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あなたじゃなきゃ嫌でした

同じ高校の上級生。学業は優秀、スラリと背が高くみんなから一目置かれる存在。 それが僕の初恋の男性。 同年代の女子にも女性アイドルにも魅力を感じなかった僕が、初めて心奪われた人。 けれど、その人の何が良くて何に惹かれたのかはもう忘れてしまった。 ある時、その先輩は言った。 『おいお前、こっちはとっくに気づいてんだよ。俺のことが好きなんだろ?気持ち悪いんだよ、ホモ野郎』 それからだ。 校内中から冷たい目で見られ、時に侮蔑的な言葉を浴びせられるようになったのは。 そういう場所だった。そういう国だった。 僕は自室で、幼い頃に買ってもらった日本語が原文の絵本を何度も開き、その度に強く誓った。 高校を卒業したらこの国を出よう。 もともと日本語を学びたい思いはあった。海の向こうのその隣国には、ここより性的マイノリティに寛容な空気があるらしい。 もう臆病じゃない絵本の中の子どもはおつかいに行けた。もう弱虫じゃない僕もどこへだって行ける。 日本に来て三年目の夏。 だいぶ日本語の上達していた僕は、スーパーのアルバイトに採用された。 ちょうど人手が足りなかったらしい。留学生でも品出しくらいならできるだろうと。 日本語で指示を受け、日本語で返事をする。アルバイトだけれど働いて給料をもらう。 憧れていた国でのそれは、僕にとって大きな一歩に違いなかった。 卒業したら兵役に就くことは決めていた。日本にいられる期間はもう半分を過ぎていたけれど、アルバイトをこなせているという自信は、僕の胸をかなり浮かれさせた。 そんな時期に、僕は彼の絵とそれを描く後ろ姿を見つけた。 僕は芸術については特に学んでいない。けれど将来的に絵本の翻訳家を目指すなら、絵画に触れ感性を磨くことも大事だと思った。 何しろ最近は、アルバイト先でも褒められて気分がいいんだ。道端の名も無き絵描きからも学んでみるか、そんな傲慢な気持ちでいた。 絵を描いているのは若い男で、気温も湿度も引かない夜、短髪から覗く首すじと白いTシャツの背中にわずかに汗が滲んでいる。 思わずゴクリと唾を飲み込んでいた。 どうせ僕は散々軽蔑されてきた同性愛者だ。愚かな僕は絵を見ることよりも、それを描いている男の顔を一目拝みたくなった。 幸いにも男の隣には若い女の子がしゃがみ込み、何やら会話をしている。その女の子の反対側からなら、こちらの存在をあまり気にされずに近寄りやすいはずだ。 人並みに少し押されながら、そろそろと狙いの位置へと歩み寄る。おそらく足音ひとつ立てずに隣まで来られた。 「うちさぁ、すぐ腕切っちゃうんだよねぇ。へへっ」 女の子の高い声に比べ、 「傷だらけの女の子にはそそられないなぁ」 男の声は心地よい低さ、そしてどこか飄々とした喋り口。 伺い見たその横顔は、精悍でくっきりとした目鼻立ちが印象的な──ただの僕の好みの男だった。 「今度切りたくなったら、代わりにマジックで好きな絵でも描いてみ?花でも蝶々でも好きなモン。あ、オススメは水性ペンな」 「あははっ!おにーさんマジウケんだけど……みんなそんなことするなって怒るだけなのにね」 何の話題だかわからないけれど、楽しげに会話している女の子が羨ましかった。 この男はいつもここにいるんだろうか。僕が話しかけてもいいような人だろうか。 そうして迷っているうちに一年も経ってしまった。 遠くから見ているだけの片想いも案外悪くなかった。 基本はキャンバスに向かう後ろ姿が多かった。それでも、立ち止まった人と会話をする時の人好きのする笑顔や、ボトル缶のコーヒーを飲みながら疲れたように見せる遠い目も僕は知っていた。 好きだと思えば思うほどに、好きになった。 