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第23話 生まれた日

 歴史を学んだ者ならば、『シェイド』と言う名を聞き過ごすことはできないに違いない。  『シェイド』は百五十年ほど前に禁種に指定され、縊り草・呪いの花・死神の蜜と、ありとあらゆる禍々しい蔑称で呼ばれた花だ。そんな花の名を好んで我が子に付ける親は居るまい。  白く美しい大振りの花を咲かせる蔓科の植物は、春の早い時期に他に先駆けて花開くことから、かつては春告げ花とも呼ばれて貴族達の庭園を彩ってきた。  だが、王族の一人がこの花の毒で命を失って以来、ウェルディリアでは王家に仇なす花として全土で栽培が禁じられてきた。  そんな忌まわしい花の名を金の髪を持つ異母兄につけたのは、ジハードの祖母であった王太后カレリアだった。  国王の座に即位して以来、ジハードはシェイドの素性をつぶさに調べさせた。いっそ異母兄でないと分かれば、手元に置くのはずっと容易かったからだ。  だがその過程で、ジハードはシェイドがどのようにして存在を秘されてきたのかを知ることになった。  カレリアの夫でありジハードの祖父である先々代の王は、正妃の他には妃を迎えずに奥侍従を寵愛した。そのため二人の男児を得た正妃カレリアは、宮廷内で絶大な発言権を持っていたと言われている。特に長子であったベレスの婚姻に関しては、夫である王さえ、カレリアの意向に口を挟むことはできなかったらしい。  一人目の正妃はベレスの十五歳の元服と同時に迎えられた。だが、子を為さないまま数年後に死別する。すぐ後に入った二人目の正妃も、結局子を為さないまま何年か経過した頃、精神に異常を来して離宮に移され、暫くして亡くなっている。  この間、何人もの妾妃と何十人もの奥侍女が後宮入りしたが、公的な記録ではそのうちの誰も子を為していない。  北方の娼婦であった十四歳の少女が妾妃の一人として、ウェルディリア風の名を与えられ密かに後宮へ迎えられたのもその頃だ。公式記録に載っているのはそこまでだった。  ジハードは当時後宮で下働きをしていたという老女を探し出してきて、話を聞いた。当時後宮に居た者は誰もが知っていたことだが、王太后を怖れて誰も口外しなかった話だ。  北方から来た幼い妾妃は、ある年の冬に待望の男児を産み落とした。しかし、生まれてきた子供が白い髪と青い目であることが分かると、産褥に同席していたカレリアがその赤子を取り上げ、雪が降り積もる窓の外へ投げ捨てさせたのだという。男児出産の記録は残らなかった。  産声も上げずに窓の外に消えた赤子のことを、後宮の者は皆すぐに忘れた。  エレーナは妾妃の一人として後宮に留まることを許され、以後数年間は誰も国王の子を産むことはなかった。  捨てられた赤子のことを皆が思い出したのは四年後のことだ。  三人目の正妃が後に王太子となるジハードを産み、その誕生に国中が沸き返る中、後宮の犬小屋の中から人間の子供が見つかったのだ。四歳ばかりのその子供は、薄汚れた白い髪と肌、青い目を持っていた。  裸で犬のように這い、唸り声を上げる子供の様子は、とても人間とは思えなかったと言う。当然のようにカレリアは始末を命じたそうだが、呪われたようなその様子が恐ろしくて手を下せる者が居なかった。結局子供はベレスの命で王宮の侍従見習いとして育てることに決まったが、その時にカレリアが付けた名が『シェイド』――――王家に災いをもたらす花の名だったのだ。 「何もかも、知っているつもりだ」  ジハードは花の側で立ち尽くすシェイドに語りかけた。  北方人の姿を持つというだけで、シェイドは生まれたと同時に殺されようとした。犬小屋には当時何頭もの犬が飼われており、そのうちの一頭がどういうわけか食い殺そうともせず、自分の仔と同じように育てたのだろう。犬の乳と、後宮の窓から投げられる残飯を餌に育ち、人間達に見いだされてからも化け物同然の扱いを受けた。  長じるにつれ、獣のようだった子供は誰の目から見ても美しく成長した。だが、シェイドは今でも人目を怖れるようにその美貌を隠したがる。内侍の司に着任していた九年間も、副長官であったラウドでさえ顔や髪を見たことがないという徹底ぶりだ。北方人風の姿をただ恥じただけでなく、石や棒で追われた記憶がそうさせたのだ。  ジハードが何度愛していると伝えても、シェイドの心は解けなかった。ただの奥侍従として扱うつもりはないと告げても、信じようとしない。それはシェイド自身が、己を後宮で飼われる獣のように思っているせいなのだろう。 「お前がどんな風に生まれ、どんな風に育てられたかを知っている。俺は全てを知った上で、お前を伴侶に選んだ」  すべての人間が、シェイドを石で追うたわけではない。  