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第20話 出立の日

 鳥の鳴く声に、シェイドは空を振り仰いだ。  上空を鳥たちが翼を連ねて飛んでいく。視線を巡らせると王都の背後を守る神山の切り立った山肌が見えた。高地にはまだ根雪が残っているのだろうが、シェイドの目に見える範囲はうっすらと新しい緑が萌え始めている。微かな春の気配だ。  中庭の木々に留まっていた小さな鳥が数羽舞い降り、卓の上に撒いたパンの欠片を啄んだ。  小さな体で大きすぎる欠片と戯れるように格闘する鳥たちに、ふと温かい笑みを誘われる。もう少し小さく千切ってやればよかったが、今手を出すと飛んで逃げてしまうだろうから、見守っているしかない。懸命に生きようとする姿が、シェイドの心に寂しさを呼んだ。  シェイドがここに来たのは冬の最中のことだった。  まだ中庭には厚く雪が積もり、植えられた木々の姿も定かでなかったのだが、ここのところの晴天続きでやっとその雪も解けた。気候も和らいだため数日前からは中庭に出る許可も下り、以来シェイドは日中のほとんどをここで過ごしている。政務の合間を縫って戻ってくるジハードも、まだ肌寒い屋外では肌に触れようとせずにいてくれるからだ。  思えばここへ来てもう三ヶ月以上になる。  当初はひと月と経たずに飽きられ、解放されるものと思っていたのだが、春が近づく今になってもまだその兆しは感じ取れなかった。  今もジハードは毎夜必ずシェイドを腕に抱く。そればかりか、三度の食事も共にするし、時には湯浴みも共に行う。食事の時にも湯浴みの時にも、ふと気がつけばシェイドはジハードの腕の中に抱かれていて、体中を愛撫された上にその精を体内に受けることも珍しくはない。それが辛くて堪らなかったのは初めのうちだけだ。  昼となく夜となく抱かれ続けて、いつの間にかそれが日常になってしまった。苦しいほどの快楽は、時にはシェイドの方をもどかしさで焼き尽くし、夜を待ち遠しく思わせることさえある。そうなればなったで、新たな不安が胸を占めた。  そう遠くないうちに必ず今の生活は終わりを告げるはずだ。そうなった時に、果たして自分はそれを受け入れられるだろうか。この肉体は、ジハードなしで過ごすことができるのだろうか。  先が見えない不安に襲われて、せめて日中だけでも触れられないことに慣れたいと、シェイドは寒い中庭に身を置いていた。 「……楽しそうですが、そろそろ中に入りませんか。ここは寒いでしょう」  不意に後ろから掛かった声に、シェイドは驚いて椅子から立ち上がった。羽音を立てて鳥たちが飛び立っていく。  膝に乗せていた本も音を立てて地面に落ちた。慌ててそれを拾い上げようとしたシェイドは、横から伸びてきた手にぶつかって、熱いものに触れたように手を引いた。 「驚かせてしまってすみません。お怪我はありませんか」  落ちた本を拾い上げて差し出すのは、柔和な顔をした青年だった。  サラトリア・ヴァルダン。王妃であるタチアナの実弟で、国王ジハードの右腕と目される、由緒ある大貴族の長子だ。  シェイドは警戒するように一歩下がると、手を伸ばして本を受け取った。サラトリアがその様子を見て苦笑を漏らした。 「そんなに私を嫌わないで下さい」  シェイドは目を合わせず、その言葉が聞こえなかった振りをした。優しげな顔をしたこの貴公子が、シェイドは苦手だった。  温厚そうな顔を見せながら、あの嵐の日にシェイドをジハードの寝室に投げ込んだのもこの青年なら、母親のエレーナを顔色一つ変えずに絞め殺そうとしたのもこの青年だ。そもそもこの若さであのジハードの側近を務め、戦場に於いては共に馬を駆り剣を取って一軍を指揮する将校でもある。  北方人の血を思わせる明るい色の髪と目の色を持ちながら、サラトリアは今や押しも押されもせぬ国の重鎮の一人だ。本心が見えない甘い微笑みを向けられるたび、その得体の知れなさにシェイドは身震いする思いだった。 「少し早いですが昼餐に致しましょう。本日は、陛下はお忙しくてお戻りになれないとのことで、私がご相伴にあずかるお許しを得ました。さぁ、参りましょう」  差し出された手を、シェイドは迷うように見つめた。  ここに来てからのサラトリアは、茶番劇を演じるかのように慇懃な態度を崩さない。まるで実の姉に対するかのように、その言葉は丁寧で親しげだ。  だが、腹の内ではシェイドの存在を疎ましく思っているのは間違いないのだ。  