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第22話 『シェイド』
「………………」
肩で息をついてそこに立っていたのは、国王ジハードだった。
目立たぬ黒い騎馬服に身を包んでいても、それが誰かを見誤ることなどありえない。豊かな黒髪、黒い豹のような切れ長の鋭い目、均整の取れた筋肉質な長身は、若き軍神ウェルディそのものだ。
なんと堂々として、凜々しい姿だろう。
シェイドは感嘆の息をついた。夜の闇の中を、漆黒の旅装に身を包み、きっと風のように駆けてきたのだろう。それはまるで物語の中で語られるような光景だったに違いない。
二度と会うことはないと覚悟したせいか、その姿はいつもにも増して神々しく、そして、涙ぐみそうなほど慕わしい姿に思えた。
「シェ……ィ……」
扉を開けて歩み寄ろうとしていたジハードが、虚を突かれたように目を見開いて足を止めた。
驚いたように立ち止まって、シェイドの顔を見つめる。時が止まったような一瞬の後、国王は顔を赤く染めて駆け寄ってきた。
「シェイド……!」
立ち尽くすシェイドを、ジハードが強く抱き寄せた。
夜風に吹かれたジハードの上着は冷えていて、寄せられた頬も凍るように冷たい。けれど、体を離したいとは思わなかった。温もりを分け与えるように自分からも身を寄せ、逞しい背にそっと手を回す。
駆け通しで来たのか、シェイドを固く抱きしめるジハードの呼吸はまだ荒い。厚い上着を通して、重なりあった体から早鐘を打つ鼓動までもが伝わってくるようだった。
やがて、感極まったような声がシェイドの耳を擽った。
「……俺を待っていてくれたのか……」
ジハードが冷たい唇をこめかみに押し当てながら、興奮を隠さぬ声で言った。
「お前が微笑むところを初めて見た……嬉しいぞ……」
歓喜に満ちた言葉を聞いて初めて、シェイドは自分がジハードとの再会を喜んでいたことに気がついた。もう一度だけ会いたい。だがもう二度と会うことはない。そう覚悟していた分、王都を遠く離れた砦で思いがけず再会を許されたことが、心底嬉しかった。
こうやって、強い腕に抱かれ胸の鼓動を聞いていると、心が休まる。恐ろしいと思う気持ちも、解放されたいと願う気持ちも、いつの間にかすっかり薄れていた。まっすぐに駆け寄ってきてくれたジハードの姿を思い出すと、胸の内が灯を宿したように温かく感じられる。
会いたかったと、ジハードも少しは思ってくれたのだろうか。もしもそうなら、追放されることをもう寂しいとは思わない。身に余るほどの温もりを与えて貰ったのだから、最後にジハードの顔も声も全て頭に焼き付けておこう。命が尽きる瞬間まで、いつでも思い出せるように刻み付けておこう。
「……私も……もう一度陛下にお会いできて、嬉しいです……」
回した腕に力を込める。冷たかった体が温みを帯び始めていた。
砦で手早く食事を済ませると、シェイドはジハードと共にもう一度馬車の中に戻った。
人数の増えた騎馬隊を従えて、夜の街道を六頭立ての馬車はひた走る。冷たい夜風は変わらず吹き込んで来たが、二人で身を寄せ合っていると寒さは感じなかった。
ジハードの息づかいや胸の鼓動を聞くうちに、ガタガタと揺れる馬車の振動さえ心地よく思われて、いつの間にかシェイドは眠ってしまっていた。目的地に着いたと揺り起こされたのは、もう真夜中近い時刻だったはずだ。ジハードに支えられて館の中に入り、そのまま寝台の中に入って眠ってしまったので、後は良く覚えていない。
次に目が覚めたのは、夜明けの少し前だ。日が昇る直前に少しばかり冷たさを増す空気が、シェイドに目覚めを促す。こればかりは物心ついた時からの変わらぬ習性だ。
鎧戸が閉められた暗闇の中、ぽかりと目を開いたシェイドは隣で眠るジハードに気付き、その姿を確かめておこうと目を凝らした。
