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19.事件
季節が秋の終わりになりかかった頃、事件は起きた。
「いや、だ……ッ! このっ、やめっ……嫌だァァァァァッッ!!」
放課後で人もまばらな校舎から悲鳴みたいな声が廊下まで響いてきて、駆けつけた先にはαが一人、Ωらしい奴の上に覆い被さっていた。
ジタバタと暴れるそいつは甘い匂いが凄い。よく見れば近くにへたりこんでる奴が居て、そいつからも甘い匂いが強く溢れていた。
そのせいかこの教室の空気が吐きそうなくらい甘ったるい。甘すぎていっそ、臭い。
「や、め……やめっ……りょうから離れ……」
「馬鹿っ、わざわざ近付くな!」
へたりこんでたΩがよろよろと近付くと、ひくりとαが身を起こした。顔が真っ赤で目が完全にイってる。その視線は真っ直ぐ抑え込んでる背の高い方のΩを見つめていた。
ふーふーと荒い呼吸に震える手がそいつの上着を掴んで水平方向へ力任せに引っ張った。
上着だけじゃなくシャツまでボタンが引きちぎれて、こつんこつんと飛び散ったボタンが床に落ちて転がっていく。
「あ……ッ……」
聞こえてきた声は蚊の鳴くような声っていうんだろうか。
目の前で一体何が起きたのか、すぐには分からなかった。
押し倒されてるΩは呆然と露になった胸元を見ていた。もぞもぞと自分の上を蠢く体に覆われて揺さぶられながら、何もかも諦めたみたいに無抵抗なまま天井を見つめている。
「だ、めっ……や、だ……何でリョウなの僕が悪いのに嫌だやめて触らないで嫌だ嫌だ嫌だ嫌だァァァァァァァァ!」
ずるずると体を引きずりながら、へたりこんでたΩは悲鳴みたいな叫び声を上げて二人に近付いていった。その体から出てくる匂いがどんどん濃くなって、影響されたらしいαの動きが激しくなる。
助けようと近付くほどもう一人は服を引き裂かれていく。地獄絵図だ。
「や、やば……あいつ剥がさないとホントにヤられるよ下の奴!」
「てかもう殆ど素っ裸じゃん! やばいやばい急げ!!」
はっと我に返った皆川と原田が駆け出した。沢良木も頭押さえながら走り出そうとした後ろで、田野原がふらふらと窓の方へ寄っていく。
「うう、頭いてぇよぉ……窓開けよう窓ー!」
「あっこらターノ開けんな! 他のαが寄ってくるだろうが!!」
フェロモンがキツすぎて沢良木だけじゃ済まなくなってきたらしい。引きずり戻された田野原はちょっと青い顔で頭を押さえていた。
発情させるためのフェロモンのはずなのに、β二人への影響がそれ通り越して体調不良になってるのが怖すぎる。どうなってるんだこれ。
「う!? なん、こいつ力ヤバ……うわぁっ!」
そんなこんなしてる間にαの奴を抑えにかかってた原田が振り払われて床に転がっていた。運動部二人がかりなのに全然寄せ付けない。
「生徒会みたいに足押さえろって! 頭蹴り飛ばされたら頭蓋骨へこむかもしんない!!」
「脅すなカワミナァァァァァ――!!!」
冷静な皆川と叫ぶ原田は、暴れるそいつの脚を押さえに飛びかかっていった。後から追い付いた沢良木と田野原は腕を床に押さえつけて何とか押さえ込んでいて。
なのに……四人がかりでもまだαの奴に振り回されてる。
相手の体格が良すぎるんだ。ヒートを起こしてるΩをどうにかしないといけない。
そんな事を考えてる間に、無事な方のΩがずるずるともう一人のΩへ向かっていく。コイツも目がヤバイ。ぶつぶつ襲われてる奴の名前っぽいのを呟いてて、それ以外何も見えてないみたいだった。
「ッ……くっせ……おい待て、あんま近付くなって言ってんだろ!」
「たすけなきゃ……リョウが……りょうがっ……!」
後ろに引きずり戻すとジタバタ暴れ始める。こいつの方が華奢だから振り回される事はないけど、この状態だと薬を飲ませられないし特効薬も打てない。
「アンタがフェロモン撒き散らしながら近付くと悪化すんだよ! 離れろ馬鹿ッ!」
「やだ、やだ、りょう、りょう、りょう、りょう、やだ、やだぁぁぁぁっ!!」
完全に錯乱状態になってて手がつけられない。ただでさえ甘い匂いがキツいのにまだ強くなるし、言ってる言葉も意味が分からなくなってきた。
「クソッ、一人に構ってらんねぇんだよ大人しくしろ! 薬打てないだろうが!」
「んぐ、が 、ぁ、うっ……!」
仕方なしに口を抑えた状態で力一杯床に引き倒す。腹にカートリッジの針を刺してしばらくすると、興奮状態が少しずつ治まっていった。特効薬の中でもとびきり強い薬だったお陰か、フェロモンもいつもより早く治まっていく。
「は……っ、つぎ、っ……」
きつい。至近距離で嗅いだ匂いがキツすぎてオレも頭が痛い。
でも早くフェロモンをどうにかしないと。襲われてる奴もそうだけど、押さえてくれてる皆が怪我するかもしれない。
自分をそう励まして何とか立ち上がると、バタバタと足音がいくつか近付いてきた。
「何事だ!」
一番に入ってきたのは相楽先輩だ。こもったフェロモンの匂いに一瞬鼻を押さえた後、中の様子に目を見開いたみたいだった。
