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キミの瞳に映るこの国は
「んあーーー疲れたぁ!」
椅子の背もたれにだらりと寄りかかり、定時はとっくに過ぎ誰もいないのをいいことに思いきり叫んでやった。
無人のオフィス。ここは俺が勤めている小さなデザイン事務所だ。
平日はここで雇われグラフィックデザイナーとして、ポスターや雑誌の広告、各種フライヤーや商品のパッケージなどのデザインをやらせてもらっている。
正直言えば、自分のやりたい創作活動だけをしていたい。平日の五日間を雇われ仕事で無駄にせず、最短ルートで夢を追っていたい。
しかし好き放題に絵と夢を描いているだけでは食えない。世知辛い。
パソコンとにらめっこで作業をするよりも、やっぱりキャンバスに向かっている方がいい。何しろデスクワークは肩がこる。
バキバキの肩を伸ばしながら、毎週土曜日の夜に俺の前に現れる癒し系ボーイに想いを馳せる。
ソファン。最近は呼び捨てで呼ばせてもらっている。日本人の名前にはないやわらかで変わった響きも、何だかあえて呼んでみたくなる。
『ソファーン!肩こったよーう!』
俺が弱音を吐くと、
『あー、こってますねぇ』
なんて言いながら肩を揉んでくれる。
スペースをなかなか離れられない俺の代わりに、飲み物などもコンビニに買いに行ってくれる。もちろんソファンの分は奢る。
『航平さんの好きなブラックコーヒー、売り切れてたから、これで良かったですか?』
と、しっかりと同じ価格帯の定番商品を買ってくる。
夏場は炭酸やスッキリ系のジュースばかり飲んでいたソファンが、今日はホットのミルクティーを選んでいた。
「ふーん、今ってもうホットのペットボトル売ってんだ。そっかぁ、もう秋だよなぁ……冬ここでやるのしんどいんだよなー。筆を握る手がガッチガチのブルブルよ」
「じゃあ僕が温めてあげますよ?」
「どうやって?」
「うーん……あ、後ろからぎゅーってくっついててあげます」
ソファンは楽しげに両腕を広げる。その表情が少し恥ずかしそうで微笑ましかったので、
「じゃあ俺ここに座って描いてるから、やってみてよ」
とふざけて提案する。
「え?今ですか?」
自分から振ってきたくせになぜか躊躇 った挙げ句、ソファンは控えめに俺の背中にくっついてきた。
腕はこちらの腹や肩にまわしてこない。『ぎゅー』というより『ぴとり』。
「あはは!何これ!人前で絵描きながら何されてんだ俺。シュールすぎんだろ」
俺が爆笑し、ソファンはそっと離れてくれた。何だか気まずそうに。
「ソファンってほんといいキャラだね。お国の違いとかそういう新鮮さじゃないと思うわ。弟に欲しいっていうか妹でもいい感じ」
白い頬がほのかに染まったように見えたのは気のせいだろう。きっと年上の俺に褒められたのが嬉しかったんだ。
「……僕、も、航平さんみたいな人が……」
「だろ?わかるわー。俺って兄貴に欲しいタイプだろ?学生時代からよく言われてたもん」
というのは少し盛った話だが、後輩たちへの面倒見の良さにはそこそこ定評があった。
「……あの、僕今日はもう帰ります」
「そう?いつもより早いじゃん」
「はい……ちょっと今日バイト疲れたから……」
俺の真横から離れたソファンに合わせ、俺も筆を置き立ち上がる。
「あんまり無理すんなよ。若いとは言え無茶はダメだぞー」
利き手でない左手が汚れていないことを確認してから、ソファンの頭にポンと触れた。艶やかな黒髪へ、さっき言ったような弟にしてやるような戯れと労り。
しかしソファンは激しく動揺した様子で俺を見つめ、
「し、失礼します!」
とバタバタ走り去ってしまった。
「え、なんか俺、まずいことした……?」