エレーナは自ら望んで我が子を捨てたわけではなかったし、ベレスは我が子を自分の目の届くところで育てようとした。親子と名乗ることはなくとも、二人ともそれぞれにできる形でシェイドを見守っていたのだろう。  だが結局、直接触れて人肌の温もりを与える者はおらず、シェイドは愛情というものを誰からも教えられなかった。  ジハードがいくら愛を説いたとしても、初めから知りもしないものを受け入れることはできない。シェイドには、生まれて最初に与えられるべきものが欠落していた。  ジハードが一歩足を踏み出すと、シェイドは静かに首を振って後ずさった。その視線はジハードの上を逸れ、誰とも目を合わせることはない。 「……陛下は間違っておいでです」  大輪の花を口元に当てて表情を隠したシェイドが、近づくジハードを制するように硬い声を発した。 「陛下は間違っておられる。私のような化け物を側に置くべきではありませんでした」  自らを化け物だというシェイドに、ジハードは悲しみを覚えた。シェイドがそう思うのも無理はない。だが、間違っているのはシェイドの方だ。 「いいや、俺は間違ってなどいない。俺は俺の愛する者を側に置く。お前が何者でも、俺はお前を愛している」 「――――だからこそ、私は王家に災厄をもたらす毒の花なのです」  望むと望まざるとに関わらず、毒の花は身の内に溜まる蜜の香りで人を惑わし、虜にして破滅をもたらす。奥侍従一人に傾倒し、世継ぎを生むべき妃を迎えようとしないジハードは、すでに禍の花の毒に冒されているのだと、シェイドは言うのだ。  シェイドの手から白い花が零れ落ちた。  手から落ちた花を拾おうと、シェイドが身を屈める。――――いや、違った。花を拾う素振りでシェイドが手に握ったのは、庭木を剪定するための鋏だった。 「…………殿下ッ!」  息を飲んで駆け寄ろうとするフラウを、ジハードは制した。駆け寄って手から鋏を取り上げるよりも、シェイドがそれを振りかぶる方が速い。庭師の手抜かりだが、どういう反応を示すかわからなかったというのに、油断して距離をつくってしまったジハードの失態だ。  シェイドが鋏を逆手に握り、切っ先を喉に向けた。 「……私がどれほど穢れた存在かを知れば……陛下も……」  絞り出すようにシェイドが呟いた。とても最後まで口にすることはできぬと、言葉は途中で途切れた。  硬い木の枝を落とすための鋏は頑強だ。鋭さはなくとも、突き立てれば容易く肉を破る。  その重い鉄の刃を握る手の甲に、一雫の涙が落ちた。白い手に痛々しいほどの力がこもった。 「……生まれてこなければ良かった……そうすれば、誰にも疎まれずに済んだのに……!」  聞く者が胸を締め付けられるような慟哭は、おそらくシェイドの魂に深々と刻まれた傷そのものだ。  白桂宮に来た日に死を願ったように、シェイドは心の奥底でずっと自分自身を抹消することを望んできた。誰からも望まれないと諦め、疎まれ忌み嫌われるだけの存在で在ることに苦しみ、生きる喜びを知らずに今日まで来た。  過去の全てを知ったとき、ジハードはそれを理解した。そして、シェイドに与えるべきものが何であるかを、やっと見つけたのだ。  ジハードは背を伸ばし、顔を上げた。ここへ連れてきたのは、シェイドを死なせるためではない。伝えなければならないことがある。  軽く息を吸うと、ジハードは天地にあまねく宣言するように、力強く声を発した。 「誰にも望まれずに生まれてくる人間などいない。お前は望まれてこの世界に生まれてきた。その花も、北方人たちも、誰かに望まれたからこそ生まれてきたんだ。全ての命はただ一つの例外もなく、全て神から祝福されるべきものだ」  ジハードは足を一歩踏み出した。  怖れるようにシェイドが一歩後ずさる。鋏を握る手に力がこもったが、ジハードは心を解きほぐすように、シェイドを見つめて笑みを浮かべた。  それを目にしたシェイドに迷いが生じたのを確かめて、ジハードは内心で安堵の息をつく。  頭布で自らを外界から遮断していた頃のシェイドではもうない。白桂宮での三カ月は無駄ではなかった。今シェイドはジハードの言葉を聞き、ジハードの姿を見てくれている。  確信を得て、ジハードは生け垣の花を指し示した。 「この花ももう禁種ではなくなった。毒だと言われていた蜜は、痛みを和らげるための薬になる。医術に欠かせぬものだから、二年前に禁種は解かせた」  まだ王太子だった時代に、ジハードは他国に薬師を派遣し『シェイド』の毒について綿密に調べさせた。人を虜にして廃人にすると言われた毒は、適量を与えれば苦痛を散らす薬となり、これを用いることで多くの医術を試みることができる。そもそもこれを使った王族が命を落としたのは、研究が不十分で痛みを消すために過剰な量を用いたのが原因だ。  百五十年前の王は、根こそぎ焼き払って封印するのではなく、安全に用いることができるよう、更なる研究を進めさせるべきだったのだ。  