季節が移ろうごとに、つまり卒業イコール帰国が見えてくるほどに、彼に近づきたくなってきた。 少しでいい、話してみたかった。 彼が絵を描く姿を遠くから見ていただけの僕を、いつまでも日本にはいられない僕を、記憶の片隅の片隅に置いてほしかった。 そうして彼に第一声は何と声をかけるかを考えに考えて、ようやく再度近づけた夜。 彼の描いていた不思議な世界にまで圧倒され、思わず母国語で感嘆の声を漏らしてしまっていた。 その前から好きだったのに、そこでもっと好きになって、会えば会うほどにもっともっと好きになる。 好き。愛してる。 想いを伝える言葉は知っているけれど、伝えずに終わろうと、それだけは決めている。 韓国人の同性愛者に愛を告白されて、そいつはそのまま母国での兵役のために帰りました、なんて笑い話にもならないだろうから。 十二月のとある日曜の午後、僕は新宿のいわゆるラブホテルの一室にいた。 これから俺を抱いてくれる人が、シャワーを終え出てきた。 お互いにガウン一枚羽織っただけの格好。彼がベッドの上に座っていた僕を抱き締める。 「あはは、緊張してんなぁ」 「ごめんなさい……」 「いいよ、初めてなんだもんね。男に抱かれるっていう目標、クリアするんだもんね」 小柄で可愛い、中性的と言われがちな僕にだってそれなりに性欲はあった。 兵役に就いている間に欲求不満になるのは、目に見えている。 そして、どうせなら向こうよりも同性愛への理解が進んでいる日本で、セックスというものを経験しておこうとずっと考えていた。 「キスはしたことある?」 首を横に振る。 「じゃあ目ぇつぶって」 目の前にあるのは、航平さんと同い年で背丈も同じくらいで、でも違う人の顔。 僕はその人を航平さんだと思って、唇を受け入れる。 啄まれて、ぴちゃぴちゃ音を立てながら舌と舌を絡められて、自然な流れで押し倒された。きっとセックスに慣れている人。 こわい。 キスマークをつけた首すじを満足げに撫でてくる手が。 こわい。 胸を撫でて快楽を引き出そうとしてくる知らない手が。 こわい。 下半身に伸ばされる知らない手が。誰にも見せたことのない場所に触れようと、脚を広げてくる知らない手が。 「いやだ……こわい……!」 「大丈夫、こわくないよ」 彼が顔を寄せ、頭を撫でてくれる。 違う。この顔じゃない。この手じゃない。 時折、戯れのように航平さんが頭を撫でてくれる時は、必ずその手をサッと拭いて絵の具などで汚れていないことを確認してから。 僕はあの大きな手の見せる気遣いが、強くは触れてこない優しさが、もしかしたら僕のことを好きでいてくれているかもなんて誤解させてくる狡さが、たまらなく大好きだった。 航平さん以外に触れられたくないんだと、強く認識する。 「ご、ごめんなさい……ここで、やめてもいいですか?」 今日初めて出会った彼は優しく、叶えるつもりのない片想いの話を聞いてくれた。 涙を堪える僕を布団で隠して、その上から撫でてくれた。もう直接は触れないでくれている。 「俺、キミのこと結構好みだったから残念だけど、そんな国境を越えそうな純愛話聞かされちゃたらなぁ。もう今日のところは諦めるしかないわ」 「ごめんなさい……」 「キミの国では俺らみたいなマイノリティに風当たり強いって、ここまで来る途中に教えてくれたけどさ。誰かを本気で好きになるってめっちゃ尊いことなのになぁ。何で性別に縛られなきゃいけないんだろ」 本気で好き。ああ、僕は本気で航平さんのことを。 「シャワー浴びて俺の痕跡キレイキレイしてから、行ってきなよ」 「行ってきなよって……?」 「決まってんじゃん。その大好きな男のとこに」

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