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第19話 番外 赤毛の少年

 内侍の司の随員に伴われて入ってきた少年の姿に、ジハードは落胆の溜息を押し殺した。  半ば予想はしていたものの、やはり今回もやってきたのは、求める相手とは似ても似つかぬみすぼらしい子供だった。しかもジハードは『生粋の北方人らしい金髪と青い目を持つ少年』と指定したのに、ここに居る痩せこけた子供はどう贔屓目に見ても金髪ではなく赤毛だ。純血ではなく、混血児だろう。  ――――あの金の髪を持つ少年は、いったい何処へ消えてしまったのだろうか。  王太子であるジハードがその少年を最後に見たのは、もう一年ほど前のことになる。  以前からずっと気になっていたのだ。王宮内で時折擦れ違うその少年は、稀有なことに、まったく混じりけのない純粋な北方人の容姿を持っていた。  最初はあまりの異質さに目を引かれ、二度目からはその美しさに心を囚われた。  天から舞い降りたファラスの御使いそのものの白い顔。表情を隠す長い睫と少女のような頬、瑞々しい淡い色の小さな唇。  光の束のような柔らかい白金髪を、もっと間近で見てみたい。骨細のすらりとした肢体に触れ、腕の中に抱きしめてみたい。  だが、ジハードがやっとその少年を間近に見ることができたのは、父王の寝室の中だった。  扉を開け放して寝台の巨大な敷布をかけ直している姿を見た瞬間、ジハードは直感的に『これは父王の奥侍従だ』と確信した。思えば北方人の少年がそれ以外の目的で王宮内に留め置かれた例など聞いた覚えがない。あれは性を売る卑しい男娼だったのだ。  何か神聖なもののようにさえ思っていた己が滑稽で、淡い好意は全て憎しみに変わった。  少年が何かジハードを嘲るような態度を見せたわけではなかった。だが、臓腑が煮えくりかえるような怒りと憎しみを覚えたジハードは、大股に近づくと物も言わずに少年の顔を殴打した。  怒りでカッとなって、加減など忘れていた。少年とジハードは年齢はそう変わらぬように見えたが、体のつくりがまるで違う。十五歳になったばかりとは言え、すでに初陣も済ませ、軍人に混じって剣の稽古を欠かさぬジハードは並の大人以上の体格を備えていた。  殴打された勢いで吹き飛ばされるように床に倒れた少年は、いったい何が起こったのか分からないという様子で、目を大きく見開いてジハードを見つめてきた。その時初めて、ジハードは少年の瞳が滅多に見ぬような冴え冴えとした蒼であることに気がついたのだ。  深い青玉色の虹彩の奥に金泥が混じり、燭台の灯りを映して煌めくさまは、この世で最も尊い宝石のようだった。美しいと思い、そう思った自分に腹が立った。  腹立ちのあまりにジハードは思いつく限りの罵詈雑言をぶつけ、心揺さぶられた自らの動揺を隠すために、二度と姿を見せるなと吐き捨てた。  後悔に襲われたのは、数日が経過し、理不尽な怒りが落ち着いた頃だった。  何度あの日の出来事を反芻してみても、愚かしいことに恋しさは募るばかりだ。あれほど美しい北方人は他に見たことがない。せっかくの機会だったというのに、なぜもっとつぶさに見ておかなかったのだろう。目を見開いて驚く顔が目に焼き付いているばかりで、声さえも聞かなかった。  国王の奥侍従だからと言って、少年がジハードに何か非礼を働いたわけではない。叱責する正当な理由はみじんもなかった。ジハードのしたことは、身分を笠に着て罪のない弱者を虐めたも同然の行為だ。それは日頃ジハードが蔑んできた行為であったはずなのに、まさにその卑劣な蛮行を父王の前で行ってしまったのだ。  謝りたいと思った。思ったが、王太子であるジハードが奥侍従如きに頭を下げることは長い歴史を持つ王室が許さない。