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エピローグ〈前〉

 春が近い。  森を白く覆い尽くしていた雪は溶け始め、庭のそこここから新緑が芽吹き始めている。    空高くから大地を照らす太陽を見上げて、トアは眩しげに目を細めた。頬を照らす日差しにぬくもりを感じながら、「はぁ、今日もいい天気だ」と笑顔を浮かべる。 「あの、すみません! この雪はどうしたらいいでしょうか?」 「ああ、森のほうに持ってってくれるー? できるだけ日当たりの悪いとこに貯めとくから!」 「はい!」  庭の真ん中のほうで、若い男とアンルがせっせと雪かきをしている。  若い男は、『混血吸血鬼の生態に関する調査』に訪れている聖騎士団の青年だ。一番下っ端ということで、アンルの手伝いに駆り出されているのである。  下っ端といっても、さすがは訓練された騎士だ。こめかみに汗を光らせながら、うずたかく雪が積み上げられた荷車をさくさくと運んでいて頼もしい。 「こら、トアもさぼらない!」 「さぼってないって、やってるって」 「うそつけ、ぜんぜん土が耕されてない!」  新しい野菜を植えるために畑を耕す手伝いをするようアンルに頼まれていたのだが、昨晩もヴァルフィリスの濃密な夜を過ごしていたため、密かに全身が重だるいトアである。  だが、ここ最近ますます肌や髪の艶は良くなり、こうして畑仕事に駆り出されるおかげで体つきもしっかりしてきた。    とはいえ、理想高いアンルの求める畑を作り上げるのは安易なことではない。トアは地面に突き立てた鍬に両手でたれかかり、ため息をついた。 「ああ~、腰が痛い」 「どーせまたヴァルとイチャイチャしてたんだろ」 「し、してない……! こともない、か」 「正直か!! ああ~もう! うらやましいなぁ!」  春が近づいても、まだお嫁さんが見つからないアンルは物憂げだ。  だが、最近はようやくヴァルフィリスも重い腰を上げて、アンルにも体術を教えるようになっている。強い雄の狼たちに勝ち、お嫁さんを見つけられる日も近いかもしれない。 「けどま、おれも安心したよ。最近のヴァル、よく笑うし、すごく丸くなった」 「うん、そうだね」 「おれがお嫁さん見つけて出て行っちゃったら、ヴァルはずーっとひとりだろ? いつまでひとりぼっちでいるつもりなのかなぁって、実は少し心配してたんだよね」 「えっ、アンル……! まさか、そのせいでお嫁さん探しに本腰入れられなくて、今も見つかってないとか……?」  思いがけないアンルの気遣いに感動して、トアは思わず両手で口元を覆った。  だがアンルはむぅっと唇を尖らせて、渋い顔をしている。 「そういうことにしときたいけどー、ただ単におれがモテなかっただけー」 「あ……そうなんだ。そっか、なんかごめん」 「あやまるなよ! 悲しくなるだろっ!」  怒っているようだが、耳や尻尾は悲しげに下を向いている。トアはよしよしとアンルの頭をなで、慰めた。 「ヴァルに鍛えられたら強くなるって! 大丈夫だよ、今年こそ絶対モテる!」 「そ、そうかな……? そうだよな!」 「そうだよ! さ、元気出して畑を耕そう!」 「おう!」  グッと拳を作って励ますと、アンルはすぐに元気になり、張り切って畑を耕し始めた。  素直で可愛いアンルにほっこりしていると、屋敷のほうから「おーい、トア! ちょっと来てくれ!」とオリオドから声がかかった。  歩調も軽く、開けっぱなしの玄関扉から屋敷の中へと小走りに駆け込んでいく。日の当たらない玄関ホールはとても涼しく、うっすらとかいていた汗がひんやり冷えて心地良い。 「あれ? どうしたんだよふたりとも」  二階へつづく螺旋階段に、ヴァルフィリスが座っていた。その隣には平服姿のオリオドがあぐらをかいて、くたびれたように項垂れている。  なぜかオリオドは青色吐息だ。震える手を差し伸べながら「トア……水をくれ……」と訴えてくる。 「あれ? また手合わせしてたの? 調査は?」 「あんまりにも根掘り葉掘り聞かれて疲れたから、オリオドでストレス発散してたんだよ」 「またか……」  このひと月あまり、ヴァルフィリスには聖騎士団と調査員がずっと張り付いているのだ。  調査員の面々は瓶底眼鏡をかけた熱心な老若男女の学者たちで、ヴァルフィリスが珍しくてたまらないらしい。来れば質問攻めが止まらない。  おとなしく調査に応じているヴァルフィリスだが、さすがにこうも長期間に及ぶとは思っていなかったらしく、すっかりくたびれてしまっているのだ。 