ヴァルダンも、おそらくはじめはこのような事態になるとは想定していなかっただろう。身代わりとして送り込んだシェイドが処刑もされず、何ヶ月にも亘って実際に国王の寵愛を受けるような事になるとは。  タチアナが王妃の座に納まったことで、ヴァルダンはこれ以上ない名誉を得た。宮廷内での多くの実権も握ったはずだ。だが、タチアナから世継ぎの王子が生まれる目算がない以上、この婚姻で得られる利得はそこまでだ。もしもジハードがまったく別の令嬢を妾妃に迎え、その女性が世継ぎの王子を産むようなことがあれば、ヴァルダンは一度得た地位と名誉を手放さねばならなくなる。  そうなる前に、彼らは一門の中から新たな妾妃候補を見つけ出し、ジハードの元へ送り込もうと算段しているはずだった。そして、白桂宮での夜の生活を鑑みる限り、その企みは不首尾に終わっているとしか思えない。いかにジハードが精力的だと言っても、毎夜あれほど激しくシェイドと交わりながら、他に妃を置けるほどの余裕はあるはずがなかった。  利用するために送り込んだシェイドの存在が、今はヴァルダンの次の野望を妨げる障害となっている。 「……陛下がお越しになられないのでしたら、昼食は結構です」  サラトリアとともに食事をするなど、考えただけで眩暈がしそうだった。もともと空腹には慣れている。一日や二日食べずにいたところでどうということはない。それよりもサラトリアがこの宮の中にいると思うことのほうが気鬱だ。  中庭の奥へ逃げ去ろうとするシェイドの前に、大きな体が立ち塞がった。 「駄目ですよ。貴方様はお一人で食事をなさるとあまり召し上がられないからと、私が見張り役を命ぜられたのですから。食事を抜くなどもってのほかです」 「……ッ!」  目の前の大きな体に、シェイドは息が詰まって体が震え始めるのを感じた。 「殿下……?」  蒼白な顔をして立ち尽くすシェイドに、サラトリアが不審そうに呼びかけた。  恐怖で体が強張って、逃げることも取り繕うこともできない。  慣れてきたつもりではあったが、シェイドは体格の良い相手に不意に近くに来られると、自分でも抑えようのない恐怖感で震えが止まらなくなる。  あの嵐の日に死ぬほど恐ろしい思いをしたせいだということは分かっている。ジハードの前で突然息が上がってしまって止まらずに、そのまま意識を失ってしまったことも何度かあった。  元から、他人の気配が駄目なのだ。内侍の司にいる時も常に頭布を目深に被り、他人とは極力接さぬようにして何とか過ごしてきた。今もまだ慣れてなどいない。侍従たちはそれを察して、できるだけシェイドが一人になれるようにしてくれているが、姿を覆う頭布までは与えてくれなかった。肩を覆う毛織物のショールをぎゅっと握りしめて、震えを押し殺そうとしたが、なかなか止まりそうにはなかった。  シェイドの様子に気がついたのか、サラトリアは地面に膝をつくと、騎士が姫君にするように恭しく跪いた。目尻を下げ、泣いた子供でも泣き止むほど優しい声を出す。 「……参りましょう。温かい物を口にすれば、きっと気分が落ち着きます」  虫も殺さぬ様子に見えるが、その本性が凍り付くほど冷徹なことをシェイドはすでに知っていた。逆らい続ければ、どんな目に遭わされるかも容易く想像がつく。今や国王ジハードでさえヴァルダンの意向は無視できないほど、宮廷では大きな存在となっているのだから。  どれほど嫌でも逆らうことはできない。サラトリアが昼食をともにと口に出したのなら、それはすでに決定事項なのだ。  袖に包んだ手を差し出すと、サラトリアはその手を下からゆっくりと掬い取り、思いがけないほど強く握りしめてきた。  大柄な獣のように優雅な仕草で立ち上がると、サラトリアはごく自然な様子で傍らに立ち、腰に手を回してきた。もう、逃げることはできない。  並んで立ってみると、サラトリアとジハードは上背も肩幅もほとんど同じくらいだった。静と動というほど印象の違う二人だが、黙って傍らに立つと驚くほど気配が似ている。使っている香水が別でなければ、ジハードが傍らにいるのかと錯覚するほどだ。  歴史を紐解けば、ヴァルダン家はウェルディの血を引く一族であるとも言われている。世が世ならば、今頃はこのサラトリアが王位についていたとしても不思議ではないのだ。  ホールではフラウが待っていた。サラトリアに腰を抱かれて随伴を許しているシェイドの姿に一瞬意外そうな顔を見せたが、よく躾けられた侍従は何も言わずに二人を食堂へと案内した。  