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エピローグ〈後〉

「ここには、ジルコーという医師がひとりで住んでいた。シルヴェラから逃げ出し、傷だらけになって死にかけていた俺を救ってくれた恩人だ」 「死にかけていた……? ヴァルが?」 「ああ。両親を殺された俺は、純血の吸血鬼である叔父の元へ連れて行かれた。叔父は俺の目の前で人間の女を咬み、死に絶えるまで吸血して見せたんだ。そして、それを俺にもやれと強いた。……俺にそんなことができるわけがないのに」  口元に穏やかな笑みを湛え、ヴァルフィリスは遠い目をして過去を語った。  トアの手を包む大きな手のひらからぬくもりが去ってゆくように感じられ、今度はトアがヴァルフィリスの手を握りしめる。 「純血でありながら人間の母を愛した父は、俺に吸血能力がないことを喜んでいた。俺ならきっと、いつか人間と暮らせるようになるかもしれないと、希望を抱いていたんだよ。……最期のときも、俺に人と親しく生きるようにと言い残して、死んだ」 「……っ」 「そんな父の弟なのに、ためらいなく人を殺す叔父が恐ろしくてね。幼かった俺は、恐怖に駆られて叔父を突き飛ばした。その拍子に燭台の炎がカーテンに燃え移り、炎に巻かれた叔父の姿が怖くて怖くて……それで俺は逃げたんだ」  想像を絶するような過去を語るヴァルフィリスの口調は静かで、まるで自分とは関わりのない物語を語っているかのようだった。  恐ろしかった過去から感情を切り離しているせいだとわかるからこそ、トアは心を締めつけられる。ヴァルフィリスの手を握る手に、力を込めた。 「だが、この森で死にかけていた俺を、ジルコーは助けてくれた。俺を匿い、育ててくれた恩人だ。『苦しんでいる人間がいたら助けろ、そして生かせ。助けた命によって、きっとお前も生かされる』――俺は、ジルコーから、繰り返しそう教えられてきたんだよ」 「……そうか。だからヴァルは、『生贄』の子どもたちを助けてたんだね」 「ま、しくしく泣いてるうるさいがきの世話を焼くのは面倒なんでね」  しんみりしたトアの空気を吹き飛ばすように、ヴァルフィリスは皮肉っぽくそんなことを言う。だが、それが本心でないことくらい、トアはお見通しだ。  ジルコーの教えは、ヴァルフィリスに優しさを伝え、彼の心を支える”芯”となっていたに違いない。  今回の騒動を通して、ヴァルフィリスの存在は多くの人の知るところとなった。  純血吸血鬼たちが犯した罪の大きさを鑑みると、もっと人々から大きな反発が出るかと思われたが、幸いそうはならなかった。  かつて助けた生贄の子どもたちは皆、立派に成人している。中には大成している人物もいて、王都において大きな発言力を持っていたのだ。  『生贄』として抹殺されたはずの彼らは、ヴァルフィリスによって生かされた。彼らの証言は人々の心を打ち、そのおかげで、ヴァルフィリスは危険な存在ではないと広く知らしめることができた。  まさに、助けた命に生かされている。――ジルコーの教えの通りに。  ふと、トアの指にヴァルフィリスの指がするりと絡まり、硬く握りしめられた。 「ありがとう、トア」 「えっ……?」 「お前は俺にとっての大切な場所を守ってくれた。……ありがとうな」 「い、いや……そんな」    感謝の言葉をかけてもらえるとは思っても見なかったため、トアはしばし言葉を失ってしまった。あの時の浅はかな行動でヴァルフィリスに迷惑をかけたことを、ずっと気に病んでいたのだ。  だが、胸の奥でわだかまっていた罪悪感が、今、ようやく解けて消えてゆくような気がした。  ——ああ、本当によかった。ヴァルが死ななかったことも、こうして、また日常を取り戻せたことも……  目を閉じると涙が滲む。  涙に気づかれないように俯いて、ヴァルフィリスの言葉を身体中に刻み込むように、トアは何度も「うん」と呟いた。  