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後日譚二 鏡映し-3

 颯季さんは何気ない風に俺の体にも手を伸ばして、粘液にまみれた下半身を綺麗にしてくれた。主人であり上司でもある恋人にさせるには心苦しいことなのに、一方でひどく嬉しくもある。颯季さんといると、相反(あいはん)する気持ちに翻弄されてばかりだ。  俺の上に半ば覆い被さった彼が、ねえ哲くん、とぽつりと漏らした。 「君だけじゃない。ぼくだってね、不安なんだよ」 「え?」  いつも飄々としている颯季さんには似合わないその単語。まじまじと相手の顔を見つめてしまう。  暗がりの中で、颯季さんは寂しげな笑みを浮かべていた。 「哲くん、気づいてた? 君が外を歩いてるときに、色んな人が君をじっと見てるの」 「あ……」身に覚えは、ある。でも、あれって。 「あの視線って……霊じゃないんですか?」  質問を質問で返すと、颯季さんの笑顔が苦笑に変わる。 「やっぱり、そんな風に思ってたんだね。哲くん、生身の人間に狙われてるんだよお。それも、いっぱい」 「狙われるって……命を? あ、お金ですか?」  颯季さんがふっと噴き出した。そんなにも俺の質問は頓珍漢なものだったらしい。 「違う違う。君が魅力的な人だから、どうにか取り入る隙がないかなっていやらしい目で見てるの」 「そんな、こと……」  にわかには信じがたい。だって俺はこんなにみすぼらしくて、なんの取り柄もない、薄汚れた野良犬みたいな人間なのに。颯季さんと付き合うようになって、多少は人間性を取り戻したとは思うけれど、自分に魅力があるだなんて――遠い異国の言葉みたいに聞こえる。  颯季さんが無言で俺の腰あたりに馬乗りになってきた。伸びてきた指先にパジャマのボタンをぷつぷつと外され、熱い手にじかに肌をまさぐられる。掌が俺の胸に押し当てられて。 「君がそうやって無自覚で無防備だから余計心配なんだ。ほんとうはね、ぼく以外が哲くんの魅力に気づかないように、君をどこかに閉じこめておきたいくらいなんだよ?」  胸をやや強い力で揉みながら、いつもより低い声で颯季さんが言い募る。その響きには常にない翳りが含まれていて、ぞわりと全身が総毛立つような凄みがあった。  心がざわざわと揺れる。でも、決して嫌ではないざわざわだ。  颯季さんが俺に対して抱いていたという気持ち。俺と同じような思いを抱えていたなんて知らなかった。だって颯季さんがまさか、嫉妬するなんて。 「ねえ哲くん。ぼくより背が高くて、イケメンで、真っ当な仕事で稼いでて、タワーマンションの最上階に住んでるような人に好かれたらどうする?」  胸の尖端をきゅっと摘まみながら颯季さんが訊いてくる。こんなときなのに、俺は笑いそうになった。彼が持ち出してきたシチュエーションが、あまりに現実離れしていて。 「哲くん、答えてよ」 「んっ……そんなの、関係ないです。俺はあなたを、条件で好きになったわけじゃないですから」 「本当に?」 「本当に本当です!」  眉尻を下げて重ねて尋ねてくる颯季さん。もしかして彼は、俺より小柄なことを気にしていたりするのだろうか? だとしたら可愛いな、と場違いにもきゅんとする。  俺の胸に舌先を這わせ、甘噛みしている颯季さんの髪をそっと撫でる。こうしていると、彼に甘えられているみたいだ。こういうのもいいな、としなやかな髪の感触を楽しみながら思う。  胸元に顔を埋めた颯季さんに「ねえ、哲くん」と名前を呼ばれる。 「さっきはかっこつけたこと言ったけど、実はね……同窓会に行ってるあいだ、君が一人で何してるかなって気になってたんだ。気になりすぎて、早く帰ってきたんだよ」 「え……?」  思わぬタイミングでの、思わぬ告白。不意打ちだ、こんなの。  じゃあ、俺が颯季さんを想っていたのと時を同じくして、彼も同様のことを想っていた、ということなのか。  颯季さんの双眸が月明かりの下でぎらりと光る。 「哲くんに出会ってから、ぼくはいつも君のことばかり考えてるんだよ。責任取ってもらわなきゃだね」 「責任、って……どういう――」  彼の口調は冗談めかしているが、視線は射抜くように鋭い。俺に取れる責任。ふたつある臓器を売って、まとまったお金を作るとか?  混乱する俺に、颯季さんは至近距離から囁く。 「ぼくをずっと、君の隣にいさせてほしい」  思わず目を(みは)ってしまった。だってそんなの――責任を取るどころか、ただのご褒美じゃないか。 「そんな責任なら、喜んで取ります」  笑ってしまった俺の唇に、颯季さんのそれが重なった。  ちゃぷん、と湯が跳ねる音が浴室に響く。  