禁種の指定を解いたからこそ、この離宮には庭園を埋め尽くさんばかりの『シェイド』が花を開かせている。ここから運ばせた茎が、白桂宮の湯殿を豊かな芳香で満たしてくれた。茎には心を落ち着かせ、病の元となる汚れを寄せ付けぬ力がある。花は目を楽しませ、香りは心を豊かにする。国中でこの花が栽培される日もそう遠くはない。  ジハードはゆっくりともう一歩近づいた。  シェイドは動かず、立ち尽くしていた。シェイドに伝えておかねばならないことは、まだまだある。 「北方人たちの生き方も、これからどんどん変わっていくだろう。神殿も髪や目の色に関わらず誕生の祝福を授けるようになった。外見で民を二つに割ることは国に不利益しかもたらさないからだ。北方人の血を引く者たちも、この国に住まう以上はウェルディリアの国民であり、俺の民だ。俺が国王の座にあるうちに、国土のすべてにこの考えを浸透させてみせる」  ジハードが北方人の問題を身近なこととして捉えるようになった切っ掛けは、シェイドの存在だ。  北方の血を引く人間がこの国で受け続けてきた苛烈な差別を撤廃させるべく、ジハードは何年もかけて地道に取り組んできた。かつて数多くあった北方人を奴隷として扱う娼館は、今はもう王都の中には存在しない。地方ではまだ北方人や混血児を『物』として扱う習慣が残っているが、通達と視察を繰り返すことで徐々に改善している。己の在位の内に、この国から『北方人』という名称そのものが消えるよう、ジハードは戦い続けるつもりだった。  そして、その戦いを続けるためにも、シェイドには傍らにいてもらいたかった。 「どんな姿を持っていても、もう蔑まれることはない。理不尽な扱いを受けることもない。どの民も、俺の前では等しく守るべき俺の民だ」  もはやそれはシェイドやフラウのためだけではなかった。  それはすでにジハードの中に、自国のあるべき姿に欠かすことのできない理想として、確かに存在していたのだ。  実の父親をその手にかけてまで玉座についたのは、いったい何のためか。  それはこの国を守るためだ。この国に生きる人間を守り、この国に繁栄の道を歩ませるためだ。それは孤独で長い戦いになるだろう。だからこそ、傍らにはいてほしい人間がいる。 「……俺にお前のことも守らせてくれないか。そして、俺の隣で新しい国を作るための手助けをして欲しい」  ゆっくりと歩み寄るジハードから、シェイドはもう逃げなかった。  涙を湛えた青い瞳は、耳に入った言葉を反芻するように小刻みに揺れていた。まだジハードの言葉の全てを信じることなどできないのだろう。今までこの国が歩んできた歴史と、シェイドが受けた扱いを思えば当然のことだ。  ジハードは静かに手を伸ばし、シェイドが握る鋏を掴み取った。関節が白くなるほど強く握りしめられていたが、指を一本ずつ剥がして放させると、奪い返そうとはしなかった。内心で汗を浮かべながら、ジハードはそれを悟らせないように笑みを浮かべて見せた。 「ここに跪け」  命じると、操り人形のようにぎこちない動きでシェイドが膝をついた。  ジハードは右手の中指に嵌めた国王の指輪に口づけをした。そしてその手を、シェイドの白い額に押し当てた。 「……シェイド・ハル・ウェルディス。――――国王ジハード・ハル・ウェルディスの名において、汝に誕生の祝福を与える。汝の生が千の愛と万の幸福で満たされるよう、ウェルディの神に篤く祈願しよう」  神殿で神官が祝福を与える時の祝詞を、ジハードは厳かに口にした。この幸薄く育った兄に今から溢れんばかりの幸福が訪れるよう、心の底からの祈りを込めて。  額にあてた掌を静かに下ろすと、現れたシェイドの頬には新しい涙が伝っていた。  多くの北方人がそうであったように、これはシェイドが生まれて初めて受けた言祝ぎだったはずだ。シェイドに必要だったのは、額を飾る王族の証でも、絶え間ない愛の言葉でもない。生まれてきたことを、誰かから祝福されることだったのだ。  自失していた青い瞳に理性の光が戻り、底に金泥を含んだ湖面のような双眸が、ジハードをまっすぐに見上げていた。その目に、いつも消えずにこびりついていた怯えたような陰はもうなかった。  雪の降る日に生まれた化け物はもういない。ここにいるのは、ウェルディに祝福されて生まれてきた一人の人間だけだった。 「――――今日がお前の生まれた日だ。誕生日おめでとう、シェイド」  両方の頬に、祝福の口づけを与える。  シェイドは両目を閉じ、胸の前で指を組んで、敬虔にそれを受けた。  遠い空の上に逃げていた鳥たちが舞い戻り、色とりどりの羽を散らして抱き合う二人を祝福した。

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