左の手のひらを見つめるが、嫌がられるような絵の具の汚れなどはない。
一瞬だけ触れたやわらかな髪の感触がほのかに残り、風が肌寒いのにそこだけじっとりと汗ばんできた。
翌週、
「こんばんは」
と少しオドオドとした様子で、ソファンは俺の横の小さなアウトドアチェアに腰かける。そこは彼の特等席だった。
「あ、バイトお疲れー」
来てくれて良かった。何か気に障ることをしてしまったんじゃないかと、気が気でなかったこの一週間。
また会えて嬉しい、なんてそんなの男同士でおかしいだろう。男女の間なら間違いなく恋愛感情がこもってしまう。
「体調は大丈夫?」
「はい。いつも通り、元気です」
俺は順調に筆を滑らせる。反比例してソファンは黙 りだ。
本当は疲れているんじゃないだろうか。もしくは何か悩みがあるとか。
夏に出会って毎週顔を合わせてもう数ヶ月。連絡先すら知らないが、今日くらい早めに店じまいしてメシにでも連れて行ってやろうか。
思案していると、背後から若者たちの大声が聞こえてきた。
「ぐ……ぎもぢわりぃ……」
「バーカ!お前飲み過ぎなんだよー」
「えーありえないんだけどぉ、そんなとこで吐かないでよー」
ハタチ過ぎくらいの男女のグループ。ひとりの青年がもうグデグデになりながら、座り込んでしまっている。
ソファンと同じ年頃くらいか。
ああやって酒の席での失敗もしながら大人になっていくものだ、と自分の経験も思い起こしながらしみじみとする。
「なーんか、こんなまだ年末でも何でもない週末に飲み過ぎてバカ騒ぎとか、ほんと平和だよなぁ。あのベロベロの男の子、あのまま放ったらかしにされてもせいぜい財布スられるくらいで済むかもな。って、それもシャレになんないか。なぁソファン」
振り返り見たソファンの表情は固まっていた。
「ソファン……?」
「……あの人たちは……日本は平和です。とてもいい国です」
噛み締められた唇。それでも瞳はまっすぐ目の前の俺の絵を見ていた。
俺にはソファンの言葉の意味も表情のワケもわからない。
「そうだな、日本はいい国だよ。治安もいいし戦争もしない。いい国だわ」
だからテキトーな返ししかできない。
ソファンは顔だけ俺の方を向いた。どうしてそんな寂しそうな顔。
「僕の国は……もうずっと休戦状態です。だから僕は……卒業したら国に戻って、二年間の兵役に就くんです」
俺は本当に愚かだ。
ソファンの国にはそれが、兵役がある。
俺はそれを知っていたのに、どうして今まで気づかなかったんだろう。彼もその運命から逃れられないことに。
ソファンの左耳には、初めて立ち寄ってくれた時に買ってくれたピアスが鈍く光っていた。
それも外して、綺麗な黒髪も短く刈って、俺の想像もつかないような訓練の日々を送る。
その間に緊迫した戦闘状態に入らない保証など、誰がしてくれよう。
「ごめん。俺、無神経で」
「航平さんには、いつか話そうと思っていたんです。……でも、自分で話すだけでも悲しくなっちゃいますね」
「でもさ!卒業まではこっちにいるんだろ?ちゃんと青春満喫しろよな!遊びとか恋愛とかさ」
こんなアドバイス、上から目線以外の何物でもない。好きなことを仕事にしてのうのうと暮らしていける、日本人の俺からなんて。
ソファンはやや俯き、拳を膝の上で握り締める。
「……僕には、日本にいるうちに叶えたい目標があります。それをちゃんと終えてから、向こうに帰ります」
それが何なのかは教えてくれなかった。
年のわりにしっかりしていて、留学するほどの行動力も持ち合わせているソファンなら、きっと実現することができるだろう。
それがどんな崇高な目標なのかは知らないけれど。
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