ならば、あの少年を自分の宮の従者として迎えてやろうと考えた。娼婦のような真似をせずとも、北方人でももっとまともな仕事を与えてやるのだと。だがジハードがそう思った時にはもう、少年は父王の侍従を解任され、その行方を知るものはいなかった。  宮廷中を探し回っても、あれほど目立つ容姿を備えた者が見つからない。まるで初めから存在しなかったかのように、名前を知るものすらいない。自力での探索は難しいことを悟って、ジハードは内侍の司を使うことにしたのだが、百人を超える北方人を連れてこさせても、その中にあの少年はいなかった。  もしかすると、城下の娼窟にでも下げ渡されたのかもしれない。そう考え、格の高い娼館だけでなく、低俗な娼窟からも探し出すようにと命じたのに、成果はまだない。それどころか、今日に至ってはこの赤毛だ。王都中の金髪の少年をすでに狩り尽くしたとでも言うのだろうか。  落胆を押し隠して、ジハードは金貨の入った袋を赤毛の少年に突き出した。 「――――今夜は隣の部屋を使って休め。明日の朝、元の場所まで送らせる」  もはや瞳の色を確かめるまでもない。これほどみすぼらしく、しかもどう見ても赤毛の子供を買い取ってきたのは、内侍の司の重大な失態だが、あそこも暫く前に長官が変わったばかりで、まだごたごたしているのだろう。これまでもそうしてきたように、宮殿に一晩泊まらせ、金銭を与えて城下に戻すだけのことだ。一晩でも王宮に招かれたとあれば、この子供にも多少の箔がついて、扱いもいくらか良くなるかもしれない。  だが、痩せこけた少年は金貨の袋に手を出そうとしなかった。  もしや言葉さえ通じないのかと、ジハードは煩わし気な溜息をついた。湯浴みをして身ぎれいにし、真新しいお仕着せを身につけてはいるものの、明らかに混血の貧民だ。片言が話せたとしても、王宮に連れてこられたというだけで、萎縮しきって声も出ないのかもしれない。  袋の中身が金貨であることが分かるように、ジハードは袋を揺すって音を鳴らして見せた。最下層の貧民なら一生掛かって稼ぐのと同じほどの額になるはずだ。文句はなかろう。  だが少年は袋の方を見ずに、ジハードをまっすぐに見つめてきた。 「――――あの、旦那様」  意を決して、という様子で、少年が口を開いた。 「……僕をここに置いてください。置いてくださるのなら、何でも致します」  縋るような硬い言葉に、ジハードは冷ややかな顔で首を横に振った。  王宮の煌びやかさに目が眩み、城下に戻りたくないと訴えたのはこの少年が初めてではない。だがジハードは素性も知れぬ混血児を側近くに置くつもりは初めからなかった。そんなことをしていればきりがないし、王宮では最下層の下働きさえ歴としたウェルディリア人だ。特別の身分や擁護がなければ、北方人が犬以下の扱いを受けるのは城下も城内も同じこと。王宮に勤めたからと言って、元の居場所より居心地良いとは限らない。 「人違いだ。去れ」  ジハードは袋を少年の足下に投げやった。一晩の報酬としては過分な額だ。しかも指一本触れられることなく、温かい寝床で休むだけで得られるのだ。分不相応な望みを抱かず、幸運を喜んで元の場所に戻るのが一番この少年の為でもある。  それを拾って出て行け。そう命じたジハードの前で、だが、少年は命には従わずに服を脱ぎ始めた。 「脱ぐな! さっさと隣へ行け」  厳しく怒鳴りつけたが、聞こうとしない。  ジハードは舌打ちし、手元に置いてある鞭を威嚇のために振り上げた。寝台の柱を打てば硬く鋭い音が響いた。護身の剣代わりのそれは、本気で振るえば大の男でも立っていられぬほどの打撃を与えられる。貧民ならばなおさら、鞭の痛みがどのようなものかはよく知るところだろう。  