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プロローグ

 狭い部屋に押し込められるように設置された古いロッカーの前で作業着を脱ぎながら、牧田(まきた)都亜(とあ)は何度目かもわからないため息をついた。  ここは鬱蒼とした山の中に佇む小さな小さな建設会社で、都亜の職場だ。  従業員はたったの十人。現場にいるのは干支一回り以上年上の男性ばかりで、唯一の女性である事務員は社長の奥さん。全員がこの町で生まれ育った人間ばかりという、ごく狭い世界である。  高校卒業後すぐに仕事を得ることができたのはラッキーだったけれど、若者らしい夢を持つこともなく、恋愛に心を弾ませる機会にもいまだ恵まれたことはない。  タバコの匂いが漂うロッカールームに足を踏み入れるたび、都亜の脳裡には『牢獄』という言葉が浮かぶ。逃げ場のない小さな部屋は、まるで都亜の人生そのものだ。  仕事に不満はないし、給料の額だって、ひとりで生きていくぶんには事足りる。だが、このまま人生が終わってゆくのかと思うと、時折やりきれなさを感じてしまうときがある。  都亜が着替えをしていると、荒っぽい音と共にドアが開いた。大柄なふたりの先輩社員がどかどかとロッカールームに入ってくると、一瞬にして部屋の密度が上がり、男の臭いが空間に充満する。 「お疲れ様です」 「おう、お疲れ」  愛想笑いを浮かべ、都亜は先輩社員たちに背を向けた。急いで埃っぽいTシャツを脱ぎ、私服のスウェットを頭からかぶろうとしていると、不意に剥き出しの脇腹を掴まれてぎょっとする。 「相変わらず細ぇなぁ、ちゃんと食ってんのかぁ?」 「食べてますよ。てかあの、触りすぎですって」  五十がらみの先輩社員たちが、ふざけた調子で脇腹を揉んでくる。不愉快さが顔から滲み出そうになるのをなんとかこらえ、都亜は愛想笑いを見せつつ身をかわした。 「よし! 今日も奢ってやる。飯食いに行くぞ」 「いや……大丈夫です。昨日も行ったばっかだし、悪いんで」 「まぁまぁ、遠慮すんなって! 今日は特別に、カワイイ女の子がいるところに連れてってやっから! な? お前もそろそろ女欲しいだろ」 「カワイイ女の子、ですか……」 「なんだよ、行くだろ? 楽しいぞ〜?」 「あ、あはは……。はい、行きます……」  先輩社員の笑顔の圧に負けて弱々しく頷くと、今度はバシッと尻を勢いよく叩かれた。 「ほら! しゃんとしねぇとモテねぇぞ!」 「す……すみません! お先に失礼します!」  威勢よく聞こえるよう声を張って挨拶をし、廊下へ飛び出す。ひとりになると気が抜けて、都亜は重い足取りで廊下を歩きながら、深い深いため息をついた。  ”男らしさ”を求められるのは面倒だけれど、狭い人間関係の中で波風を立てたくはない。平穏な日常を送るために、都亜は日々耐えていた。  それに、そもそも都亜の恋愛対象は男性なので、可愛い女の子には興味はないのだ。しかし、偏見渦巻くこの小さな世界で、そんなことを口にすることができるわけがない。  思春期を迎える頃に自分がそうだと気づいてからずっと、惚れてしまいそうな相手が現れるたび、恋心に蓋をしてきた。   自分なんかの恋が成就するわけがない。うっかり恋をしてしまえば、あとから苦しむのは自分だ——……そういう未来が目に見えているからこそ、躍起になって感情から目を逸らした。  その癖は、大人になった今も変わらない。自分を殺して生きる人生は、これからもずっと続いていく。  息苦しくはあるけれど、人生が平穏であるに越したことはないのだから……。 「ワン!」  早足に職場を出ようとする都亜を、耳慣れたコロの声が呼び止める。事務所で飼われている柴犬で、唯一、都亜に癒しを与えてくれる存在だ。  ふらりと近づくと、コロは嬉しそうに尻尾を振る。まるで笑っているかのように見える表情がとても愛らしくて、都亜は気の抜けた笑みを浮かべた。 「コロ、また断れなかったよ。彼女なんていらないのにさ」 「ワフッ」 「うん、もっとキッパリ断りたいとこなんだけど、先輩の圧には勝てないんだよなぁ……」  しゃがんで首元をわさわさと撫で回し、そのままぎゅっと抱きしめる。コロは嫌がるそぶりもなく、尻尾をふりふりしながら抱きしめられていてくれた。  もっとそうしていたかったけれど、先輩社員の気配を察知した都亜は慌ててコロから離れ、ふわふわの頭をひと撫でした。 「じゃあね、また明日」  逃げるように原付バイクに跨り、エンジンをかける。  山道を適当に流したあと、都亜は山あいにある小さな展望スペースにバイクを停めた。  ここは、のっぺりとした闇の中にポツポツと小さな灯りが見えるだけの高台だけれど、とても静かでホッとする。  ポツンと置かれた木のベンチに腰掛けて深呼吸をしたあと、都亜はがくりと項垂れた。 「は~~……疲れるなぁ……」  ぽつりとこぼれた言葉のわびしさに、自嘲の笑みが浮かんでくる。  早くに両親を亡くした都亜を育て上げた祖母に楽な暮らしをしてほしくて、就職を決めた。  だが、都亜が高校を出た途端に祖母は弱り、回復することなく死んでしまった。孫が手を離れ、気が抜けてしまったのだろう――残された都亜にそう語ったのは、祖母を看取った主治医だった。  祖母がいなくなったのだから、この場所に縛られる理由は何もない。とはいえ、この田舎町しか知らない自分が外の世界でうまくやっていけるのかと考えると不安で、なかなか次の一歩を踏み出せないでいた。  ――でも、このままじゃダメだ。そろそろ本気で先のことを考えないと……  膝を抱えて考えごとに耽っていると、プルゾンのポケットでスマートフォンが振動する。案の定、着信画面には先輩社員の名前があった。早く飲み会に来るようにという、催促の電話に違いない。 「はいはい、今行きますよ〜……」  のろのろと立ち上がり、ヘルメットをかぶって原付に跨る。ポケットの中では延々とスマホが振動しているが、電話に出てしまえばまた、愛想笑いをしなくてはならない。  ――あーあ。なんかもう、疲れたなぁ……  疲れに痺れた頭で、ぼんやりしていたのがよくなかった。    ハッと気づいたときには、下り坂の急カーブが目の前に迫っていて――…… 「っ……!!」  ブレーキを強く強く握り込んだときはもう遅かった。  激しい衝撃の直後、ぞっとするような浮遊感が全身を包み込む。  そこでブツリと、世界は暗転した。   

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