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二話 憑き人-5

 俺の身体はサツキさんの言葉に従順に反応し、昂りの根元に溜まっていた熱を一気にぶちまけた。同時に、今までのを遥かに凌駕する爆発的な快感が全身を支配する。 「――ッ、――!」  獣じみた呻き声を喉から迸らせながら、俺は達した。背中が弓形(ゆみなり)になるだけでは耐えられず、顎が天を向く。サツキさんのも中でびくびくと痙攣しているのが分かる。彼も俺で良くなってくれた、そのことがとても嬉しくて泣きそうになる。腹に自分の生温かいどろどろが飛び散るのが、情けなく、はしたなく思えて――すごく気持ちよかった。 「はあ……すごい」  脱力したように、サツキさんがどさりと被さってくる。抱きつかれているみたいでドキドキした。  哲くん……と感じ入ったように呼ばれ、至近距離からじっと見つめられる。キスする直前のような甘い気配がして。 「どうかな、気持ちよかった?」 「は……はい。すごく……」  胸が高鳴っている。こんな気持ち、初めてだ。  サツキさんは「そう! これで安心だあ」とにぱっと笑った。先ほどまでの色気が雲散霧消し、胡散臭さが戻ってくる。 「うんうん、ぼくたち相性いいみたいだねえ。良かった良かった。憑かれも取れてるし、効果もばっちり。ビジネスとしてやっていけそうだね!」  上機嫌なサツキさん。雰囲気の変貌ぶりに、俺はついていけない。 「あ、あの……」 「どう? これがぼくの除霊。体が楽になったんじゃない?」  言われてはっとする。そうだ、彼は仕事の一環として俺を抱いたにすぎない。相棒として相応(ふさわ)しいか試す場だったのに、こちらがときめいてどうするんだ。  衣服を直してから、肩をぐるぐると回してみて驚く。肩だけではない、全身怠かったのが劇的に軽くなっている。心なしか、精神的にも明るく気持ちが晴れ渡っているようだ。  俺の様子をにこにこと見ていたサツキさんに頭を撫でられる。 「霊ってねえ、ネガティブな気持ちの隙間に入り込むんだよ。哲くんの場合、この綺麗な髪が霊に好かれるっていうのもあるかも」 「え……そうなんですか」 「あと、その右目だね。そっちの方がよく視えてるでしょう? 霊は自分が見える人を好むから、普段は隠してた方がいいかもねえ」  ほう、と感服する思いになる。何でも分かってしまうんだな、この人は。  サツキさんが表情を引き締めて、俺の顔を覗きこむ。 「それで……どうだろう。ぼくの助手になってくれる?」 「……俺で役に立てるなら、お願いします」  心臓の早まった拍動を悟られませんように、と祈りながら俺は深く首肯した。 「ほんと! ありがとう、すごく助かるよお。これからよろしくね!」  感激したようなサツキさんに手を握られた、そのとき。  俺のおなかがぐうう、と盛大に空腹を訴えた。互いに顔を見合わせ、一瞬ののち、同時に噴き出す。 「あは、運動したらおなか空いちゃったよねえ。何か作るよ。食べたいものある?」 「えっ、と……サツキさんが作るんですか?」 「そうだよ~。あ、手作りの食べ物は無理とかある? デリバリーの方がいいかな」 「あ、いや、そういうことでは」  この人が料理をするのか、という失礼な感想を慌てて打ち消す。  食べたいものをわざわざ訊いてもらえるなんて何年ぶりだろう。ひょっとしたら二十年ぶりくらいか。実家にいた頃は外食にはほとんど行けなかったし、都会に出てからはコスパを最優先に考え、スーパーの好きでもない安売りの惣菜ばかり食べていた。それらはただ生き延びるため、栄養補給のためだけの食事だ。味の好みや、好きな料理をじっくり味わうことなど、考える余裕すらなかった。  俺が今、食べたいもの。希望するのもおこがましい気もするけれど、不意に思い浮かぶものがあった。幼い頃に母親が作ってくれた、ほかほか湯気をたてる、黄色くて丸い食べ物。 「それじゃあ……オムライスとかって、できますか?」 「オムライスね! りょうかーい」  口にしてから、リクエストがあまりに子供っぽかっただろうか、と恥ずかしくなる。サツキさんは朗らかに、嬉しそうに笑ってソファから身を起こした。俺がわがままを言ったのに、なぜ楽しそうなんだろう。不思議に思えた。  服を整えているサツキさんをぼんやりと眺めていると、不意にあ、と何かを思いついたように視線がこちらに向けられ、思わずびくりとする。 「オムライス、薄い卵でくるむのと、卵がふわとろなのと、どっちがいいかなあ?」  尋ねられてびっくりする。それを俺が選ぶのか。俺が、選んでいいのか。  ふわとろオムライス。この世のどこかに存在すると知ってはいるけれど、食べたことはおろか実際に見たことすらない、自分にとっては想像上の料理。母が作ってくれたのは薄い卵でくるむ方だったから。食べ慣れたものの方がいいか、とも思ったけれど。 「……ふわとろオムライスで、お願いします」  結局、俺はそう言葉にした。 「オッケー、じゃあしばらく(くつろ)いでて」と言い残してサツキさんが住居スペースへ消えていってから、十数分。  何か手伝いましょうか、という申し出が「無理させちゃったし、哲くんはゆっくりしてていいよお」という一言でやんわりと却下されたため、俺は大人しくソファの上で膝を揃えて待っていた。