怯えたって一目散に逃げ出すかと思ったが、意に反して少年は逃げ出しもせず、その場で最後の一枚を脱ぎ落とした。やや色白の裸体を恥ずかしげもなく曝け出す。  現れた肉体に、ジハードは言葉を見失って沈黙した。 「旦那様は蕾売りをお使いになられたことはおありですか」 「……いや。……初めて見た」  苦々しい思いで、ジハードは自分より幼い少年の無惨な体を目に収めた。  『蕾売り』と呼ばれる者達がいることは、ジハードも知識として知っていた。  どんなに美しい少年でも、長ずるにつれてただの男へと変化するのは自然の理だ。体は柔らかさを失い、声は低く、体毛は濃くなり、色事を売る商品としての価値は暴落する。  それを厭った商人たちは、少年達が精通を迎える前に、特殊な器具を使って変化の源となる部分を潰してしまうのだ。そうしておけば、中性的な柔らかい体のまま成長するため、通常よりも長い期間、男娼として使うことができる。  裸になった少年の局所は退化したように小さくなり、本来あるべきものがそこにはなかった。 「大層具合好いと言っていただけます。どうかお試し下さい」  媚びるような作り笑いを浮かべた少年を、ジハードは厳しい目で睨み据えた。少年の痩せた体に残された傷は、それだけではなかった。  左の乳輪に穴が開けられ環が通されていた。金属製の小さな札がそれには留められている。終生奴隷の証だ。ここからでは見えないが、札には持ち主の名が刻印されているはずだった。  この少年は文字通りの『物』であり、例え何処へ逃げても胸に札がついているのが見つかれば、持ち主の元へ戻される。拾い主に渡す報酬の代わりに、奴隷が受ける刑罰は過酷だ。  若くて見目好い間は体を売って稼げるからまだいいが、もう少し年を重ねて売り物にならなくなった時、彼らを待ち受ける運命がどのようなものかは言うまでもない。  人間を生きた性具に貶める『蕾売り』も、人間を物として売り買いする『札付き』も、本来は国の法で禁じられているはずのものだ。  だが、実際には北方人やその混血がどのような扱いを受けていても、気にするウェルディリア人はいない。ウェルディリアの法はウェルディリア人のためのものだ。神殿に於いても、生まれた赤子の髪や目が黒くなければ、生誕の祝福を授けることはない。祝福を受けられなかった子供は、生涯人として扱われることなく死んでいく。  あの金の髪の少年も今頃はどこかの娼窟に下げ渡されて、男たちに押さえつけられ、肉を貫く奴隷の証を付けられているのかもしれなかった。王太子であるジハードの不興を買ったために王宮を追われ、死ぬよりつらい思いをしているのかもしれない。  一瞬の激情に任せて、ジハードが娼婦と罵ったが為に。 「……俺のことは敬称で呼べ。王宮ではそれが決まりだ」  何の罪滅ぼしにもならないと分かっていながら、ジハードは主義を曲げて少年を手元に引き取ることにした。  ぎこちない笑みを浮かべていた少年が、茫然と口を開けた。北方人の年齢は読みにくいが、初めに思ったよりずっと幼いのかもしれない。 「まずはお前がいた店を潰す手伝いをしろ。それが終わったら、従者としての教育を受けさせる。――――うまく物になれば、お前の新しい主人に引き合わせてやろう」  その頃にはきっとあの少年も見つかっているはずだ。王都中の不法娼館を叩きつぶしてでも探し出してみせる。そしてこの王太子宮殿に、侍従の一人として迎えてやるのだ。  とかく蔑まれることの多い北方人だ。王宮に勤めていてもそれは変わらない。身近に一人くらい同じ北方の血を引く従者がいたほうが、どちらもきっと心が安まるに違いない。 「……は、はいっ!」  服を着ろ、ともう一度命じると、今度は逆らわずに少年は大慌てで服を着始めた。王宮に留め置くと決めたのなら、胸についた札も外してやらねばならない。