安らかな寝息を立てて眠る若い神の顔。鼻梁は高く、額はすっきりと秀でて、目元は彫りが深く鋭い。密に揃った長い睫が黒々とした影を落としている。波打つ漆黒の髪は、王太子であった頃よりも長く伸び、今は肩に掛かるほどだ。背を覆うほど豊かになれば、ますます生きた軍神そのものの姿になるに違いない。
少し高い頬骨としっかりした顎が、高貴なだけでなく精悍さも感じさせた。美しいだけでなく、とても野性的に、男らしく整った顔立ちだ。形の良い肉厚な唇からは、静かな寝息が漏れていた。
ジハードに口づけされる時、シェイドはいつも呼吸ごと奪われるような感覚を抱いていた。吐く息さえ己の自由にならず、何もかも支配を受けているのだと実感させられるような気がして、口づけされるのが好きではなかった。なのに、今は薄く開いた唇を見つめ続けていると、自分から唇を重ねてしまいたくなる。
熱を感じ、柔らかさを堪能し、吐息を分かち合い、胸の鼓動を合わせる。奪い合うのか、与え合うのかは、心の持ち方一つだったのだと気が付いた。
「…………もっと、早くに気付けばよかった……」
苦く笑って、シェイドは夜着に包んだ体を遠ざけた。
昨夜は触れられることさえなかった。役目を解かれた今になって、温もりを惜しんでもどうにもなりはしない。何処へ連れてこられたのかは分からないが、ジハードが目覚めるまでに汗を拭い、見苦しくないよう支度を調えておかなければ。
「……っ!」
そのまま寝台を降りようとしたシェイドは、不意に腕を掴まれて息が詰まりそうなほど驚いた。
「あっ……!?」
そのまま強引に引き寄せられ、元の場所へと戻される。ジハードの腕の中、額と額が触れ合うほど近い場所に抱きすくめられた。
目を閉じたままのジハードが、甘えるように頬を摺り寄せてきた。
「……先に目が覚めても、黙って出て行くのは止めてくれないか。目が覚めて腕の中が空だと知った時に、寂しくてやりきれなくなるから」
寝起きの掠れた声でジハードに言われて、シェイドは困惑して目を瞬かせた。
同じ寝台で寝起きするようになって三ヶ月以上が過ぎていたが、こんなことを言われたのは初めてだ。シェイドは毎朝一人で先に目覚め、起きればすぐに湯殿を使いに行く。湯浴みを終えて出てくると、目を覚ましたジハードは大抵食堂で待っており、そのままともに朝食を摂るのがいつもの流れだ。その行動を、今まで一度も咎められたことはなかった。
ジハードは駄々をこねる子供のように続けた。
「俺が起きるまでは側にいてくれ。そうでないなら、せめて俺を起こして朝一番の挨拶をしてくれ。どうしてお前の顔を真っ先に見るのが、俺ではなく侍従なんだ」
まだ眠気が強いらしく目を閉じたまま話すジハードを、シェイドは返事も忘れて、不思議なものを見るように凝視した。
いったい国王は何を言っているのだろうか。奥侍従は役目が終われば速やかに主人の寝室を出て行くのが決まりだ。国王の今の言葉は、寵愛深い妾妃にでもかけてやるべき言葉ではないのか。
しかも、白桂宮を出されたはずの今になって、何故そんなことを言うのだろう。
疑問に思う間にも、ジハードの両腕はシェイドを強く抱き、頭を引き寄せて唇を奪う。乾いていた唇が温かく湿ったジハードのそれに覆われて、互いの唾液で潤った。
唇は角度を変えて、啄むように何度も優しく吸われる。
「ん……」
ジハードの手がシェイドの長い髪をかき上げた。頭を一度包み込んだ後、その手は下の方へと降りていき、今度は右手の指を撫でる。あるべき物がそこにないことを確かめるしぐさに、シェイドはどきりとした。
「……額環と指輪がないのはなぜだ」
唇を離したジハードは穏やかな口調で問うたが、声には少しばかりの叱責の響きも感じられた。もう昨夜の内から気づいてはいたのだろう。
しばしの逡巡の後、シェイドは言葉を飾らずありのままを告げた。
「お暇をいただいたものと思い……寝室に置いて参りました」
「……お前に暇を出す日など来ない」
シェイドの勝手な行動に烈火のように怒るかとも思ったが、意外にもジハードの声は穏やかで溜息交じりだった。撫でていた手でシェイドの手を握り、指を絡めて握ってくる。大きく硬いジハードの手の感触が慕わしくて、シェイドは応えるように手を握り返していた。