「おい……オリオド、あれはいつまで続くんだ? お前、『なぁにすぐ済む』とか言ってたよな」 「俺だってすぐ済むと思っていたんだがな。よほどお前の生態が面白いらしい」 「ひとを面白がりやがって……」 「まぁまぁ、いいじゃないか。そうやって調査に素直に応じているから、お前の存在は皆に受け入れられつつあるんだからな」 「はぁ……」  心底疲れたようにため息をつくヴァルフィリスの肩をポンと叩き、オリオドはいたずらっぽい笑みとともに、トアにウインクを送ってきた。 「トアのためにも頑張るって言ってたじゃないか! なぁ、ヴァル!」 「えっ? 僕のため?」 「っ……この野郎! 余計なこと言うな!」 「わはははは」  頬を赤らめ、ヴァルフィリスはぷいと目を伏せる。……が、トアはしかと聞いてしまった。  冷えてきたと思っていた頬がふたたびかぁぁと熱くなる。嬉し恥ずかしさのあまり、言葉が出ない。 「僕のため……うわぁ」 「トアがここで平和に暮らせるように、自分の危険性は否定しておかないと……みたいなことを言ってたかな?」 「えええ? ほんとに?」 「だから、なんでわざわざ本人に言うんだ!」 「逆にどうして隠す必要がある。恥ずかしがり屋なのか?」 「うるさい」  ヴァルフィリスにジロリと睨まれ、オリオドは両手で降参のポーズを取りながら立ち上がった。  そして、謎の高笑いを残しつつ、キッチンの方へと歩いていく。水を飲みにでも行くのだろう。  ふたりきりになると、ヴァルフィリスはばつが悪そうな顔でうなじを掻いている。トアはにこにこしながら、となりにすとんと腰を下ろした。 「僕のためにありがとう。ヴァル」 「……」 「んで? 今日はどんな調査をされたの?」  この話を引っ張ってしまうのはトア自身も気恥ずかしいので、さくっと話題を変えることにした。 「”食事”方法について根掘り葉掘り聞かれたよ。だから詳細に話しておいた」 「えっ……しょ、詳細に? あれを!? ど、どのように……?」 「ありのままだよ。お前と毎晩どんなことをして、どんなふうに俺が”食事”をしているかってことだ」 「えええええ」  生真面目な顔でさらりととんでもないことを口にするものだから、トアの全身から汗が吹き出す。  恥ずかしさのあまり、「ま、まさあれを、包み隠さず話したって……!?」と、ヴァルフィリスを問い詰める声が震えてしまった。  ――ヴァルの危険性を否定するための調査とはいえ……あんなにも淫らな”食事”風景のことをありのままに……!?  ゆでだこのような顔で責め立てていると、こらえきれないといった調子でヴァルフィリスが噴き出した。  そしてひとしきり肩を震わせて笑ったあと、ぽかんとするトアを涙目で見つめてくる。 「冗談だよ。さすがに向こうも、こんなプライベートなことまでがっつり突っ込んでこなかったし」 「んなっ!?」 「はぁ……ははっ……悪かったよ。そんなに驚くとは思わなかったんだ」  拍子抜けするやら安堵するやらで、トアはむくれた。「ああ~もう腹立つなっ!」と喚いて、ヴァルフィリスの肩をべしっと叩く。   「それともうひとつは調査報告だな。あのジャミルって男が、具体的にどんな計画を練っていたのかが分かったらしくて」 「え……具体的な計画って?」  ジャミルの顔を思い出すだけで、今でもぞっとしてしまう。口調を硬くするトアの肩を、ヴァルフィリスにそっと抱き寄せられた。 「御者を痛めつけたものの、この屋敷の正確な位置は分からなかったらしい。ここが見つからなかったときは、森に火を放つつもりだったんだそうだ」 「え……? 嘘だろ」 「森が消えれば見晴らしがよくなって、この屋敷が見つかるとでも思ったんだろ。……まったく、救いようのない馬鹿だな」  あの男ならやりかねない。  『悪魔』からトアを救い出すというもっともらしい目的を掲げて人を集めていたようだが、それはただの詭弁だ。  本当は、トアを連れ戻して『助けてやっただろ』と恩を売り、自分の性欲を満たそうとしていただけ。そして、田舎で燻っている若者たちと共に暴れる理由が欲しかっただけ――それがジャミルの本音だったのだから。  あの時のことを思い出して小さく震えるトアの拳に、ヴァルフィリスの手のひらが重なった。顔を上げると、軽く唇が触れる。 「この森も、屋敷も、焼かれることにならなくて本当に良かった。お前が行動を起こしたおかげだな」 「……そうなのかな」  ヴァルフィリスは微笑み、広々とした屋敷を見渡した。

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