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第10話 白桂宮
てっきり、地下牢か塔か、それとも処刑場にでも連れて行かれると思っていたのだが、ジハードが足を向けたのは王の後宮だった。正確にはその跡地である。
あの日の地震で後宮の一部が倒壊したため、後宮は全て取り壊され、前王の妾妃達は全員暇を与えられたという話はシェイドも聞いていた。
かつて後宮に通じる扉があった場所には、今は神殿のそれにも似た大きな両開きの扉が据えられていた。武装した四人の衛兵がその扉を守るように立っている。
ジハードの姿を認めると衛兵達は一斉に敬礼し、金細工で飾られた扉を両側から開いた。
扉の内部に進むと、まず衛兵の詰め所があり、貴人が待つための小さな空間も作られていたが、他には何もない。正面にもう一つ、同じような両開きの扉があるのみだ。
ジハードは迷いのない足取りで扉の前に立った。と、瀟洒な装飾に似合わぬ覗き窓が開き、人物を確認した後、内側から扉が開かれた。
「……お戻りなさいませ」
扉を潜ると一斉に内側から上がった声に、シェイドは目を瞬かせた。屋根付きの通路の両側に、青地に金の刺繍で飾られたお仕着せの侍従達がずらりと並んでいたからだ。その先頭にいるのは、今朝ヴァルダンの屋敷で別れてきたフラウだった。
袖口に幅広の飾り刺繍が三本入っているのは、その宮の侍従長であることを示す印だ。彼はこの宮の所属であったらしい。シェイドは周りを見回した。
入ってきた扉から正面にある小さな宮までは、石を敷き詰めた通路が作られていた。頭上は屋根で覆われ、その両側は吹き抜けの中庭になっている。日が落ちてしまって良くは見えないが、小さいながらも形良く造られた庭のようだ。白い宮の背後は、切り立った神山の山肌に守られていた。
「今日から、ここがお前の住まいだ。白大理石と、調度品に桂の木を用いたので、白桂宮と呼ぶことにしている」
もうその必要も無いだろうに、シェイドを腕に抱いたままジハードは足を進めた。
宮の入り口にあるホールは、磨かれた大理石の柱が柔らかな影を落とす開放的な空間になっている。扉をくぐってその奥へ進むと、中は小さいながらも格式ある佇まいとなっていた。
廊下はさして広くはないが、天井が高い。それを照らす燭台は一つ一つが小振りながら品良い品物で、灯されている灯りの数も多かった。石造りの壁には装飾品を置く窪みが設けられ、零れ落ちそうなほどの花が生けられていたり、自然の風景を描いた絵画が飾られていたりして、通るものの目を和ませた。
食堂、書斎、衣装室、湯殿……使用人達が使う控え室や厨房を入れたとしても、かつての後宮の五分の一もない大きさだ。残りは全て庭となっているのだろう。
最後に寝室と続きの間になっているという居間に入ったジハードは、二人掛けのゆったりした長椅子にシェイドを下ろし、自らもその隣に座った。
「何か必要な物があれば言ってくれ。外に出られない代わりに、できるだけここで心地よく過ごせるよう配慮するつもりだ」
シェイドは無言のまま、始めて足を踏み入れた部屋をぐるりと見回した。
部屋は決して大きいとは言えないが、一つ一つの調度品は手の込んだものばかりで、国王の居室にあったものにも劣らぬ品であることがわかる。床に敷かれた毛皮も上質なら、窓を覆う垂れ幕も分厚く、凝った装飾がされていた。二人が腰かける桂の木でできた長椅子にも絹の座面が張られ、たっぷりの綿が中に詰められた贅沢な品だ。
壁では小振りな暖炉が赤々と炎を上げ、水を張った鍋に浮かべられた香草が部屋の中を爽やかな香りで満たしていた。
いくら考えても、この宮は処刑を待つ罪人を幽閉するような場所では到底ない。これはまさしく王妃に準ずる高貴な人間のための、小さいながらも贅を尽くした住まいだった。
「……私は……いつまで、ここにいるのですか……」
呆然としながら、シェイドはジハードに問いかけた。
ジハードは痛みを堪えるように、床に視線を落とした。
「いつまで、か。……長くなるとは思う」
常にはっきりとした物言いをするジハードには珍しく、彼は言葉を濁した。
シェイドは意を決して長椅子から降り、ジハードの足下に跪いた。
「……陛下。私はもう、何もかも覚悟を致しております。どうか、今すぐにでも死をお命じくださいませ」
