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後日譚三 射干玉

 吸い込まれてしまいそうだ、と思う。恋人である哲くんの、見事な黒髪を間近で見るたびに。  風呂上がり、哲くんのしっとりと水分を含んだ髪を丁寧に(くしけず)る。それが、いつしかぼくの習慣になっていた。  ベッドに腰かけながら、目の細かい柘植(つげ)の櫛と椿油を組み合わせ、目の前の艶々とした髪をとかしていく。初めは「颯季さんにそんなことをさせるなんて……」と及び腰だった哲くんも、今ではすっかり大人しく僕の手つきを受け入れてくれている。  哲くんの前にも恋人がいたことはあるけれど、こんなにも甲斐甲斐しく世話を焼きたくなる相手は彼が初めてだった。自分がこんな風に恋人の髪を()く日が来るとは、数年前の己に聞かせても信じてもらえないだろう。 「髪、ずいぶん伸びたねえ」  さらさらと掌を流れ落ちる黒髪を弄びながら、感慨を込めて言う。  哲くんは仕事である降霊のために、昨年から髪を伸ばしていた。当初肩口ほどだった髪はいま、肩甲骨の下あたりまで届いている。古来より濡れ羽色の髪には霊的な力が宿るとされてきた。長ければ長いほど霊媒の力は強まるだろうが、そのぶん普段から霊に目をつけられやすくなる。そのへんのバランスの見極めが難しいところだ。 「そうですね……実はそろそろ切ろうかと思ってて。冬は温かくて良かったんですが、これから暑くなりそうですし」 「そうなんだ? ちょっと勿体ない気がするねえ」 「いえ、どうせまた伸びてきますから」  哲くんは実にさっぱりした様子だ。自分の髪にはあまり頓着していないのだろう。むしろぼくの方が執着しているかもしれない。 「そう? 哲くんの髪、すごく綺麗だからさ」 「き、綺麗……ですか? そんなことないと思いますけど……」  照れたらしい哲くんの語尾がごにょごにょとすぼまっていく。髪を触られるのに抵抗がなくなっても、褒め言葉を素直に受け取るのはまだ難しいみたいだ。  そんな哲くんがいじらしく思えて、どうしようもなく愛しくなる。この年上の控えめな恋人を、めちゃくちゃに可愛がってあげたくなる。僕は眼前の髪をひと束掬い取り、その黒々とした髪にそっと口付けた。  肩越しにこちらの動作を見て取ったらしい哲くんが息を飲む。 「さ、颯季さん……」と呼ばわったあと絶句した恋人の方を見て、にこりと笑ってみせる。振り向いた哲くんは頬を赤らめて目を瞠り、口をぽかんと開けて驚愕の表情を浮かべていた。自分が衝動的にだいぶキザったらしい行為をしてしまったことを、彼の顔色によって悟る。 「あー……哲くん、知ってる? キスってねえ、する場所によってそれぞれ違う意味があるんだって。髪は、えーと……ちょっと覚えてないけど」  誤魔化すような台詞が空中分解する。自分で言い出しておいて覚えていないとは、我ながら締まらない。いい加減ここに極まれり。  哲くんはぼくから視線を外して俯いていた。 「……ぼです」 「ん?」くぐもった相手の声を捉えきれず、聞き返す。 「『思慕』、です。髪へのキスの意味……」  向こうを向いたまま、さっきよりは明瞭な声で哲くんが言った。今度はこちらがぽかんとする番だった。  キスする場所に意味がある、ということを知っていただけではない。ぼくの突然の言動に対する答えを、哲くんは即座に引き出してみせた。それは、つまり。 「……もしかして、全部覚えてるの? キスの場所の意味……」  後頭部を見せたままの哲くんが、無言でこくりと頷く。  そういえば彼は以前、ぼくとキスするのが好きだと言っていた。キスの意味をひっそり調べた夜が、哲くんにはあるのかもしれない。そうして(きた)る二人の時間に備えて、頭に入れておくことを決めた。そうやって想像すると、名前の付かない温かい感情が、肋骨の内側あたりからぶわっと湧いてくるようだった。 「すみません、なんか……気持ち悪いですよね」  ぼそぼそと謝る哲くんの総身を、そんなことないよお、と後ろから抱き寄せる。 「むしろすごいなあと思って、びっくりしちゃった。ぼく、そういうの覚えるの苦手だからさ。……にしても『思慕』なんて、ぼくの君への気持ちにぴったりだねえ」 「ん……っ」  哲くんの胴に腕を回して、パジャマの上から相手の体を撫でていく。あることを思いついて、すぐそこにある耳朶に口を寄せる。 「じゃあさ……今度は哲くんが教えてくれない? ぼくへの気持ちを、キスの場所で」 「えっ……」  恋人が言葉を失う。