。  内侍の司で密かに宮廷を観察してきたシェイドだからこそ、自分が今どのような立場にあるかは推測できる。  前国王が実の息子に殺されたという事実を知る上に、身分低い妾妃の腹から生まれた現国王の腹違いの兄だ。ジハードにとって生かしておいておく利点は一つもない。だからこそ、身代わりに選ばれたのだ。どのみち生かしておけぬ命ならば、せいぜい役に立ってから死ねという、そういう思惑なのだろうと理解している。  タチアナは成人することも危ぶまれた斎姫で、例え生きていたとしても、王妃としての責務を果たすことも子を成すこともできなかったはずだ。そしていつ死んだと公表しても、皆ああそうかと思うだけだ。  この無意味な婚姻によって、タチアナの名は第三十二代国王ジハードの一人目の正妃として系譜に刻まれ、ヴァルダン家は王家の姻戚として名を残す。必要なことはそれだけだ。  今日という日が終われば、全てから解放される。  そう思うことだけが、シェイドの正気を保たせていた。  ぴったりとした絹の下着を身につけ、腰には体つきを女性らしく見せるためのコルセットを巻き、用意された純白の婚礼衣装に袖を通す。  上半身を覆う上質の絹は柔らかい襞を幾重にも描いて、膨らみのない胸元に女性らしい曲線を生み出した。高い襟は、冬の寒さから貴人を守ると同時に、喉元を隠すためのものでもある。シェイドの喉は男としてはかなり目立たぬ方だったが、視線が鎖骨の辺りに向くように、大粒の真珠が首飾りのように縫い付けられいた。  腰は体の線に沿って細く絞られ、膝から下はたっぷりの大きな襞とレースが足下を隠している。後ろの裾は家格の高さを示して、長く床を埋めていた。肩から背中に流れ落ちるレースがその裾の上をふわりと覆っている。国家の紋章が飾り編みされた、王妃となるもの以外には身につけることが許されぬ意匠が、そのレースには編み込まれていた。  色の白い面に白粉は必要なかったが、肌も眉も睫も白いシェイドの顔立ちがはっきりするよう、化粧も施された。眉と目元に陰影をつけ、血色がよく見えるように頬と唇に紅を入れると、シェイドの侍従時代をよく知るものたちでさえ、正体を見破ることはもはやできないだろう。雪の女王のような、冷たく冴え冴えとした貴婦人の貌になった。  礼装を着付けた後、焼き鏝を当てて巻いた髪を高く結い上げられ、真珠の飾りがついたピンがそれを形良く留めた。髪にこの日のために温室で育てた大輪の花を飾り、肘から先が広がった袖の下に長い絹の手袋を嵌めれば、非の打ち所無い気高い姿の花嫁が完成した。 「お美しくていらっしゃいます」  興奮に少しばかり顔を紅潮させたフラウが褒めそやしたが、それを聞いても嬉しいはずもない。語り草になるほどみっともなくなければそれでいいのだ。  外で待つ従者に、フラウが衣装の着付けが終わったことを告げると、扉を開けて入ってきたのはサラトリアだった。無意識のうちにシェイドは一歩後ろに体を退いてしまう。初めて会ったときの印象が悪すぎて、この顔を見るたびに胃が痛む。  エレーナは結局一命を取り留め、今は領地のファルディアで穏やかな日々を過ごしているらしいが、目の前で眉一つ動かさずに母親を殺そうとした男の顔は、目にするだけで息が苦しくなった。 「これはまた……なんと美しいのでしょう。女神も斯くやの、天上の美姫そのものです」  部屋に入ってきたサラトリアが、雄弁な溜息の後、感嘆したような声を上げた。  歯が浮くような見え透いた讃辞を、シェイドは少し顔を俯けただけで黙殺した。このヴァルダンの屋敷に来てからと言うもの、サラトリアは折りにつけ面会に来、恭しい態度でさまざまな贈り物をしてきたが、あの嵐の夜に本性を見せられたシェイドには空々しい阿りだとしか思えなかった。  どうせ今日が終わればサラトリアか、それとも他の誰かが自分の処刑を命じられるのだ。今日一日の我慢だった。 「馬車の用意ができていますので行きましょう。大神殿までの道は祝いの花を持った民衆で埋め尽くされています。私も、このように美しい花嫁を我が屋敷から送り出す供に任ぜられて、大変光栄です」  深々と膝を折り、衣装の裾に口づけてみせる姿は出来すぎた三文芝居のようだ。無言を通すシェイドにサラトリアは控えめな笑みを浮かべて、持ってこさせた豪奢な毛皮の外套を肩にかけた。 「馬車までは、私が抱き上げて参りましょう。失礼いたします、殿下」  まだ屋敷の中だというのに、サラトリアは花嫁を攫いに来た若者のように、シェイドの体を抱き上げた。軽々と横抱きにして大股で進む姿は、今から神殿で婚姻の誓いをあげようという熱烈な恋人さながらだ。廊下の両側に控えて道を空けた使用人達が、祝いの言葉を述べながら恭しく礼を取った。 「どうか、少し微笑んでください。