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【過去編】始まりの前-3-A-
『秘密基地』で不思議な人に勉強を教えてもらうようになってから数か月。
アルノシトの学校の成績はお世辞にもいいとは言えなかったのだが、オストグ のおかげで見る見る成績上位者に名を連ねるようになった。
祖父母も喜んでくれるし、クラスの友人達にも褒められて悪い気はしない。
ただ────自分の努力、というよりは、オストグのおかげだということを黙っていることに気持ちが少し落ち込んでしまう。
自分のことは口外しないで欲しい。
そう言われているから、祖父母にすら告げてはいないのだが、何となく後ろめたい。
「……どうした?わかりづらかったか?」
問いかけられて顔を上げる。違う、と首を左右に振った。
「ううん。そうじゃなくて……あのね」
自分の学校での評判のこと。周りの評価のこと。喜んでくれることは嬉しくもあるが、それがオストグのおかげだと告げられないもどかしさのこと。
順序だててわかりやすく、とは程遠い説明だったろうが、オストグは最後まで黙って話を聞いてくれた。
「────君は優しい子だな」
自分の手柄だと誇ることもできるだろうに。それをせずに悩む純真さが眩しくて眼を細めた。
「君の気遣いは嬉しいが……私がどう教えようと、身につくかつかないかは君にかかっている。私の言ったことを理解して、生かせているなら、それは君の力だよ」
だから気にせず誇っていい。
そう伝えたのだが、アルノシトは納得しない。
「だって。俺は勉強嫌いだったんだよ。学校なんて早く卒業して、おじいちゃんの雑貨店の手伝いをしたいってずっと思ってた」
軽く頬を膨らませる。
「それが、今は勉強も面白いって思うし、もっといろんなことを知りたいって思ってる。オストグさんのおかげだよ?」
うんうん、と難しい顔で頷いた後、じっとオストグを見上げた。
「だから、オストグさんはもっと自信もって。俺のおかげでアルノシトは勉強が好きになったんだって言えば、きっと家庭教師とか、学校の先生とかにもなれるし……後、なんだろう。とにかく、もっと周りの人から褒められると思う」
思わず吹き出してしまう。急に笑われたことに、きょとんとしているアルノシトの肩を軽くたたいた。
「いや…すまない。アルノシトには、私がそんなに自信なさげに見えるのか?」
問い返されて数度眼を瞬かせる。うーんと少し考えた後、難しそうな顔をする。
「……自信がない、とは違うのかな。でも……」
迷っているように見える。
やや間をおいてから紡がれた言葉。今度はオストグが眼を丸くした。
「…………、そ、うか。そうだな」
大きく息を吐き出した後、表情を改める。今までにない真剣な表情にアルノシトも居住まいをただした。
「これから話すことはとても大事な話だ。……答えられなければそれでもいい。だから聞いて欲しい」
「……うん……じゃなくて、わかりました」
真剣な雰囲気に気圧されたのか、言い直される言葉遣い。もう一度息を吐いた後、口を開く。
「君は……先日起きた、路面電車の事故を知っているだろうか?」
路面電車の事故。
アルノシトの目が見開かれる。小さく震えた後、ゆっくりと頷いた。
「あの事故を────どう、思っている?」
酷な質問かも知れない。
直接に聞いた訳ではないが、アルノシトの会話には父と母のことは出てこない。常に祖父母の話ばかりだ。
もしかしたら、と脳裏によぎらなかった訳ではない。もちろん、全く関係のない理由で、何か特殊な事情で祖父母の家に預けられているのかも知れない。
だが────もしかしたら。彼の両親は────
「…………よくわからない」
長い沈黙の後、静かに答えが返ってくる。
「俺の……父さんと母さんはあの電車に乗っていて……それで、じいちゃんとばあちゃんが凄く泣いてて」
だから多分、いい思い出ではない。
「────でもね。……父さんや母さんのことより……あの時、ニュースも新聞もずっと一人の人をいじめてて。それがとても嫌だなって思ってた」
自分にもどこかの新聞だかテレビ番組だかのインタビューが来たことがある。珍しく祖父母が強い口調と言葉を投げていた。
そんな二人を意に介することもなく、自分にマイクを向けた記者が放った一言。