「……ミスルの離宮へ行くと言ってあったのに、耳に入っていなかったんだな」
どこか済まなさそうな声の響きに一瞬首を傾げた後、シェイドは事の顛末を察して頬を赤らめた。
ジハードから告げられたことを聞いていなかったとすれば、それはシェイドがすっかり正気を失っている時に伝えられたのだ。快楽の頂に際限なく放り上げられ、声も涸れるほど啼き咽んだ後の、目は開いていても心は彼方へと飛び去って自失してしまっているときに告げられたのに違いない。
「……存じておりませんでした」
正気の時に言ってくれていれば、こんな思い違いをすることはなかったのに。
そんな風にジハードを責めたい気持ちになるのは、白桂宮を追放されたと思ったことが予想以上につらかったからだ。あれほど解放されたいと思っていたのに、いざその瞬間になると、世界中から見捨てられたように思えて辛く寂しかった。毎夜毎夜あんなに激しく腕に抱かれていたのに、これほどあっけなく手放されるのかと、涙さえ滲みそうだった。
「白桂宮を出されたと思ってしまったんだな。……少しくらいは、それを残念だと思ってくれたか」
ちょうど思っていたことを言い当てられたような気がして、シェイドは答えられずに口ごもった。
ジハードは熱を帯びた頬に唇を寄せると、答えを聞こうとはせずに身を起こした。
「時間がない。起きて着替えよう」
屋外に出るからと、二人は昨夜の旅装をもう一度身につけた。
廊下に出るとすでにフラウが待機しており、先導されて暗い廊下を進む。そろそろ日が昇る時刻のはずだが、全ての窓に覆い布が掛けられているため離宮の中はひどく暗い。
燭台の灯りを頼りに暗い廊下を進んでいると、忘れかけていた恐怖がじわりと蘇ってきた。
サラトリアを入宮させるため、迷路のような暗闇の王太子宮殿を燭台の灯り一つで進んだ夜の事だ。帰り道が分かるだろうかと不安を抱きながら、サラトリアの後をついていくしかなかったあの日の心細さ。王太子の寝室で受けた恐怖と苦痛、人目に怯えながら痛む体を進ませた早朝の王宮の記憶。父王の断末魔の声を聞き、剣を持った兵に後ろから追われて逃げる絶望感――――。
「シェイド」
縺れたように足が鈍ったシェイドに、ジハードは歩調を合わせてくれた。気遣うように手を握り、腰に手を回して体を支えてくれる。
あの嵐の日とは別人のようだが、これが本来のジハードの姿なのかもしれない。厳しく激しいところもありながら、同時に大きく包み込むような慈悲の心も持っている。あの日まではただ怖がるばかりで、ジハードがどのような人物であるかを知ろうとも思わなかった。
手を握り返すと、腰に回った腕に力が入った。
寄り添ってゆっくりと歩くうちに、いつの間にか長い廊下を渡りきってしまい、目の前には大きな扉が現れていた。草木の模様が描かれた様式は、中庭への通路を表している。
「――――開けろ」
ジハードの号令で、両開きの扉を左右に立った兵士がゆっくりと開いた。
眩しい、と最初にシェイドは思った。
何種類もの鳥の声が聞こえ、柔らかい風を頬に感じた。暗い廊下を進んできたせいで、曙光の眩しさが目を眩ませ、まともに前を見ることができない。
何度も瞬きを繰り返し、涙を滲ませながら目を慣らしていく。庭園の緑が少しずつ見えてきた。そして、眩しいほど白い大輪の花々と、色とりどりの鮮やかな羽を持つ鳥たちの姿が。
「…………」
両目をやっと開いた時、シェイドは目の前に広がる光景に言葉を失った。
見たこともないほど広い中庭に、朝の清冽な光が降り注いでいた。左右対称に整えられた庭は奥行きがあり、噴水のある池を中心にして幾何学的に広がっている。そのあちらこちらに、近くの山野から集ってきたと思しい鳥たちが留まり、それぞれの唄を奏でていた。
圧巻なのは、背の低い垣根を埋め尽くす大きな白い花だった。真っ白の花弁が幾重にも重なり、中心部は僅かに青みを帯びている。掌ほどもあるそれが生け垣の緑を埋め尽くすほどに咲き誇り、白い花の壁を作り出しているように見えた。