今から王妃となられるお方がそのような憂い顔では、国中の騎士が国王陛下に決闘を申し込みかねません」  嘲りとも取れる言葉を囁いてくるサラトリアから、シェイドは顔を背けて目を閉じた。  ヴァルダンの屋敷の門前には、王宮からの迎えの馬車が待機していた。  鬣を優美に編み込み装飾用の外套を着せられた白馬が八頭と、それを操る正装姿の御者が二人、その前後を慶事用の真紅の外套に身を包んだ警備の騎士たちが四列に並んで長い列を組んでいる。その向こうには、手に手に花を持った王都の民衆が黒々とした人垣を作って、少しでも前に出ようとしては警備兵に止められていた。  サラトリアに抱かれて現れたシェイドの姿を目にして、割れんばかりの歓声が上がった。 「手を振ってください」  怖じ気づくシェイドに、サラトリアが口をほとんど動かさずに囁いた。  その言葉に従って外套の袷から手を少しばかり持ち上げると、歓声は轟くように大きくなり、シェイドは慌てて手を仕舞い込んだ。ヴァルダンの姫君だと信じて疑わぬ民衆の祝福の叫びが、まるで非難の声のように聞こえたのだ。投げられる色とりどりの花も、真実を知れば石に変わる。  シェイドとサラトリアが屋根のない婚礼用の馬車に乗り込むと、馬車の前に位置する騎馬兵が笛を吹き鳴らした。それを出発の合図として、騎馬隊の先頭がゆっくりと歩み始める。  進む街道の両側はすでに民衆で埋め尽くされていた。馬車が近づいてくると、人々は白い息を吐きながら興奮に顔を真っ赤に染め、手に手に持った花を馬車に向かって投げてくる。真冬だというのにどこから集めてきたのか、道の両側が大小様々の花の花弁で鮮やかに彩られた。  披露目を兼ねた行進は、じれったいほどゆっくりと進んだ。終いには目の前を馬車が通り過ぎた後の民衆が、警備兵を押しのけて馬車の後を追い始めたために、騎馬隊の最後尾には道幅いっぱいの群衆の行進が続くことになった。  大声で国歌を朗唱しながら付いてくる民衆の姿に、シェイドは民が新たな王と王妃にかける期待の大きさを肌で感じ取った。民衆というものは、ただの労働力としてそこにあるだけでなく、一人一人がそれぞれに意思を持ち歓喜もすれば怒りもする、巨大な生き物なのだと言うことを。  距離にすればさほどでもないはずだったが、馬車はゆっくりと進み、大神殿に着く頃には手足がすっかり冷えてしまっていた。真冬の冷気が外套に包まれていてさえ入り込んできたのと、強い緊張のせいだ。痺れたようになって足の裏の感覚が無い。  馬車は大神殿の階段の前に回り込むと、良く訓練された騎馬隊が馬の足を揃えてピタリと静止し、御者が馬車を停止させた。到着を知らせる笛が一斉に吹き鳴らされる。それに応えて正面の大扉が両側から開かれ、中から煌びやかな法衣に身を包んだ神官達が厳かな様子で現れた。  馬車を降りようとするシェイドを、先に馬車から降りたサラトリアが制止した。  どうするのかと不安げにサラトリアを見たシェイドは、青年貴族の視線が大神殿の大扉に向いているのに気づいて、その視線を追った。  大扉の中央から、一人の背の高い青年が後ろに年老いた神官を従えて、ゆっくりと姿を現すところだった。  あ……、と小さな声がシェイドの唇から漏れた。  青年はすらりとした長身を白い第一礼装に包み、裏地が真紅の毛皮の外套を逞しい肩から足下にかけて斜めに流している。野生の獣を思わせる鋭く整った面を飾るのは、肩に降りかかる豊かな黒髪と黒々とした闇色の瞳だ。額には金剛石を嵌めた黄金の冠を戴き、腰には黄金細工の宝剣を佩いている。  まさしく戦の男神ウェルディの降臨そのものだった。その足下に使いの二頭の黒豹が付き従わないのが不思議に思えるほどに。  伝説の守護神が大神殿からその姿を現し、ゆったりと足を進めて近づいてくる。シェイドは瞬きすることも忘れて、食い入るようにその気高い姿を見つめた。  男神は足を止めることなく馬車に上がると、身を屈めてシェイドの体を抱き上げた。力強い腕だった。地鳴りのような群衆の歓声が、その一瞬遠くなる。周りの全てが滲んでぼやけ、目の前の男神と世界中で二人きりになったかのような錯覚がシェイドを襲った。 「……寒かったろう。中に入ろう」  見つめ続けるシェイドの視線にはにかんだように、男神が視線を遠くへ逃がして笑みを浮かべた。その表情と声で、シェイドは自分を抱く神がウェルディその人ではなく、生身の肉体を持った人間であることに、やっと思い至った。 「国王……陛下……」  呆然と呟いたシェイドに笑いかけ、ジハードは確かな足取りで大神殿の扉の方へと進んでいく。割れるような歓声が徐々に蘇り、大階段の両脇に控える神官達が深々と頭を下げているのが目に入り始める。夢でも幻覚でもなく、これは現実のことなのだ。  背後で大扉が閉じられる寸前、民衆の絶叫は最高潮に達した。

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