ぼくの突拍子もない提案に、彼が二の句を継げなくなるのは毎度のことだった。こういうとき、哲くんには言葉を飲み込み消化する時間が必要だ。そうして哲くんが葛藤し困っている姿は嫌いじゃない――むしろ好きだなんて、彼に伝えたら嫌われてしまうだろうか。  髪越しに哲くんの項へ口づけながら、伸ばした指先でパジャマのボタンをぷつぷつと外していく。はだけたところから指先を滑り込ませ、さらさらとした肌に指を這わせると、密着した体がぴくりと反応する。幾度となく肌を合わせているのに、いつも初心(うぶ)な反応をするものだから、単純なぼくはたまらなく興奮してしまう。  出会った頃の哲くんの体は、触れると骨格が分かるくらい骨ばっていたけれど、好きなものを一緒に食べジムにも通うようになった今、ほどよく脂肪と筋肉がついた健康的な肉体になっているのが分かる。彼の体が健やかな方向に向かっていることが、言葉にできないくらいに嬉しい。  耳に唇を触れ合わせながら、まだ迷っている様子の哲くんへ、息混じりに囁く。 「キスするのが恥ずかしいなら、言葉で教えてくれてもいいんだよ」 「いっ、いや……それは」 「ぼくはどっちでもいいよお。哲くんの好きな方で、ね?」 「ふ、うっ……」  これは狡い問いかけだ。本当はどちらも選ばないという選択もあるのに、ぼくは二択しか存在しないように見せかけている。  もちろん、哲くんが嫌がるならすぐにでもやめるつもりだった。けれど哲くんの股間のそれは、しっかりとパジャマの布を押し上げて存在を主張し始めている。今夜はしなくてもいいと思っていたのに、もう歯止めが利きそうにない。恋人も昂っているのだ。その証拠を見下ろしつつ、膨らむ期待に口の端が持ち上がってしまう。  意を決した気配があって、そこに哲くんのほどよく低い声が続く。 「……俺がどこにキスしても、後悔しませんか」 「しないよお」  ぼくは即答する。答えてから、そんなにすごい意味を持つ場所があるのだろうか、と遅れてドキドキがやってきた。確か憧れとか祝福とかあった気がするけれど、場所と意味が全然繋がっていない。こんなことならもっとちゃんと記憶しておくべきだったか。  緩んだぼくの両腕からするりと哲くんが抜け出る。こちらを向いた哲くんの両目には、何やら(くら)い熱が宿っていた。  と感じたのも束の間、ぐるんと視界が縦に九十度回転する。何が起こったのか分からず脳が混乱し、体が強ばる。哲くんがぼくの片脚を腿から抱え上げたため、ベッドに押し倒されるような格好になったのだ、と理解するまでに数秒かかった。  天井の照明を背負い、影になった哲くんを見上げる。顔は翳っているのに、眸がやや剣呑な光を帯びているのが分かる。覆い被さってきた彼に、こうして危うい目で射抜かれるのは好ましかった。彼がそんな目を向けるのは、この世でぼく以外にいないと断言できるからだ。  彼の情欲で全身のすみずみまで侵食されてみたい。昏い熱が灯った哲くんの目に自分が映りこんでいて、中に閉じ込められているみたいに見える。ああ、二人きりだ、と思う。 「おいで、哲成」 「颯季さん……」  何かに耐えているように哲くんがぼくの名を呼ぶ。片足が持ち上げられて、哲くんが(かしず)くみたいに身を屈める。足の甲に唇が触れるのがかろうじて伝わってきた。続けて、爪先にそっと口づけが落とされる。  それが、彼のぼくへの気持ち。  でも今、ぼくにその意味を推し図ることはできない。 「哲くん、足の甲と爪先へのキスの意味ってさ……」 「それは後で調べて下さい」  哲くんはやけにきっぱりと言う。何かを吹っ切ったように迷いがない。もしかしたらさっきの逡巡は、恥ずかしいのが理由じゃなかったのかもしれない。こんな感情を表に出してもいいのだろうか。そんな迷いが原因だとしたら、二種類のキスはよほどの意味を持っているんじゃないだろうか。  心臓のリズムがどんどん速くなる。 「そうだね。これからすぐに、調べる余裕なんてなくなるもんね?」 「……そうです」  浅くうなずいた哲くんの腰に腕を回し、相手の体を引き寄せる。唇が重なり、それはすぐに深くなる。ここから先、言葉は要らない。あらゆる意味を気にする暇さえなくなるだろう。ただ互いを求め合う、それだけの純度の高いひとときがやって来る。  後日、足の甲と爪先へのキスの意味を知り、ぼくは一人で悶える羽目になるのだが、それはまた別の話である。  足の甲へのキス……服従  爪先へのキス……… 崇拝

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