サラトリアは白桂宮に足を踏み入れることを許されている唯一の貴族だ。だがそれもこのホールまでで、ここより中に入るのはこれが初めてだった。彼は珍しそうな顔もせず、まるで己こそがこの宮の主であるかのように悠然と足を進めた。  いつもより少し早い時間ではあったが、食堂にはすでに昼餐の用意が整っていた。  野菜を牛の乳に溶かし込んだ濃いスープ、数種類のパンと干した果実、根菜と豆の添え物、卵と蜂蜜を使った甘い冷菓などだ。肉や魚の類いは一切ない。特に獣肉は、その匂いを苦手とする主人のために、この宮では持ち込みを禁じられている。意外なことに、ジハードはこの食事に不満がないようだが、上流階級に生まれたサラトリアにしてみれば、質素で物足りない食事だろう。  だがサラトリアは特に不思議がることもなく、いつもジハードが使っている席に着くと、日々の光景を見ていたかのように給仕を始めた。パンに果物を煮詰めたソースを取り、野菜を小皿に取り分けてはシェイドの前に置く。ジハードとの食事の席では表宮殿で行われている政務の話が中心となるが、サラトリアは新しく検討している税制の利点と問題点を、シェイドにもわかるように噛み砕いて話した。その様子もまたジハードとそっくりだった。 「……それにしても、お綺麗になられましたね」  ふと話が途切れた瞬間、サラトリアがしみじみとした様子でシェイドを見つめて言った。 「初めてお目見えしたときから美しいお方だとは存じておりましたが、この頃はますます輝かしくて、とても正視できないほどです」  いつもは穏やかに見える榛色の瞳が、今は底から光を放っているように見えた。隠されている本性の一部が垣間見えたようで、シェイドはぞくりと背を震わせる。  この青年に限っては、言葉を額面通りに受け取ることはできない。疑う余地もないほど人の好さそうな顔をして、どんな残酷なことでも平気でできる青年だ。流れている血の温度が違うのだ。 「国王陛下に大切にされて、今の貴方はまるでファラスの御使いそのもののようです」  歯が浮くような賛辞を、サラトリアは続けた。  白桂宮に来てから、確かにシェイドの生活は今までとは一変した。  日に一度か二度で済ませていた食事を三度規則的に摂るようになり、毎日湯に浸かって体を温め、激しい情交に疲れ切って夜は正体もなく眠りにつく。そのせいで、痩せていた体にも少しばかりの肉がつき、白い肌はほんのりと血の色を帯びた。よく手入れされた髪や爪は艶やかに光っている。  だがどれほど磨きをかけたところで、髪の色も目の色も、決して黒くなりはしないのだ。  異形の姿に言及されることがどれほど辛いことかを、果たしてサラトリアは知っていて口にするのだろうか。知っているからこそ、分を弁えよとの警告をシェイドに与えているのだろうか。  シェイドは口元に持って行こうとしていたパンを皿に戻し、膝にかけていた布を払った。侍従たちに食事の終わりを告げる仕草だ。これ以上の同席は耐えがたかった。 「……余計なことを口にしてしまったようです。残りを少し包ませますから、馬車の中で召し上がって下さい」  立ち上がったシェイドに、サラトリアは涼しげな様子で告げた。  馬車、の一言に、シェイドは不審な表情を浮かべて座ったままのサラトリアを見た。公式行事があるとは聞いていないし、そもそも軽食を持ち込むほどの旅程となると、王都の外に出ることになりはしないか。  けれど、言葉の意味がわからないのはシェイド一人のようだった。侍従たちは平然と食事を片付け、携帯用の籠の中にパンや果物を詰めていく。早くから用意されていた昼食と言い、状況を知らされていないのはシェイド一人だけなのだ。 「長い旅になります。どうか、道中お気を付けて」  真意を誰にも悟らせない若き大貴族が、優しげな作り笑いを浮かべて言った。  食堂を後にしたシェイドをフラウが追ってきた。そのまま居間に案内される。居間に入ると、そこには男物の旅装一式が揃えられていた。 「馬車の方はもう用意ができております。お着替えが済まれましたらお呼び下さい」  一人きりにされたシェイドは、茫然とした様子で部屋を見回した。  今朝まで炎を上げていた暖炉の火が、水をかけられ消されていた。花瓶に花はなく、水差しの中も空っぽだ。卓の上はすべて綺麗に片付いている。毎日当たり前のようにあった生活の印が何もかもかき消されていた。  