10 / 20

三話 犬-1

 俺はサツキさんが好きだ。そしてもちろん、その気持ちを伝えるつもりは毛頭ない。俺はサツキさんの犬なのだから、そもそも対等な関係ではないのだ。  自分はサツキさんのことをほとんど何も知らない。これまでの人生の歩みも、事務所外の交遊関係も、交際相手がいるのかも、フルネームも、サツキというのが本名なのかすら、知らない。知る権利があるとも思えないので、ずっと踏み込まずに過ごしてきた。  知らない相手を、こんなにも好きだと思うのは変だ。おかしい。異常である。分かってはいるのだ、頭では。 「は、あ……っ」  しかしながら、体の疼きは如何(いかん)ともしがたい。サツキさんの下で働くようになってから、自慰の回数は飛躍的に増えた。依頼が入っている日の前夜になると、無意識のうちに明日の除霊の展開を想像してしまい、下着の中に手が伸びる。  サツキさんの器用な指先をイメージしながら、自分の胸を、昂りを、後ろを弄くる。ぐちゅぐちゅという淫らな音が鼓膜を犯すのが気持ちよくて、手の動きがいっそう激しくなる。目を閉じると、一度しかしたことのないサツキさんとのキスが思い出された。意思を持った別の生き物みたいにねちっこく動く、彼の熱い舌。快感にぼうっとしながら、舌の奥を指でぐちぐちと刺激する。  本当は、これじゃないのが欲しかった。サツキさんの指が、少し鼻にかかった声が、スズランの香りが、固く熱くそそり立ったものが、欲しい。もう一度キスもしてみたい。でもそれは、叶わぬ願いだ。抱いてはいけない願望だ。  口内にある自分の指をがりりと噛んでみると、鈍い痛みとともに、下腹部がじんと痺れるように火照った。それが合図だったみたいに、ぱんぱんに張っていた快感が弾け、全身がびくびくと痙攣する。  ほんの少しの、刹那的な絶頂。(しお)が引いたあとには、己への深い嫌厭(けんえん)とみみっちい惨めさしか残らない。  不毛だと理解している。この気持ちには行き場がない。だったら、夜毎に鎌首をもたげようとする不届きな感情を、己の手で(くび)り殺すしかないじゃないか。  呻きそうになりながらベッドに横たわると、何か音が聞こえてくるのに気づいた。  犬が鳴いている。一匹ではない。色々な声の高さ、太さ、大きさの、何匹もの犬の遠吠えが、夜の静寂に響いている。  ひどく悲しげで、寂しげで。孤独を(かこ)ち咽び泣くような悲痛な声。  倦怠感に包まれてまどろみながら、自分には彼らの気持ちが分かる、と思った。  ――俺も、あの人■、■■たいから。  くあ、と込み上げてくる欠伸を噛み殺せずに小さくこぼす。  朝食が並んだテーブルの真向かいに座るサツキさんに「あれ。哲くん、寝不足?」と訊かれ、慌てて滲んだ涙を拭う。  依頼が入っている日は打ち合わせがてら、サツキさんの部屋のダイニングで朝食を一緒に摂ることにしていた。強制ではないし、雇い主からは断ってもいいとは言われているけれど、俺は進んで通っていた。少しでも朝食の手伝いをしてサツキさんに恩返ししたいのと、あとは単純に彼と食卓を囲むのが楽しみだからだ。  サツキさんは基本的に夜型で、朝食の時間も九時前あたりが多い。その時間には俺はぱっちり目が冴えているのに対し、サツキさんは眠そうにしながらTシャツをまくり上げて腹をぽりぽり掻いていたりもする(俺にとっては朝から目に毒だ)。それが今日は、珍しく逆転現象が起こっていた。 「すみません。ちょっと、夜中に犬の鳴き声がうるさくて、それで……」  ごにょごにょと言い訳めいた説明をする。サツキさんは社会人としての自己管理の甘さを指摘することはせず、「うーん?」と何かを思い出すように天井あたりを見る。 「犬の鳴き声かあ、気づかなかったな。鳴き声が聞こえてくる範囲に飼い犬はいないみたいだし、新しく飼い始めたのかな。もしかして野良犬かもねえ」 「いや、一匹や二匹の声じゃないんです。ものすごくたくさんの鳴き声が聞こえるんです」という声は飲み込んだ。ピザトーストを美味しそうに頬張るサツキさんに、つまらない反論で水を差す真似など俺にはできない。  朝食の時間は表面上はいつもどおり、和やかに過ぎていく。小さな引っ掛かりを覚えつつ、俺はあまり気にしないことに決めた。  ――そのとき、もっと深刻に捉えるべきだったのに。  それから何日か経ち、犬の遠吠えや吠える声は日中でもふとした瞬間に聞こえてくるようになっていた。注意深く観察してみても、サツキさんにはまったく聞こえていないようだ。