「……っ、これは……」
立ち尽くす先輩の後ろから出てきたのは、よくトラブル仲裁に走ってくるβの生徒会メンバー。最後に仁科儀先輩が入ってきて素早く中を見回すと、オレに視線を向けた。
「行家、そっちのΩは!」
「と、特効薬をついさっき……っ」
「わかった、残りはあっちの二人だな」
質問に答えると仁科儀先輩は短く周りのβ勢に指示を出す。
頷いた生徒会の先輩達は慣れた手付きで、やっと引き剥がされたαと押し倒されてたΩに特効薬を打っていった。
Ωの奴は特効薬が効いたのか、すぐにフェロモンが薄まっていく。
だけど起き上がる様子がない。下着とズボンの裾や上着の袖が辛うじて巻き付いてる状態のまま、天井を見つめて横たわっている。もう一人のΩが駆け寄っても視線がそっちを向くことはなかった。
「襲われた方はショック状態に陥っているようです」
「ひとまず隔離室へ。カウンセラーの派遣を要請してくれ」
「はい。もう一人の方は……」
会話の途中で、報告を上げてた生徒会の先輩がちらっとΩ二人を見る。
無事だった方の奴が必死に話しかけても襲われた方は相変わらずで。それを隔離室に運ぼうとする別の先輩から奪い返そうと、無事だった方が二人に掴みかかっている。
「……一緒にいさせる方があっちは落ち着くだろう。Ω同士だし、一緒に隔離室へ入れてやれ」
「承知いたしました。では」
すっと揉めてる現場に戻った報告役の先輩は、気付けば暴れてるΩの腹に一発食らわせて気絶させていた。
……被害者相手に手荒だな……。
αの奴も薬を打っても落ち着かないらしくて、同じように腹に一発食らって転がった所を見事に縛り上げられていた。でも起きてるから口の中にハンカチみたいな布をねじ込まれて、担ぎ上げられる。こっちも隔離室に運ばれてくらしい。
「お前達にはまた助けられてしまったな。感謝する」
呆然と成り行きを見守ってた皆に仁科儀先輩が近付いていく。
この間と違ってギリギリだったせいか、皆浮かない顔で小さく頷く程度だった。
「……あいつ……レイプされかけたって、ことですよね」
「そうだな。ただ、Ω二人のフェロモンに暴露していた状況を鑑みるとαに対しては何とも言えないな」
「え。あんな乱暴されたのに……」
「Ωのフェロモンはαの理性を吹き飛ばすと教わっただろう。ヒート状態のΩが二人も近くにいて、正気を保てるαが果たして居るかどうか」
戸惑う皆川とけろっとした仁科儀先輩のやり取りに、皆の顔が強ばる。
確かに襲われたのはΩの奴だけど、これだけフェロモンでいっぱいな状況を考えるとαだけが悪いとは言い切れない。だけどΩが悪いとも言えない。
Ωが自分でαにフェロモンを当てにいったなら話は別だけど、あの二人はそんな感じじゃなかったし。もしくはαの奴がわざと二人を襲いに行ったとか……でも、その辺りは分からない。
出来事の解決はしたけど、完全な解決はしない。
何となく……もやもやとした空気が流れた。
「念のためお前達もカウンセリングを受けておけ。こんな現場、普通は見るものじゃないからな」
「……はーい……」
予約申請しておくからなと仁科儀先輩に言われて、皆力なく頷いた。
ようやく現場が落ち着いた頃、皆が部屋を出ていく後ろ姿を見送った。
ぼーっとしばらく見てて、はっと我に返る。早くついてかないと皆を見失う。早く追いかけないと。
――でも。
「行家? 大丈夫か」
「っ……!」
触れられた瞬間、甘い匂いがした。
これだけ甘ったるく臭うフェロモンでいっぱいの部屋で、仁科儀先輩の香水だけが良い香りで匂うなんてあるだろうか。下水の近くでいい匂いの食べ物を出されたって、普通は下水の臭いに飲み込まれる。
なら、今先輩からする甘い匂いは……。
嫌な予感がして頭より先に体が先に動いた。ベルトにつけてたポーチから薬を出して中身を出す。
「ちょっと待て、お前何を飲もうとしてるんだ! それはΩ用だ馬鹿ッ!」
目ざとく見つけられて腕を捕まれた。薬を取り上げられて先輩の怒った様な顔がすぐ近くに寄ってきて。
「は、はなし……っぁ……ッ」
「おい、どうした、しっかりしろ!」
また甘い匂いがして、ぞくぞくっと背筋を違和感が駆け上がってくる。
「っ、っだ、めだ、むり……っ」
最初にフェロモンに当てられてヒート紛いの状態になった時と似てる。だけどそれ以上に違和感が強烈で、体が震えたまま言うことを聞かない。
……ヒートだ。しかも多分、オレが今までなった中で一番きっついやつ。
どうしたら良いのか分からない。
ヒートになってしまったΩの対処法をあんなに教わったのに。実際に手当てして助けてきたのに。その対象が自分になった途端、何も分からなくなってしまった。
見られたくない。
逃げないといけない。
誰も来ない所へ。
頭がやっとその判断を下して先輩を振り払う。そのまま教室から転がるみたいにして飛び出した。
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