ほっとして気が抜けてしまうと、なんだか急に甘えたいような気分が湧いてくる。トアはそっと、ヴァルフィリスに身体をもたせかけた。  力強く肩を抱く腕に包まれているうち、トクトクと胸が早鐘を打ち始める。 「……ヴァル、キスしたい」 「えっ?」  視線を上げ、ヴァルフィリスの顔を間近で見つめる。  いつもトアを快楽に酔わせ、狂わせる形のいい唇がすぐそこにあり、無意識に指で触れていた。  指先を押し返す心地よい弾力が、肌のそこここに触れたときの感触を思い出すだけで、腹の奥が熱くなる。 「だ……だめかな」 「あのな、トア。……あんまり煽らないでくれ。すぐそこの談話室には調査員がいるし、そのへんにオリオドや騎士団の連中もいるんだぞ」  片手で額を覆いながら、ヴァルフィリスが天井を仰いでいる。  そういえばそうだ。今日のこの屋敷には、ゆうに十人ほどの客人がいるのだった。  一瞬にして気まずくなったトアは、じりりと尻の位置をずらしてヴァルフィリスから距離を取る。 「そ、そうだった……ごめん。ヴァルのせいで、なんだか色惚けしちゃってるみたいだな……」 「ふん、俺のせいにするな」 「いやいや、どう考えてもヴァルのせいだし」 「お前の反応が良すぎるから、こっちも色々しつこくなるだけだ。そもそも俺は、こういうことにはまったく縁がなかったんだぞ」 「何言ってんだか。いくらでも美男美女を取って食えそうな顔してるくせに」 「そんなことするわけないだろ。……お前とするのが初めてだ」 「え!?」  その台詞が心底意外で、目玉が飛び出そうになった。 「え……? いや、まって。なにがどこまで初めてなわけ!?」 「ほとんど全部かな……。起きてる人間と、まともに口づけるのもお前が初めてだし」 「まともに? でも……僕と知り合うまでだって、”食事”はしてたんでしょ?」 「ああ、酒場で頑丈そうな男を眠らせてな」 「眠らせちゃうの? エッチなことをすれば、たらふく生気が奪えるんじゃ……」  トアが首を傾げると、ヴァルフィリスは少し遠い目をしてため息をついた。  聞けば昔、酒場で”食事”相手として眠らせた屈強な男に口づけた途端、相手が目を覚ましてしまったのだという。  その男は酒場で飲んでいる時からヴァルフィリスのことをいたく気に入っていたらしく、目を覚ますやいなや、盛大に興奮し始めた。  すると男が起きた途端、歴然と生気の量が豊富になり、味も芳醇なものへと変化したのだとか。 「……え、それ、大丈夫だったの?」 「まぁ、改めて眠らせるまでだ。変に顔を覚えられたり、騒ぎになっても困るからな」  ヴァルフィリスは『眠らせる』という言葉を口にするとき、手刀を落とすジェスチャーをして見せる。なるほど、物理的に眠らせているということかと、トアは内心、屈強な男たちを気の毒に思った。 「へぇ……そうだったのか。ていうか、はじめてなのにあんな……?」 「あんな? 何だよ」 「……いや、僕の口からはとても言えない」  あんなにセクシーでいやらしかったのに……と言いかけたが、恥ずかしいので引っ込めたトアである。  しかしヴァルフィリスは首を傾げて、「なんだよ、気になるだろ」と不服げだ。  出会った日からトアにあれだけ色っぽいことをしてきたヴァルフィリスだ。男女問わず経験豊富なのだと思っていたものだから、驚きを隠せない。  改めて涼しげな全身をしげしげと眺めまわしてみるも……やはり、モテ男にしか見えないのだが。 「それに、人間なら誰でもいいわけじゃないんだ。俺にも好みってもんがあるんだぞ?」 「えっ。僕のこと、好みだったの……?」 「ああ、そうだよ。匂いも、味も、容姿もな」 「ひぇ……」  なにやらすごく嬉しいことを言われてしまった。  さっきからずっとぶっきらぼうな口調だが、ヴァルフィリスが可愛いことばかり言うのでときめきが止まらないトアである。  