環が肉を巻き込んでいるため、通常は肉片ごと切除しなければならないはずだが、宮廷医なら何かいいい外し方を知っているだろう。知らなければ、できる医者を探させるまでだ。  ジハードの祖父や曾祖父の時代から、北方の血を引く者たちはこの国で生きる場所を与えられなかった。この国はウェルディを始祖とする民のための国だからだ。  だが、国を統治するという視点で考えてみた時、それは最善の姿だろうかとジハードは常々考えていた。  国内には現時点で相当数の北方人が入ってきている。彼らの労働力はすでに国力の一部となっている上、混血児も徐々に増えているため、生粋のウェルディリア人との境も失われつつある。そろそろ国としての考え方を根本から改め、北方人も国民として等しく受け入れるべき時機が来ているのではないか。  人買いの元を逃げ出し、行く宛もない北方人たちが生き延びるには、他人の物を奪い取るしか道がない。金銭や命を奪おうとする北方人たちはウェルディリア人に嫌われ、ますます虐げられて居場所をなくす。その構図をどこかで変えなければ、この国の未来は荒れ果てたものとなるに違いない。 「……あの……僕は、旦那様をなんとお呼びすれば……」  服を元通り着付けた少年がおずおずと尋ねてきた。どうやら誰に買われたのかも知らされずにここへ連れてこられたらしい。ジハードは苦笑した。  新しく内侍の司の長官となった男は、どうやら相当のくせ者のようだ。  度重なる要請を逆手にとって、よりにもよって『蕾売り』の『札付き』などという、王都の暗部を奥侍従候補の中に紛れ込ませるとは。  ラウドという男は、祖父の奥侍従を長く務めた人物だと聞いている。王宮にいるだけでは見えてこないこの国の実情を、内侍の司の長官は世継ぎの王子に突きつけたのだ。わざわざ北方人を奥侍従として迎えようという王太子に、彼らがこの国でどのような扱いを受けているのか見てみろと。そして王城のすぐ足下にこれほどの闇が存在していることを、次代の王として知るべきであろう、と。  受けて立ってやるとジハードは思った。この国に隠されている問題は北方人の事だけに限ったことではない。だがまずは目についたところから、国の在るべき姿とは何かを問うてみることも、今のジハードにはちょうど良い課題だろう。  ジハードは不安げに部屋の中を見回している少年に、片方の眉を上げて見せた。 「ここは王太子宮殿で、俺はここの主だ。――そう言えば、何と呼ぶべきかわかるだろう」  その言葉を聞いて、ひゅ、と少年が息を飲む音がした。膝の力が抜けたように、へなへなと床に座り込む。ジハードにとっては見慣れた光景だ。初めから身分を知らされていれば、この少年もあんな大胆な口は利けなかったに違いない。 「お前の名はなんだ」  見ればそれなりに整った目鼻立ちをしている。やせ細って髪も荒れ放題だが、栄養状態が良くなれば少しは見られる姿になるだろう。これからは、王宮の中にも北方人を少しずつ受け入れていかねばなるまい。北方人も人として認めるつもりなら、変わるべき場所はまず王宮だ。 「ふ……フラウと、申します……!」  『フラウ(炎)』とは、また激しい名だったが、燃えるような赤毛を見ればその呼び名も納得だ。この炎が、国の行く先を照らす灯りの一つになればよいが、とジハードは思った。  いずれジハードが受け継ぐべきこの国は、運命の岐路に立とうとしていた。興隆と衰退が目の前に見える。  国を治めるものとして、何を為すべきか。  ジハードは己が王となった時の事を思い浮かべようとしてみたが、その姿はおぼろに霞んで、まだ定かにはならなかった。 

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