シェイドは卓に近づいて、用意された衣装を確かめた。  革の長靴に幅広の帽子、丈の長い外套と袖口に毛皮が張られた手袋。冬に長旅をするための装束一式だった。これらを着るということは、今からこの白桂宮を出て、どこか遠いところへ身を移すことを意味していた。 「……は、……はは……は……」  気の抜けた、奇妙な笑いが口から漏れた。  一日千秋の思いで待ち望んでいた日が、あまりにも唐突に、何の前触れもなくやってきたのだ。  いや、前触れがないと考えるのは、自分が気づかなかっただけなのだとシェイドは思い直す。冷静になって思い返してみれば、昨夜のジハードは幾分淡泊だった。  いつもは一夜のうちに二度も三度も精を注がれるのに、昨夜はたったの一度で終わりを迎えた。ジハードが王宮の表宮殿から白桂宮に戻ってきた時刻も遅かったし、いつもならばシェイドの体を抱きしめて眠るのに、昨夜は傍らに身を寄せただけだった。あれが、きっとジハードからの合図だったのだろう。  ……役目を解かれるのなら、せめてその口から一言なりとも聞きたかった。  シェイドはそう思ったが、それは身分を弁えぬ我が儘というものだ。国王が奥侍従を手放す際にいちいちそれを当人に告げる必要などない。暇を言い渡される時がその時なのだ。 「は…………」  喜ばしいはずだ、シェイドは自分にそう問いかけた。  ずっとこの日を待っていたのではないか。ジハードが自分に興味を失い、新しい妃が迎えられる日を。なのに、体の真ん中にぽっかりと大きな穴が開いたような、言いようのない虚しさが胸を占めるのは何故だ。  脱力して座り込んでしまいそうな体を叱咤して、シェイドは用意された衣服を一枚ずつ身につけていった。  二枚重ねた絹の下着と、柔らかなシャツ。毛織りの胴着は縁に見事な刺繍がされている。上着は光沢のある格式高い布地が使われ、飾り釦も金で象眼された見事なものだ。上着の袖や襟には胴着と揃いの刺繍がされていた。上着もズボンも仕立てが良く、ピタリと身に沿うのに動きやすい。それにほっとするほど温かかった。  長靴を履いて鏡を見ると、今朝まで居た王妃の紛い者は跡形もなく姿を消し、そこに居たのは非の打ち所無い貴族の子弟の姿だった。ジハードは最後の餞に、シェイドに貴族としての盛装を用意してくれたのだ。  裸で宮を追い出され、地下牢で首を刎ねられたとしても恨み言一つ言える立場ではない。それなのに、この見事な衣装だ。シェイドはジハードの与えてくれた恩恵に感謝しようとした。なのに、どれほど自分に言い聞かせても心が晴れることはなかった。  あれほど待ち望んだ解放の日ではないか。もう一度そう自分に言い聞かせてみたが、湧いてくるのは喜びではなく、何とも言えない虚しさだけだった。  額を飾る星青玉の額環と右手の王妃の指輪を外して、じっと見つめる。重荷だとしか感じなかった身分の象徴はいつの間にか体に馴染んで、手放すとなると物寂しく感じられた。だが、これは元々自分には全く相応しくないものだったのだ。  シェイドは扉一つ隔てた寝室へと入った。寝室はすでに灯りも消され、寝台は二重の天蓋布が下ろされていた。天蓋布をめくってみると、中はすでに敷布も剥がされている。今朝方までの温もりなど、望むべくもない。  シェイドは裸の寝台の上に額環と指輪を置くと、帽子を被り手袋を嵌めて、数ヶ月を過ごした部屋を後にした。 「お支度はよろしいでしょうか」  居間の外で待っていたフラウに軽く頷くと、彼は室内を確認したのち、首から提げていた鍵束を取り出して寝室と居間を施錠した。次の主が決まるまで、この部屋はしばしの休息を与えられるのだろう。  フラウはジハードが使う王宮への通路ではなく、使用人用の厨房の方へとシェイドを案内した。鍵を使っていくつかの簡素な扉をくぐり抜けると、塀で囲まれた小さな空間が目の前に現れた。商人が食材などを運び込むための裏口らしい。そこには紋章のない黒塗りの馬車と、二十騎ほどの騎馬兵を連れたサラトリアが待っていた。 「どうか、良い旅路を」  サラトリアが胸に手を当て、恭しく礼を取った。  シェイドはそれに言葉は返さず、無言のまま会釈を交わして、一人馬車に乗り込んだ。出立を見送る従者は侍従長のフラウただ一人だった。  最初から最後までサラトリアの手駒として使われたのだということを、この寂しい見送りが如実に物語っていた。

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