────あの事故でご両親を亡くされたそうですが、今のお気持ちを正直に答えてください。
確かそんな質問だったと思う。祖父が怒りのあまり言葉をなくして拳を震わせていたのは覚えている。
殴りかかろうとしたのを祖母が必死にとめていて、自分も思わず「おじいちゃん、やめて」と言った……ような気がするが、そこは少し曖昧だ。
「────だから。正直に言ったんだよ。父さんや母さんのことはよくわからないけど。皆でよってたかって一人の人をいじめているのは可哀想だなって思うって」
でも。
「俺の言ったことはどこにも取り上げられなくて。相変わらず、テレビや新聞では一人の人をいじめていて」
あはは、と困ったように笑う。
「ごめんなさい。なんか……うまく言えないけど。────あの人が、今はいじめられていないといいな、って──」
言葉が途切れたのは、強く抱きしめられたから。息が詰まる程の強さで抱きしめられて動きが止まる。
「オストグ、さん?」
答えはない。ただただ強く抱きしめられて、どうすればいいのか分からなくなる。
顔も見えない。声も聞こえない。でも、抱きしめる腕が震えている。声をかけるのも憚られて、おずおずと背中に腕を回すと、ゆっくりと撫でた。
「────すまない。もう少しだけ」
絞り出した声が震えている。泣いているのかと思ったが、確認はせず、ただそっと背中を撫で続けた。
どれくらいそうしていたか。ようやく腕が緩んだが、顔を隠すように肩に額を押し付けられる。まだ辛いのかな、と今度はそっと抱き締める。
「………ありがとう。もう、大丈夫だ」
静かに身体を離した。顔を見上げると目が赤いし、少し潤んでもいる。
やっぱり泣いていたのだろう。でもどうして。
浮かんだ疑問に答えることなく、オストグは立ち上がった。
「────アルノシト」
「?」
真剣な響き。だが、質問を投げられた時とは違い、どこか晴れ晴れとしたものも感じる。
「────君のおかげで、私は針の山でも笑顔で登れそうだ」
自分と母親。そして直接働いていた者達。父親のことを非難しないのは、そうやって直接かかわったことがある人間の中でもごく一部の者だけなのかと思っていた。
だが──ここに居たのだ。ただ「可哀想だ」と。打ちのめされる父の姿に心を痛めてくれた人が。
そうか。自分が欲しかったのは、ただ────
「……?」
困惑している気配を悟ったのだろう。オストグは振り返ると、今まで見たことがないような穏やかな笑みを浮かべた。
「────本当に有難う。君の人生がこの先…穏やかであるように。そう祈っているよ」
静かに額へと口づけた後、オストグは部屋を出て行った。残されたアルノシトはただぼんやりと扉を見つめる。
どれくらいそうしていたか。差し込む日の色が赤になってから、ようやく立ち上がる。
「……帰ろう」
どれだけ考えてもわからない。でも──なんとなく。オストグはもうここへ来ないのではないかと思った。
それはきっと、自分のことを嫌いになったとか、何か嫌なことがあったとか。そういう理由ではなくて。
オストグにとっては、とても良いことが起きたからだと。不思議なことにそう思えて寂しさはあまりなかった。
「……今日はローストポークだって言ってたっけ」
現金なもので、祖母の得意料理を思い出すと腹の虫が鳴る。荷物をまとめた後、部屋を出る直前にもう一度中を見つめてから扉を閉めた。
◇◇◇◇◇
あの後。予想通り、オストグが訪れることはなくなった。
置かれていたメモには今後忙しくなること。直接会うことは難しくなるが、あの部屋は自由に使っても構わないこと。
他にも何か書かれていたが、オストグがいない部屋に行く気になれず、知らぬ間に足が遠のいてしまっていた。
そうして、気づけば、お化け屋敷は解体され、新しいビルが建ち。あの場所で何があったのか。なんて思い出すこともなくなって、アルノシトも大きくなった。
────祖母も他界し、犬のジークも代替わりした。祖父の頭にも白いものが増えたが、小さな雑貨店の店構えは変わっていない。
そんな祖父を手伝う日々の中。本人も忘れていた縁が繋がるのはもう少し後のことである。
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