ふつふつと込み上げてくるむずがゆさで、頬が緩んで仕方がなかった。 「そ、そんなに僕が好みだったなんて……うわ、すごい……溢れちゃいそうだ」 「へぇ、何が」 「生気だよ!」  生ぬるい返事に思わずつっこみを入れるものの、「ほんっとうに物好きだな、お前も」と微笑むヴァルフィリスの麗しさに、ついつい見惚れてしまうトアである。 「騒ぎになっても困るから、特定の人間と深い関係になるのは避けてたんだ。でもお前は、ここへやってきたときから様子が変だし、俺にお礼だの差し入れだの、わざわざ自分から関わろうとしてくるだろ? やっぱり頭がイカれているのかと思っていたんだが……」 「……あれっ、なんかまた悪口になってるんだけど」  トアが思い切り仏頂面をすると、ヴァルフィリスは楽しげに肩を揺すって笑った。そんなに変な顔をしていただろうか。  指先で眦を拭い、ヴァルフィリスはそっとトアの頭を撫でながら、こう言った。 「俺は長いあいだ独りでいた。孤独を孤独とも思わなかったし、静かな生活が送れるのならそれでいいと思っていた。……トアが現れるまでは」 「へ……」 「お前といると、ここがとてもあたたかいんだ。それがすごく心地良いんだよ」  自らの胸に手を当て、ヴァルフィリスは目を閉じて微笑んだ。    穏やかで、満ち足りた表情だ。  愛しいヴァルフィリスの幸せそうな微笑みに、トアの胸には純粋な喜びがあふれてゆく。  ――ああ、嬉しくて泣きそう……  目の奥が熱くなり、鼻がつんと痛くなる。  トアは涙を浮かべながらも満面の笑みを浮かべて、ヴァルフィリスに笑いかけた。 「僕もヴァルといると、毎日がすごく楽しいし、幸せだよ。だから嬉しい、そんなふうに思ってもらえて……う、うっ」 「トア? どうした、泣いてるのか?」 「な、泣いてる……けど、嬉しいから泣いてるんだよ! これからも、ヴァルとこうやって一緒に生きていけるのかと思うと……なんか、嬉しくて泣けてくる」  ぽろぽろと涙をこぼすトアを、ヴァルフィリスがふわりと抱き寄せる。  髪に頬擦りをされ、愛おしげに抱きしめられる幸せを噛み締めながらトアは目を閉じ、これまでのことを想った。  ずっと、愛する人に愛される世界に憧れていた。ぜったいに自分の手には入らない未来だと、求める前から諦めていた。  だけど今は隣にヴァルフィリスがいる。  トアを優しく包み込み、心から愛してくれる、大切な存在だ。    見つめ合ううち、自然と互いの唇が引き寄せ合う。    あとほんの数ミリまで近づいたそのとき。  アンルの上機嫌な「夕飯だぞ~!」という声が遠くからかすかに聞こえてきて、ふたりは同時に苦笑した。 「そうだ、今日は騎士団のひとたちも食べていくっていってたっけ。ヴァルも行こうよ」 「いやだね、どうせまた俺の食事データがどうとかってジロジロ観察されるだけだ」 「まぁまぁ、たまには賑やかにご飯食べようよ! ほら、立って立って!」 「……やれやれ」  食堂のほうからはすでに賑やかな声が聞こえていて、美味そうに焼けた肉の匂いや、じっくり煮込んだ具沢山のスープの香りが漂っている。  ぐいぐいと腕を引くと、ヴァルフィリスは思いのほかすんなりと立ち上がった。  なんだかんだと文句を言う割には、ヴァルフィリスの口元には穏やかな笑みが浮かんでいて、それがトアをまた嬉しくさせるのだ。  この先もずっと、この笑顔のすぐそばで生きてゆくことができる。  重なった手のぬくもりを愛おしく感じながら、トアは真紅の瞳を眩しく見上げるのだった。 『生贄に転生したけど、美形吸血鬼様は僕の血を吸いません。』 終 最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました!!

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