「……これは……」
ジハードの手を解いて、シェイドは花の側に歩み寄った。生け垣の側に行くと、高いところに留まっていた鳥たちが人を怖れる様子もなく舞い降り、シェイドの周りに集まった。誰かが餌を与えているのか、人を恐れる様子はない。シェイドの肩や腕に留まるものもいる。鳥たちの唄に耳を傾けながら、シェイドはどこか心惹かれる白い花の前に身を屈めた。
見たこともない、見事な花だ。大きなものでは両手で掬うほどもあり、波打って密集する花弁は貴婦人の飾りのようだ。顔を近づけると、甘さの中にどこか覚えのある涼やかな薫りがした。
これほど見事な花だというのに、王宮ではどの庭でも見かけた覚えがなかった。余程栽培が難しいのだろうか。そう思った時、後ろから声がかかった。
「その花は『シェイド』だ」
中庭の入り口に立つジハードが、白い花の名を告げた。
花を手にとって見ていたシェイドは、告げられた名に反応して、ゆっくりとジハードを振り返った。
「その白い花は『シェイド』だ。お前と同じ名を持つ、美しくて強い花だ」
シェイドは言葉を失い、離れて立つジハードを恐ろしいものでも見るような目で見つめた。鳥たちが気配に怯えたように空へと飛び立っていった。
この国で『シェイド』という花の名を知る者は、今ではごく僅かだ。
蔓を伸ばして何処までも伸びていくこの花は、ウェルディリアでは百年以上も前から禁種とされ、一切の栽培が禁じられてきた。花弁の中心に溜まる蜜に強い毒が含まれているからだ。そのため花も実も、ウェルディリアでは見つかり次第全て燃やし尽くすことになっている。
この花がウェルディリアで存在を許されるのは、他国で加工され、乾燥させて刻まれた茎の部分だけだ。元の名は封印され、ただ『香草』とだけ呼ばれてウェルディリアに入ってくる。シェイドが好んで浴槽に浮かべる、あの香草だ。
こんな花だったのか、とシェイドは白い花を手に取った。
何も知らずに見ていれば、ただ美しい見事な花であったのに、正体を知れば途端にその美しさが禍々しく思えてくる。穢れのない姿と馥郁たる薫りで存在を示し、誰かに摘み取られては、人を破滅させる凶花。――――これは、まさに今の自分そのものではないか。
シェイドは指に力を込め、花の部分を手折った。茎は、重い花を支えているにしてはあっけないほど容易く折れて、手の中に花を落としてくる。その中心に鼻を埋め、シェイドは胸一杯に毒花の匂いを吸い込んだ。
毒とは思えぬほど、心落ち着く香りがする。
捨ててしまいたい過去が、首のない死神の馬に乗って追い付いてくるのをシェイドは感じた。ジハードはいったいどこまでを知っているのだろうか。
「――――陛下は、私がこの名をどなたから与えられたかをご存じですか」
シェイドの言葉を聞いて、ジハードの顔が暗く陰った。
「ああ、知っている」
苦いものを吐き出すように、ジハードは眉を寄せた。
――――もう、終わりだ。
シェイドは足元から崩れそうな脱力感に襲われた。
名の由来を知っているなら、シェイドがどんな風にして生まれたのかもきっと知っているだろう。誰にも知られたくない、醜い過去を。忘れようとし、半ば思い出すこともなかった幼少の頃の自分を。
今朝までの温かい気持ちが消え失せ、腹の底に冷たい毒を飲んだような心地になる。
もう一度ジハードに会うことができて嬉しいなどと、身の程知らずも甚だしい。己はそんな人がましい思いを抱いてよい存在ではなかったはずだ。――――薄汚い、化け物のくせに。
花の匂いを嗅ぐ素振りで、シェイドは周りを見回した。
鳥たちは去ってしまって、もういない。いくつもの鳥の羽に紛れて、生け垣の根元に庭師が置き忘れたらしい剪定用の鋏があるのが目に入った。毒花を断ち切れる、大きな鉄の鋏だ。
花に表情を隠しながら、シェイドは泣き笑いのような笑みを浮かべた。
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