数刻前までここでサツキさんと肌を合わせていたことが不思議で仕方ない。なんてことをしたんだろう、という思いとともに、あれらがすべて幻だったかのような気がしてくる。しかし、体の奥の熱の名残りは、自分が誰のものになったのかを知らしめてくる。  やがて、キッチンがある方から、じゅうじゅうという音とともに食欲をそそる匂いが漂ってきた。さもしい腹がぐうぐうと空腹を主張する。こんなときくらい静かにしろ、と念じるが当然効果はない。  応接室へ戻ってきたサツキさんの両手には、大きめの平皿が乗せられていた。その上に、ふわとろオムライスなる未知の食物が乗っている。 「哲くん、お待たせ! 自分のぶんも作っちゃった~」  えへへとはにかむサツキさんの表情はなんというか、可愛らしく見える。情事の最中にはあんなに雄っぽさ全開だったのに。不覚にもその落差にきゅんとしてしまう自分がいた。  皿が並べられ、サツキさんが向かい側に座る。ほわほわとした湯気越しに見えるオムライスをまじまじと見つめる。ぱっと目を惹く鮮やかだが優しいイエローの紡錘形が、朱色のライスに乗っかっている。香ばしさと卵のほんのり甘い匂いが鼻腔をくすぐり、待てをしている犬みたいにごくりと生唾を飲み込んだ。 「さあ、どうぞどうぞ」とサツキさんが掌で促してくる。きっと俺が食べ始めるまで彼は食べないつもりなのだろう。それなら、と手を合わせ「頂きます」と口にしてから皿に添えられたスプーンを手に取る。  恐るおそる、滑らかな黄色い表面をつついて開いていく。中から半熟卵が姿を現し、ぱっくりと左右に割れて、ライスの半球面をとろりと覆う。食べなくてももう分かる。このオムライスは確実に美味しい。  卵とライスのバランスに気を配りながら、ひとさじ掬って口へ運ぶ。途端、口内がほどよい熱さと芳しい香りに満たされる。卵には生クリームが使われているのか、まさにふわとろで、上品な甘さとコクを感じた。ライスは焦がしたケチャップの香ばしさ、炒めたタマネギとコーンの甘み、ソーセージの旨味が渾然一体となっている。噛めば噛むほど卵とライスの味わいが増し、食材の様々な食感が舌の上で弾ける。  こんなに美味しいものを、俺は知らない。  テーブルの向かいで、サツキさんが「え!」と慌てたような声を上げた。 「ごめん哲くん! 泣くほど不味(まず)かった?」  え、と今度はこちらが驚きながら頬に手をやる。我知らずそこはしとどに濡れていた。後から後から、どんどん涙があふれてくる。 「いえっ、すごく美味しいです。これは、その……嬉しくて、なので」 「そう? なら、いいんだけど……」  サツキさんが食事を中断し、手を伸ばして俺の頭をそっと撫でる。まるで親が子によしよしをするように。  俺に優しくしないで下さい、と言いたかった。気遣われれば気遣われるほど、ぼろぼろと涙が止まらなくなるから。  サツキさんの存在を感じながら、ほとんどしゃくりあげるようにして俺は泣いた。他人に優しくされるなんて、生まれて初めてかもしれなくて。それが嬉しくて、切なくて、心臓のあたりが締めつけられるようで。  ――きっとその日から、俺はサツキさんが好きなのだ。  サツキさんに雇われてからも、色々と驚くような出来事は続いた。俺は事務所の一角に住み込みで働かせてもらうことになり、上司はビルの上階へと引っ越していった。霊を意のままに憑依させる練習として、廃病院やうらぶれたトンネルの脇など、常識はずれな場所で降霊と除霊(やり方は言わずもがなである)を繰り返し、サツキさんと肌を重ね合ったのは二人だけの秘密だ。普段は霊に憑かれないよう、サツキさんお手製のお守りを貰い、比較的気軽に街中を歩けるようにもなった。  そうして教育を受けた俺は晴れて口寄せとなり――彼との初めてのセックスを、今でも事ある毎に思い出している。  いや、思い出すだけでは済まない。 「っ、はあ……ッ」  体が熱い。通販でこっそり買ったオモチャを後ろに挿入しながら、腫れぼったい己の昂りを一心不乱に扱く。醒めたような表情でこちらを見つめるサツキさんを思い浮かべながら。  俺は上司であり、雇い主でもある人を自慰のオカズにしている。  もちろん、いけない行為だと十全に分かってはいる。サツキさんが俺を優しく抱くのは、それが業務に必要だからで、そこに彼個人の心情が反映されているわけではない。俺が勝手に嬉しいと感じているだけだ。分かっているけれど、好意の暴走と体の奥の疼きは止まらない。止められない。  絶対に本人に悟られてはいけない。この不埒な気持ちと、背信行為を。  ――俺はただの、主人に仕える従順で忠実な犬でいなければいけないのだ。  絶頂の予感がする。あふれそうな声を抑えるため、自分の腕、その手首あたりに噛みついてぐっと咥えた。暗闇の中に自分の荒い呼吸だけが響き、静かな夜に吸い込まれていく。果てた後は、いつだって罪悪感と自己嫌悪に(さいな)まれるのだった。  どこか遠くの方から、哀しげに吠える犬の声がかすかに聞こえてきていた。

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