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修学旅行(赤坂 side)
今日は色んなことが起こりすぎて頭がついてきていない。俺は夢でも見ているのだろうか? 軽く頬をつねってみたが、鈍い痛みがぞわりと走る。やはり夢ではないようだ。
目に映るのは、淡い緑色のカーテンや綺麗に整頓された机、無駄にお洒落な風呂場。そしてシングルベッド。唖然とする俺の横には、ニコニコ笑顔の男・黒井《くろい》が突っ立っている。
ここで言っておくが、俺達は決してそんな関係ではない。ただのクラスメイトだ。どうしてこうなったんだ……俺はぐちゃぐちゃに混ざった頭を抱えた。
遡ること数時間前。俺達高校2年生は修学旅行に来ていた。3泊4日の旅で、遊園地やら動物園やらに行って周りははしゃいでいた。俺は割と冷めた性格をしてるから、1人で適当にぶらついたり、たまにダチと喋りながら遊園地のベンチに座ってたり。あんまり修学旅行らしいことはしていなかった。
3日目の夜。事件は起こった。俺の部屋の風呂がぶっ壊れた。排水溝が詰まりすぎたのか排水管に問題があったのか知らんが、水が逆流してもう部屋中水浸しになってしまった。慌てて風呂から出て着替え、先生に伝えた。先生がホテルの人に言ったところ、今日は風呂の修理をするから部屋から出て欲しいと言われたらしい。
しかも、春だからか修学旅行生もたくさんいて、もう部屋が満室という。俺達は焦って「仕方がないから誰かの部屋に泊めさせてもらおう」と話していた。なんて災難だ。部屋で1人ゲームでもしようと思っていた矢先に。
誰の部屋がいいかと先生に聞かれた。誰って……流石にパリピの部屋は嫌だし、かといって俺そこまで深い仲のやつもいないし……。困っていたところにたまたま通りかかったのが黒井だった。
黒井は同じクラスでありながら、今まで話したことがない。というか、黒井が喋っているところをほぼ見ない。昼休みもどこにいるのやらわからないし、謎に包まれた男だ。
黒井は事情を聞き、「だったら僕の部屋においでよ」と言ってくれた。それはありがたい話なんだけど……。
で、今に至る。黒井の厚意により部屋は見つかったけど、よく考えたら1人部屋だからベッドが1つしかない。もう簡易ベッドもいっぱいだという。くそっ、後で覚えとけよ、ここのホテル。
「僕、先にお風呂入るね」
透き通るような声が耳に入り、俺は我に返った。そう、これは夢じゃない。俺はこいつと夜を共に過ごすんだ……。いやいや、そんな変な意味ではなくて、純粋に、同じ部屋で寝るってだけであって……。
「お、おう……」
返事をしたが、あいつはすでにバスルームに入っていた。広くて狭い部屋に俺の声が虚しく響く。
静かな空間に、優しく木霊するあいつのシャワー音。何だかむず痒くなって、思わずイヤホンを付けた。
しばらくして、黒井が風呂から上がった。顔はいつもと同じ柔らかな表情だが、いつもの制服姿とは違ってジャージを身にまとっている。袖口から白くて細い指をチラリと覗かせている。うわっ、萌え袖かよ。ホント女みたいに細い体だな。てか、こいつもこういうラフな格好するんだな……。
微かに香る匂いが俺の鼻をくすぐる。シャンプーの匂いだろうか、それとも……。
「赤坂《あかさか》くんも入る?」
「あっ、あ、そうしようかな……」
黒井に振られ、つい頷いてしまった。もう少し後で入ろうと思っていたが、さっきの騒動で体が冷えているし、このままいても気まずいだけだ。俺も服を持って早足で風呂場へ向かった。
黒井に名前を呼ばれて何だかくすぐったい気持ちになった。正確には苗字にくん付け、だけど。俺の下の名前とか覚えてないよな、流石に。クラスの男共も苗字に呼び捨てで呼び合うことが多いし、そんなもんかな……。なんてくだらないことを考えながらシャワーを浴びていた。
それから、風呂を終えても特に会話はなく、お互いスマホを触ってばかりだった。しんと広がる静寂がやけに俺の心をざわつかせる。早く時間が過ぎてくれ……そんなことばかり願ってしまう。