お互い気が済むまで肌を合わせて、今は二人で湯船に体を沈めているところだった。ホテルの浴槽とは違い、このビルの風呂桶は大きくない。普段から脚を折り畳んで入浴しているくらいなのだから、颯季さんと二人で入ったらもう、みちみちである。  俺の腕の中に颯季さんがいる。彼の項を見ながらお風呂に入るなんて、もちろん初めてのことだ。  恋人が逆方向を見ているのをいいことに、颯季さんの体をじっくりと眺める。肩と肩甲骨の中間あたり、俺がさっきしがみついたところが、指の形に赤い痕になっていた。俺の体にもキスマークやら何やらが散っていて、それらはお互いにお互いを刻みこんだ証のようで、肋骨の内側がこそばゆくなる。  さっきはごめんね、とやや項垂れた颯季さんが口を開く。 「ちょっと暴走しすぎだったよね。哲くんが可愛すぎて理性が飛んじゃって……いや、これは言い訳だよなあ」 「大丈夫ですよ! 本当に嫌なら嫌って言いますから。全然、平気です」  颯季さんの反省会はまだやまないようだ。気にしなくていいのに、と俺はもどかしい気持ちでいる。いつも優しい颯季さんの、剥き出しの本能を垣間見られて、むしろ幸せなくらいだ。 「哲くんはぼくを甘やかすよねえ。そんなんじゃどんどん増長するよ?」  恋人が上体をこちらに預けてくる。からかうような口ぶりに頬のあたりが熱くなった。甘やかす、なんて。いつも俺が颯季さんに感じていることなのに。 「ねえ、哲くん」 「は、はい?」 「ぼくに言いたいことがあったら、我慢せずに言うんだよ。君がどんなことを言っても嫌ったりしないから。哲くんの本音が聞けたら嬉しいな。まあ、ぼくがこんなだから信用できないのかもしれないけど……」  そんなことないです、と(かぶり)を振れば、お湯がちゃぷちゃぷと音を立てる。  俺がなかなか本音を口にできないのは、もちろん彼を信頼していないからではない。信頼できないのは、俺自身だ。自分の意見に価値があると思えないから、いつも口を(つぐ)んでしまう。でも、「本音が聞けたら嬉しい」という颯季さんの言葉を信じて、彼の心の大海に飛びこむように、ありのままの気持ちを伝えられる人間になりたい。 「……今度、二人で遠出しませんか。どこか、泊まりで」  意を決して提案すると、すぐに「いいね~」と弾んだ声が返ってくる。 「君が望むなら、キャンプでも海水浴でもなんでも付き合うよ」  さりげなく続けられ、俺ははっとした。大の虫嫌いの颯季さんが、俺のためにアウトドアでもどこでも付き合うと言ってくれている。それってもしかして――愛されている、ということなのでは。  颯季さんから見えないのをいいことに俺は盛大に照れ、こみ上げてくる笑みをこらえきれずににやにやした。 「……温泉とか、どうですか」 「お、最高だねえ。哲くんと旅館でしっぽりかあ。ふふふ……」  密着した肌から颯季さんの含み笑いの振動が伝わってくる。何を想像しているのかは分からないが、提案は彼のお気に召したようだ。  俺は今まで旅館に宿泊したことがない。学校の修学旅行すら理由をつけて自宅で過ごしていた。だからドラマや漫画の知識しかないが、旅館では浴衣で懐石料理を食べたり卓球をしたりするのだろう。そして夜も深まり、寝床に横たわる俺の上に覆い被さってくる颯季さん。彼の浴衣の(あわせ)ははだけていて、そこから鍛えられた肉体がちらちらと見えている――。 「哲くん、いま何考えてるの?」  笑いを含んだ颯季さんの声にはっとする。いけないいけない、本人がそばにいるのに妄想に浸ってしまうとは。 「おっきくなってるよお。哲くんのすけべ」 「えっ? あ! すみません……!」  指摘されて顔がかあっと熱くなる。腰を引こうとするも逃げ場などない。慌てていると、ふっと颯季さんが笑う気配がする。 「とか言っておいて、ぼくも同じなんだけどねえ」  颯季さんが俺の手を取り、彼の股間へ導いていく。もう親しんでしまった硬さが掌に触れて、心臓がどくりと強く脈打つ。 「せっかくお風呂入ったけど……上がったらもう一回しようか。ね? 哲くん」 「……はい。俺も、したいです」  そこで互いに首を伸ばし傾けて、唇を重ね合う。好きな人と同じことを考えているのが、こんなにも嬉しいなんて。  俺と颯季さんは何もかも違うと思っていたけれど、実はけっこう、似ているのかもしれない。それか――一緒にいるうちに似てきたのか。  これからもっと同じところ、違うところ、たくさん見つけていけたらいい。大切で大好きな、この人の隣で。

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