1 / 10
憎まれし国へ来た青年
布張りのキャンバスに空想の世界を描いていく。
ステンドグラスみたいと言われればそれまでだが、あくまでも俺の頭の中、心の内、他の誰にも見えていない何か。
自由に交差させた流線の中を、アクリル絵の具てグレイトーンのブルーで塗り分けた。この後アクセントに冷色系を加えていけば完成。
ここは静寂に満ちたアトリエなどではない。
都心から少し外れた街の駅前。
電車の走行音、楽しげな話し声、その他ささいな電子音やひっそりと生きる土鳩 たちの鳴き声ですら、すべてが集約されて喧騒となる。
絵筆を握る俺の後ろには人、人、人。
何か描いてるのかな?と足を止める人、横目で見やり通り過ぎるだけの人、俺の存在に気づきもしない人。
俺は週末の度にこの場所に出店し、ライブペインティング兼ポストカードなどの製作物の販売をしていた。
ちなみに道路使用許可は取ってあるので大丈夫。
気づけば夜の九時半をまわっていた。ひたすらに蒸し暑い夏の夜。
いくら土曜の夜とは言え、こんな不快指数の高い屋外にわざわざ立ち止まってくれる人は少ない。
仕方ない。そろそろ店じまいかと、宣伝がてら制作途中の絵は最後まで展示しつつ、画材や細かい販売物から片づけ始める。
そうして慣れた手つきで撤収作業を進め、そろそろ歩道側に向けていたキャンバスも、と思ったところでだ。
「대단해 ……」
黒のハイテク系スニーカーが絵の前に立ち止まっていた。
若い男の子。身なりの雰囲気から大学生くらいだろう。
ところで今何て言ったんだろう。
「あ、あの……気に入ってくれた?ありがとう」
青年は慌てたように、
「ごめんなさい!『대단해 』は日本語で『すごい』という意味です。すみません……つい自分の国……韓国の言葉が出てしまいました」
と取り繕った。
なるほど、韓国人か。にしては日本語が上手い。
「へぇ、韓国の子?日本語上手だね」
「はい、僕は日本の大学で勉強しています。今は四年生です」
「なるほどねぇ、そりゃ日本語もペラッペラなわけだ」
多種多様な人が行き交う街並み、中には面倒くさいのもいるが、こうして思わぬ出会いがあるのも面白い。
俺の絵をえらく気に入ったと言い原画を言い値で買ってくれたおじさん。あれはかなり泥酔していた。
俺が絵を描くのを眺めながら、死にたい死にたいと呟いていた両腕が傷跡だらけの少女。
彼や彼女の行く末を俺は知らない。
韓国人の彼は、俺がしまいかけていたアクセサリー類をじっと見始めた。
ピアスやイヤリング、ネックレスなども作る技術はあるにはあるので、たまに作ってはテキトーに値段をつけて売っている。
「そういうアクセ系も好き?」
「はい。あ、今バイトの帰りなんで外してるんですけど、いつもはピアスしてます」
たしかに彼の耳には何もついてはいなかったが、ピアスホールは両耳にしっかりとあるようだった。
耳を見るついでのこのタイミングで、彼の容貌をようやくしっかりと認めた。
やたらと白く透き通った肌に切れ長の目。
真っ黒な髪を額にまっすぐに下ろし、後ろは爽やかに短く刈られている。今どきの若者らしい印象。
ゴツいスニーカーでかさ増ししているわりに小柄だが、これは女子にモテるだろうなと思った。
日本の若い女の子からしたら、韓国人の彼氏がいるなんて結構なステータスじゃないだろうか。世は終わりの見えない韓国ブームだ。
「両耳用のピアスだったら……あー、あいにく今女の子向けっぽいデザインのしか持ってきてないな」
「これは?これ、カッコイイ」
そう言って彼が手に取ったのは、表面を打ちつけあえて凸凹にする槌目 とツヤ消しの加工を施した、シンプルなシルバーのフープピアスだった。
「でもそれ片耳用だよ。いいの?」
もし彼がこの片耳用ピアスを気に入って常用してくれるなら、とてもありがたい。でももしかしたらその間に、もう片方の穴が塞がってしまわないかという意味合いで尋ねた。
「はい、いいです。ピアスできるの今のうちだけなので……どうせつけられなくなったら、いつか穴は両方塞がってしまいますから」
大学四年生と言っていた。来春には就職するからピアスなどつけてチャラつけなくなる、ということだろう。
海外から日本に来て頑張っている若者からあまり金は取りたくないが、原材料費だけでも回収しなければ、零細クリエイターの俺が飢える。
それでも少しだけ、いやかなりおまけの金額で売ってしまった。
彼は器用にも鏡も見ずに、早速それを左耳につける。
ピアスに触れ、ほんのりと嬉しそうにしているのが何だか微笑ましい。
ピアスの彼への商売を終えたら、本当の本当に店じまいなので、アクセサリー類もケースにしまっていく。
「……どうかした?」
なぜか彼はまだそこにいた。何か言いたげにしながら。
「あ、あの……あなたはいつもここにいますか?」
「土日の午後ならいるよ。俺が疲れてぶっ倒れてない限り」
「そうしたらまた、あなたの絵を見に来てもいいですか?」
どうやら俺の作品を気に入ってくれたらしい。今回買ってくれたのはピアスだが、きっと絵画にも興味があるんだろう。
「もちろん。俺のファンになってくれてありがとー!」
「はい!あなたのファンです!」
笑うと切れ長の目が弧を描き、愛嬌が滲み出てくる。
しかし何とも言えない違和感がある、それはこの会話に。
彼の日本語はきっとテキストで習った綺麗な日本語なので、二人称は『あなた』になる。そもそも彼は俺の名前を知らない。