ジハードにとっては、シェイドを生かしておく利は何一つ無い。どうせ処刑すると決めているのに、何不自由ない生活を与えておいて、いつその日が来るかと怯えさせる方が余程残酷な所業だ。
それに自分が無為に生きるだけだと分かっているのに、こんな贅を尽くした宮に住まわされるのは受け入れ難かった。今年の冬も、きっと地方では餓死者が出るだろう。それなのに、働きもしない自分が暖かい部屋で安穏と暮らすなど、罪深いとしか思えない。
シェイドは新しい国の礎となるために、命を捨てる覚悟をした。その覚悟が鈍らぬうちに死を賜り、国家と国王に最後の忠誠を示したかった。
だが、ジハードの表情はシェイドの望みを否定している。
「俺は、お前に死を命じるつもりはない。……初めて会ったときから、ずっとお前が好きだった。兄だとも知らずに愛してしまっていたんだ」
ジハードの返答が耳には届いたが、シェイドはその言葉の意味が理解できなかった。
今までの経緯とその言葉はまったく結びつかない。それにシェイド自身が、自分は蔑まれ、忌み嫌われる存在だと信じて疑いもしなかった。好きだとも、愛しているとも、生まれてこの方一度も言われた覚えがなかったからだ。
シェイドに想いが伝わらなかったことはジハードにも察せられた。今までの事を思えばそれも仕方のないことだ。薄汚い娼婦だと罵り、命さえ奪いかけたことをジハードも忘れてはいない。
けれど、それはシェイドの素性を知らなかったためで、何もかもを知った今は蔑む気持ちも血筋を否定する気も無い。実の兄だと認めてもいいとさえ思っている。思っているが、公の場で王兄として扱うことは、状況がどうしても許さなかった。
ジハードは椅子から立ち上がると、猫脚の細工が美しい小卓に近づき、台座の上に恭しく置かれてあった箱を手に戻ってきた。床に座り込んだシェイドの正面に自ら膝をつき、細工物の蓋を両手で持ち上げる。
「……公の場で兄として遇することはできないが、お前が兄だという事実を否定しようとは思っていない。これが俺の気持ちだ」
ジハードにとっては、これがぎりぎりの選択だった。
箱の中に収められていたのは、宮内府に認められた王族だけが身につけることを許される、黄金造りの額環だった。大粒の真珠と星座のように煌めく金剛石が散りばめられた細身の環は、随所に繊細な細工が施され、華奢で優美な曲線を描いている。
幾分女性的でもあるその額の中央に嵌まっているのは、高位の貴族の間では知らぬ者のない、星を内に秘めた大粒の青玉だった。
――――代々、第一王位継承者の額を飾ってきた宝石だ。ジハードが身に着けていた王太子の額環から取り外し、シェイドのために新たな額環を作り直させたのだ。
「……!」
シェイドは言葉も出せずに息を呑んだ。
額環の内側には神聖文字で名が刻まれている。そこには、『シェイド・ハル・ウェルディス』という名が、確かに刻まれていた。
「……これ、は……」
恐怖さえ覚えたような視線で、シェイドはその刻まれた名を凝視した。
『ウェルディス』の姓は直系王族のものであり、『ハル』は国王の一人目の男児に付けられる尊称だ。もし仮にシェイドが王族として認められていたならば、付けられていたはずの名だった。
「これはお前のものだ」
台座から額環を取り上げて、ジハードがそれをシェイドに差し出してきた。シェイドは思わずそれから逃げるように、体を後ろに遠ざけていた。
何という禍々しいものをジハードは作ったのか。こんなものは決して作ってはいけなかったのに。
もしもシェイドがこの宝冠を額に戴き、我こそが正当な第一継承者であると叫んで表に出れば一体どんなことになるか、想像がつかなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。父王の命を奪ってまで玉座を手にしたジハードが、その可能性を考えなかったはずがない。なのに、ジハードはこの額環を作ってしまった。
シェイド自身にそのつもりがなくとも、この額環を作ったという話がどこかから漏れれば、現体制に反発する貴族達が草の根を分けても『王兄シェイド』を探すだろう。探して見つからなければ、何者かを王兄に仕立ててでも声高に叫ばせるかも知れない。旧国王派はそのまま王兄派に名を変え、国王ジハードを玉座から追い落とそうとする大きな勢力となる。この額環はそのための絶好の旗印になりえた。