ふと、少し離れた場所にいる黒井を見てみた。細い髪に、ものすごく整った端正な顔立ち。長く伸びたまつ毛が切ない表情を浮かばせ、儚い印象を受ける。真っ白な肌は滑らかで、触れると溶けてしまいそうな……そんな感じがした。こいつって、かなり綺麗な顔してるんだ……。ほとんど意識して見たことなかったが、そのことに今ようやく気づいた。
ああ、このままだと気が狂いそうだ。俺はスマホを机の上に置き、恐る恐る声を振り絞った。
「俺、そろそろ寝ようと思うからさ、椅子に座らせてもらってもいい?」
今俺は立ちっぱなしで、黒井は椅子に腰かけている。当然、黒井の部屋だからベッドは黒井が使うものだ。流石に突然やって来て俺が使うわけにもいかないから、今黒井が座っている椅子で寝るしかない。
「いや、椅子は硬いし、風邪引くよ?僕が椅子で寝るから、赤坂くんはベッドで寝て?」
「いやいや、それは黒井に悪い……!」
それはだめだって黒井。そりゃあ横になって寝たいけどさ、この状況で俺がベッドなのはいかがなものかと。しかし黒井は大丈夫だからと言う。しばらく譲り合いが続いた後、黒井は衝撃的な言葉を発した。
「じゃあさ、僕がこっち半分を使うから、赤坂くんはそっち半分使って」
思わず吹き出しそうになった。しかもこんな時でも黒井は平然と柔和な笑みを貫いている。何も言えずにぽかんとしていると、無言の肯定に捉えられたのか、結局2人ともベッドで寝ることに。
恥ずかしすぎて、俺はベッドの端ギリギリまで寄り、黒井に背中を向けた。
そっと後ろを振り返ると、黒井の背中が見えた。シングルベッドだから後ろ向きでもめちゃくちゃ近い。けど、今こいつがどんな顔をしているかわからない。俺はすぐにまた体を背けた。
会話は何も生まれない。そんなのいつも通りじゃないか。何を焦っているんだ、俺。そう言い聞かせても鳴り止まぬ鼓動。
黒井は俺のクラスメイト。ただそれだけだ。俺はノーマルだし、黒井だってきっと女が好きだ。じゃあこの胸のざわめきは何……?
黒井は本当に大人しい。今まで話したこともなかった。俺だって比較的静かな性格だが、それ以上に寡黙な黒井のことを、内心どんなやつなんだろうって気になり始めた。
……もしかしたら俺は、黒井ともっと話したかったのかもしれない。修学旅行最終日前夜。これを逃したら黒井と話す機会もないかもしれない。そう思うと少し寂しく感じた。
何でそう思うんだろう?喋ったこともなかったのに。黒井には不思議な雰囲気がある。見た目は全然違うけど、どこかシンパシーを感じる。それに、アクシデントで困っている俺に手を差し伸べてくれた。純粋に優しいやつだな、どんなやつなのか色々話してみたいなって思ったんだ。
今からでも遅くない。もう少し、もっと近くで……
俺は黒井のことが知りたい。
そう感じた俺は、溢れ出す鼓動に身を任せ、再び黒井の方に体を向けた。
すると、目の前にあったのは黒井の背中ではなかった。暗闇の中で、黒々と輝く瞳を俺に向ける黒井。か細い体は今にも消えてしまいそうなくらいだ。
中途半端な距離で見つめ合う俺達。離れた2人の心の距離が、今近づこうとしている。
予想外の黒井の姿に、心臓が大きく跳ねた。まるで時間が止まっているような気がした。
固まって動けないままでいると、黒井の小さな唇がそっと開いた。
「赤坂くんが眼鏡外したところ、初めて見た。何だか新鮮だね」
「ま、まあな……。俺だって黒井のそんな姿、初めて見るし……」
「学校じゃ見せないもんね」
そう言って黒井は唇の端をゆっくりと上げた。内緒話をしている時のような、ひっそりとした黒井の笑み。いつもの笑顔とは違って体がぞくっとした。きっと見た誰もが惹き付けられる、妖艶なものだった。遠くて近い場所にいる黒井に、手を伸ばせば届く気がした。
「僕、赤坂くんのこともっと知りたい。教えてよ……」
2人の壁は取り壊された。水晶のような瞳に吸い込まれ、俺と黒井の心は今重なり合った。
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