もしかしたら幻聴なのかもしれない。何か悪いことが起きる予兆に思われたが、サツキさんに言い出す機を逃した俺は、報告をずるずると先伸ばしにしてしまっていた。  ある朝、目覚めると体がひどく重い。今日は依頼人が来る日だから早く起きねば、と思うも体が言うことを聞いてくれない。やっとの思いでベッドから抜け出し、鉛のような身体を引きずってサツキさんの部屋のドアを開けたところで、とうとう力尽きてしまった。喉元に何かがつっかえているみたいで苦しい。呼吸が浅く、目眩が激しい。  サツキさんにすぐさま発見され、慌てた彼に抱き起こしてもらえたのは不幸中の幸いか。彼は俺の顔色を見るや、額と額を合わせる形で熱のありなしを測ってきた。それが不意打ちすぎて、発熱の原因になるんじゃないかというくらい、瞬間的に顔が熱くなる。 「熱があるね。もうすぐ依頼人が来るから、病院へはその後かな。それまでぼくのベッドで横になってて。いい?」  サツキさんは自分より大きい俺の体を支えながら、断定口調で言う。  俺は申し訳なさで涙がこぼれそうだった。視界が滲むのは熱のせいか、不甲斐なさのせいか、もう何もかもぐちゃぐちゃだ。  ベッドに横たえられながら、できることといえばサツキさんの言葉にこくこくとうなずくことだけだ。寝床の持ち主は優しげに微笑して、枕元に水の入ったコップを置き、俺に掛け布団をかけてくれる。 「依頼人にはぼく一人で対応するね。今回は話を聞くだけにするつもりだけど、緊急性があるようなら形代で除霊するから大丈夫。哲くんはとにかく体を休めてて。ね?」 「はい……すみません、迷惑かけて」  土下座したい気持ちで謝れば、相手はくしゃりと無邪気に笑んでみせる。 「迷惑だなんて思ってないよお。誰だって体調を崩すときはあるもの。じゃあ、行ってくるからね」 「はい、行ってらっしゃい……」  ドアを静かに閉めて、サツキさんは仕事へ出かけていった。去り際のやり取りがなんだか、同居している人間同士のものみたいで嬉しい、なんて場違いな感想を抱いてしまう。  頬が熱くなり、誰もいないのに毛布を鼻まで引き上げる。サツキさんの寝具からは、彼がいつも纏っているスズランの薫りがした。加えてほのかに漂う柑橘に似た爽やかな香気は、サツキさん自身の匂いなのだろうか。こんな環境で寝られるわけがない。体温が余計に上がりそうで、落ち着け落ち着けと自分に念じる。  そうしているうちに、とろとろとした眠りに半分足を踏み入れていたようだ。ああ夢を見ているな、と知覚しながら、気だるく生暖かい空気の中を泳いでいく。  視線の先にサツキさんがいた。近寄っていくと、彼が柔和にほほえんでいるのが分る。急に喉の渇きと飢餓感を覚えた。  ――サツキさん。あなたが欲しい。  俺はいつの間にか、手を地面につけて四本の足で走りだしていた。その勢いのまま、サツキさんにがばりと飛びついて押し倒す。はっ、はっ、と荒くなった息がびっくりするほど熱く、呼気からは獣のような匂いがする。視界に映る自分の腕にはつやつやとした黒い毛が生え揃っていた。まるで長毛犬の毛並みみたいに。  俺はぶんぶんと尾を振りながらご主人様の顔を見、不意に心臓が止まりそうになった。サツキさんの表情には如実に怯えが表れており、そしてその中に、飼い犬に裏切られたことへの怒りと落胆の感情が複雑に混じっていた。  さあっと全身から血が引いていく。一番してはいけないことを、取り返しがつかないことを、俺はしてしまった。  サツキさんが身を翻し、俺を置き去りにして遠ざかっていく。呼び止めようとするけれど声が出ない。行かないで下さい、お願い。もうあなたを裏切らないと約束します、だから……。 「……っはあ、はあ……」  全身に嫌な汗をびっしょりかいている。混乱する脳と目が、見慣れぬ天井を捉える。そうか、サツキさんのベッドで眠りながら、夢を見ていたのだ。体調が悪いときにありがちな収まりの悪い悪夢。夢は夢だ、と己に言い聞かせる。額の脂汗を拭おうとして、異変に気がついた。  腕が、動かない。  腕だけではなかった。脚も、頭も、身を(よじ)ろうとしても、総身が石化してしまったみたいに反応してくれない。目だけがぎょろぎょろと動くのがむしろ奇怪だ。  しかも――この状況で最も恐ろしいことに――降霊をしたときのように自意識が薄まっていっている。誰の霊も降ろした覚えがないのに、なぜ? じっと内部にいる者の思念や感情を読み取ろうとするけれど、不可思議なほど何も伝わってこない。

ともだちにシェアしよう!