「これを受け取ってくれ、シェイド」
額に載せよと言わんばかりに額環を差し出してくるジハードを、シェイドは射貫くような鋭い視線で睨み付けた。
シェイドが命を捧げるに足ると思ったのは、この国に安寧をもたらそうと必死で戦っている若き国王にであり、男娼に物を贈って機嫌を取ろうとするような愚か者にではない。
娼婦の腹から生まれた自分ではあるが、国の混乱を顧みもせず保身に走るほど、そこまで性根は腐っていない。それなのに、ジハードのしたことはまさに『お前は金品で好きなように操れる卑しい男娼だ』と言い放ったにも等しかった。
――――誰が、そんなものを受け取るものか。
頭の中が沸騰するかと思うほどの激しい怒りがシェイドを襲った。シェイドは膝をついていた床から立ち上がると、婚礼衣装の裾をからげて廊下へと続く扉に向かった。
「シェイド?」
困惑したようなジハードの呼び止める声がしたが、従うつもりは毛頭無い。扉を開け放ち、狼狽えるフラウの横をすり抜けて、今通ってきたばかりの廊下を進む。
逃げ場のないことは分かっている。白桂宮と王宮殿を繋ぐ扉は閉じられているのだろうし、使用人達が出入りする通用扉にも警備の兵がいるはずだ。だが、中庭にさえ出られればシェイドの目的は達成される。
いや、中庭にまで出る必要さえない。後ろから追いすがってくる気配があったからだ。
「シェイド!」
肩に触れられた瞬間、それを待っていたシェイドは振り返り、思い切り振りかぶった手をジハードの頬に振り下ろした。
「……ッ!!」
乾いた皮膚を打つ音と、フラウの息を吸い込む悲鳴のような音が重なった。
シェイドは肩で息をつきながら、じんじんと痛む手をもう片方の手で押さえ、避けもせず平手を受け止めたジハードを睨み据えた。
ジハードは気性激しく誇り高い王だ。家臣に無礼を働かれて黙っているような男ではない。すぐさま平手を打ち返し、踏み潰さんばかりに足で蹴りつけ、「今すぐこいつの首を刎ねろ」と、そう叫ぶに違いない。
シェイドはその瞬間を待って、奥歯を噛みしめた。
「…………」
長い沈黙が廊下に下りた。
頬を打たれたジハードは目を伏せたまま何も言わず、シェイドは息を荒げて立ち尽くした。瞬きをする瞬間さえ惜しんで、シェイドは癇性なはずの神の末裔を見つめ続けた。なぜ何も言わないのか。どんな恐ろしい罰を下そうと黙っているのか。
玉体を打った手が、時間の経過とともに徐々に大きく震え始めた。
「…………庭に出たいのなら、寒いから俺も一緒に行こう……」
長い沈黙の後、ジハードの口からぽつりと出てきたのはそんな言葉だった。シェイドは意味が分からずに、「え……?」と聞き返した。
ジハードは一歩近寄ると、手に持っていた毛織物をシェイドの肩にふわりと掛けた。
「腹を立てたのなら、何度でも打てば良い。お前にしたことを、そしてこれからお前にすることを思えば、何ほどのことでもない」
髪に飾られた花が、廊下に敷き詰められた毛皮の上にぽとりと落ちた。ジハードはそれを視線で追いながら、織物の前を掻き合わせて、冬の屋外を歩くには向かない衣装であるシェイドの体を包み込んだ。
「……だが、俺を怒らせて罰を受けようと思っているのなら止めておけ。俺はそうしないし、お前の手が痛むだけだ」
声は静かだった。強い光を放つ視線は、敢えてシェイドを見なかった。言葉がシェイドの意識に浸透するまで、ジハードは我慢強く待った。
肩が大きく三度揺れる間に、言葉はシェイドの中にゆっくりと滲み込んだ。滲み込んでくるにつれ、湧き上がってきた極度の緊張と絶望が、シェイドから立ち続ける力を奪った。
膝を崩れさせたシェイドを支えて共に廊下に座り込んだジハードが、まるで泣く子をあやすように、大きな手でシェイドの背をさすった。何も言わずに、ただ黙って、何度も、何度も。
シェイドはいつの間にか自分が泣いていることに気がついた。
「俺は、お前を俺のものにする。……お前が兄でも、殺したいほど俺を憎んだとしても、俺はお前を俺だけのものにするぞ」
耳元でジハードが静かに囁いた。
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