「あのさ、俺の名前、和島航平(カズシマ コウヘイ)っていうの。そのあなたっていうのくすぐってぇわ」
「か、かじゅしまさん……?」
「かずしま」
「か……かじゅしましゃん……」
そっちの国の人には言いにくい発音なのかもしれない。
「じゃあ航平でいいよ」
「航平さん!」
「俺のこと覚えといてね~、いつかきっと大物になるからさ」
その辺は半分冗談で半分本気である。
「あの、僕の名前は최서환(チェ ソファン)です」
特に向こうの自己紹介は求めていなかったが、礼儀正しく名乗ってくれたので、
「ソファンくんね。今日はありがとー」
と生意気にもファンサしてみたりする。
そうして俺が片づけをしているのを、なぜかそのソファンくんとやらがまだ見ている。
「……まだ何かある?」
声をかけると、
「あ、ごめんなさい!また来ますね!」
と慌てて駅の方へ駆けて行ってしまった。
何か言い足りないことがあったのか。何か他に欲しい物があったのか。
真相は夜の闇に消えたままだった。
翌週の土曜夜、ソファンくんはまた現れた。
「航平さん、こんばんは」
「おー、こんばんは」
「今日の絵も素敵ですね」
この絵はもう大方完成しかけている。
白紙からライブペインティングを始めるわけではない。あらかじめ三割ほど絵を仕上げておき、路上ではそこから描き始める。
真っ白のキャンバスには足を止めなくても、何かしらが描かれている所には『何が完成するんだ?』と注目してくれる可能性が高まる。
先週のこのソファンくんも然 りだ。
彼は絵筆を握る俺の右隣にしゃがんで、筆の行方を見つめている。その左耳に鈍く光る銀色。
「あ、この前のピアスつけてくれてる。気に入った?」
「はい!バイト終わったらすぐつけました!」
ソファンくんは、この駅近くのスーパーで品出しのアルバイトをしていると言う。実は前々から帰り道で通りがかる俺の出店スペースを気にしてくれていたらしい。
勇気を出して近寄ってみたら、絵の世界観に圧倒され、アクセサリーも気に入ったと。理想的お客さんである。
「子どもの頃、親が絵本を買ってくれました。小さな女の子がはじめてのおつかいに挑戦する話です。それを読んで、気弱でおとなしかった僕も、近くのお店におつかいに行けるようになったんです」
「はじめてのおつかいかぁ。そういうののエモさって万国共通なのね」
日本ではテレビで度々特番化されているくらいだ。
「実はそれ元々日本の絵本で、それを韓国語訳した物だったんです。少し大きくなってからそれに気づいて、ちょっとずつ日本の文化に興味が湧いてきました。僕もいつか日本の絵本を韓国語に翻訳する仕事に就きたいんです」
そんな立派な夢を抱 き、今まさに日本で勉強中のソファンくん。
ここから少し電車に乗って、外国人留学生専用の寮に帰ると言う。
そこには各国の若者が集まっていて、時にそれぞれの国の名物料理を振る舞い合い、酒を飲み交わしたりするらしい。
「何か青春って感じでいいねぇ、そういうの。しかもグローバル!そこの子たちは日本の大学出たらこっちで就職すんの?」
「さぁ……みんなそれぞれ違うと思います」
「ソファンくんは翻訳家だったら……いきなりフリーランスはキツいか。まずは出版社に入ったりとか?」
「あー、まだあんまり決まってなくて」
ソファンくんは苦笑いする。
「えっ、でももう四年っしょ?そんな呑気で大丈夫なの?」
「はい、まぁ……大丈夫です!」
その大丈夫の言い方が大丈夫でないのが気になったが、どうにもそれ以上は訊けない雰囲気だった。
ソファンくんはその話題から逃げるように、展示しているポストカードを眺め始める。
「ポストカードも素敵ですよね。韓国にいる家族への連絡はいつもLINEか電話なんですけど」
「たまには絵ハガキもいいんじゃない?趣 深いっつーか……あ、趣って言葉わかるかな?……まぁでも、せっかく向こうの家族に送るなら、例えば富士山!とか桜!とか日本っぽい風景の写真とか絵のが喜ばれるんじゃないの?あいにく俺はそういうの描いてないけどさ」
ソファンくんはこちらを振り向いた。先ほどよりも悲しい色を濃くした苦笑いだった。
「僕のおじいさんとおばあさんは……日本が嫌いですよ」
「あ、ああ、そっか……そうなんだ」
俺も年齢だけは大人なので、歴史的なことはそれなりに知っているつもりだった。
それでもその後ネットニュースで、全国戦没者追悼式が今日行われていたと見出しだけ読んだ。
ああ、今日は八月十五日だったのか。
対して韓国では今日は祝日。日本から独立した記念日。それは少しググって初めて知った。
日本を嫌いだと言うソファンくんの祖父母。
そんな年配者たちのいる環境の中で、あの子は育ち、きっと反対されながらもその憎まれし国へと飛び出して来た。
見た目の柔和さより、芯の強い青年だろう。
ソファンくんに少し興味が湧いた。彼ともっと話してみたいかもしれない。
時代が時代なら、俺たちが親しく言葉を交わすことはなかっただろう。
彼は今のところ俺には好意的だし、そもそも日本に留学しに来ているくらいだから、日本が嫌いなんてことはまずないだろうし。
偶然に生まれた不思議な交流。それを阻むものは少ない方がいい。
日本が朝鮮半島を統治していた時代は七十年以上の昔に終わっているんだ。
俺たちは『現代の日本』を生きているんだから。
ともだちにシェアしよう!