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【過去編】始まりの前-2-A-
不思議な人──オストグと出会ってから二日後。また秘密の場所を訪れたアルノシトは目を丸くしていた。
外観は以前とは変わっていなかったのだが、勉強に使っていたリビングだけは綺麗に掃除され、新しいソファとテーブルが置かれていた。
新しいテーブルの上にメモが一枚。
────ここでべんきょうをがんばるといい。何かあればかいておいて。
綺麗で読みやすい文字。難しい言葉を使わず、子供の自分でも読みやすい文章。名前はなかったが、オストグと名乗ったあの人のものだろう。真新しい紙の束とペンとインク。
一度しか逢っていない。しかも不法侵入していた子供相手に対するにはどれもきちんとしたもので、几帳面というか、誠実な人なのだと思える。
宿題をすることも忘れてメモを読み返した後、鞄から筆記用具を取り出して返事を書き連ねる。
────ごはいりょ、ありがとうございます。べん強がんばります。この前、おしえてもらったところは、先生にもほめられました。
確か祖父が取引先に対してこんな感じのことを書いていたはずだ。
子供なりの背伸びをした文章。並べると文字の拙さが目立つが、読めないということもないだろう。
先に置かれていたメモの横へ並べた後、宿題に取り掛かった。
◇◇◇◇◇
アルノシトと出会った謎の人物──オストグと名乗った人物。
あの時名乗ったのは偽名。とっさにお化け を並び替えた名を名乗ったが、子供らしい純真さで深く追及をされなかったことに安堵していた。
本名はルートヴィヒ=ベーレンドルフ。ベーレンドルフ財閥の十四代目総帥となったばかりの人物である。
15という年齢は、大人であるとも子供であるともいえる微妙な年齢だが、彼の場合は「大人」としての振る舞いを求められた。
それも、並の「振る舞い」ではない。
────連日新聞やニュースを騒がせている「路面電車爆発事故」
迅速に、かつ最善の手を打つように。対応が遅れれば、その分ベーレンドルフという名の信頼も落ちていくことになる。
十三代続いた財閥を自分の代で終わらせることにならぬように。十四代目としての責務を果たせ。
そういって責め立てる周囲の大人達は一体何をしたのだろうか。事故現場でがれきの一つでも拾ったのだろうか。原因の究明のために、内燃機関の構造の見直しを、再発防止のための整備の手順等の改善他、何か一つでも現場の人間に指示を出したのだろうか。
何もせず、ただ自分や両親を責めているだけで「責任」を果たすことになるのであれば、どれだけ楽な生き方なんだろう。
喉まで出かけた言葉を飲み込むことが精一杯。押し殺した声で「わかりました」と頭を下げた後、同じ空気を吸うのも嫌で部屋を飛び出した。
連日のニュースや新聞、人々の口さがない悪意に晒され、元々病弱だった父は失意のうちにこの世を去った。
最期の瞬間まで自分の手を握り、不甲斐ない父親であることを詫びながら。
父のことを不甲斐ないなどと思ったことは一度もなかった。とても優しく強い人だった。
自分にも母にも。屋敷で働いている使用人たちも含めて、その日の気分や気まぐれで怒鳴ったり、困らせたりするようなことは一度もなかった。唯一、母に対してのあまりの対応に声を荒げたことがあるくらいだ。
母もそうだ。生まれつき体の弱かった父へと献身的に尽くした母がいたからこそ、父はこの年まで生きることが出来たと常々言っていた。
それを身分がどうとか、くだらないことで責め立てた周囲の人間を敬うことなど、自分には一生出来そうもない。
気丈な母は自分や父親の前では常に優しく、笑顔の人だった。周囲の悪意にも嫌悪感を見せることはなく、ただ父と自分のことだけを気遣ってくれていた。
連日の悪意に晒され、見る見るやせ細っていく父を見る母の顔。自分が覚えている限り、あんなに辛そうで悲しそうな顔をした母は後にも先にも見た記憶がない。
今後も見ることは出来ないだろう。
父が亡くなってから2ヶ月後。書置きだけを残して姿を消したのだ。
父が母へと贈った宝石もドレスもすべて置いたまま。高価な物には何一つ手を付けることはなく、ただ一つ持って行ったのは、父が母のために依頼して作って貰ったというレースのハンカチ一枚。
小さな文字で「自分勝手な母親でごめんなさい」と書かれていたことは周りには伏せてある。これ以上、あの人の愛情をくだらない連中に汚されたくなかった。
両親を取り巻く悪意も何もかも。分かっていても自分ではどうすることも出来なかった様々な事象すべて。
それこそ、己の身すら嫌悪感でつぶしてしまいたくなるほどのどす黒いものが沸きあがってくる。
だが、自分で自分をつぶしてしまう訳にはいかない。ここで自分が逃げ出せば、あの無能な連中が好き勝手やるだけだ。
財閥の存続等、心底どうでもよかったが、屋敷で働いてくれている者達を始め、事故現場での原因究明のために石を投げられて、罵声を浴びても瓦礫をかき分け、部品を回収して研究を続けてくれている者達。
────大丈夫ですよ、坊ちゃん。旦那様の汚名は、俺たちが雪いでみせますから。
そういって笑う彼らに報いたい。そして父の名を悪意と失意から救いたい。
それだけを支えにして来た。
父の喪が明けた後、積極的に取材にも応じた。理不尽な質問にも冷静に。隙を見せぬよう入念に準備を繰り返し、わずかな綻びも見せぬように。
内燃機関の問題点、整備不良が起きた原因。それらすべてを包み隠さず公開することで事故の再発防止に尽くしていることを内外に知らしめた。
ベーレンドルフの名に連なる者達への差別や偏見。彼らを謂れのない悪意から守るためだけに全力を尽くしてきた。
だが、自分が努力すればするほどに、父の汚名を雪ぐことが出来なくなる。
父と違ってルートヴィヒは優秀だ──そんな言葉を聞くたびに耳を塞ぎたくなる。かつて父を打ちのめした報道陣は、ルートヴィヒの賞賛のために更に父を貶めていく。
一体自分は何のために努力しているのか。そうじゃないと言いたくて、努力すればするほどに己の願いとはすれ違っていく結果に正直なところ限界がきていた。
いっそこのままどこかに消えてしまおうか。ベーレンドルフの名など捨てて、母を探し出して二人でどこかひっそりと父を弔いながら暮らしたい。
なんて馬鹿げた夢物語だと分かっていても、屋敷に居ることが辛くなって抜け出してしまったのだ。
ボディーガードである幼馴染にも行き先は告げず、父が母と暮らそうと買い求めた屋敷へと向かった。
結局、屋敷は最低限の手入れのみで改装工事をされることもなくなったのだが、この場所を知っているのはごく一部の者だけで、仮に探しに来るとしても、気のおけない者達だけだ。
この場所なら一人になれる。そう思って忍び込んだ先で見知らぬ少年────アルノシトと出会った。
誰もいないと思っていた場所での予想外の出会い。立ち去ろうと思ったが、あまりの屈託のなさがまぶしく見えてそのまま会話を続けた。
何の疑いもなく隣へと座られたことには面食らったが、多分、「普通」というのはこういうものなのだろう。
単純な数式を解いただけで眼を輝かせて質問を投げてくる子供らしい所作にどろどろとしたものが幾分和らいだのは事実。
本来ならば不法侵入の咎を問うべきなのだろうが、この少年との会話をもう少し楽しみたい。
そう思って、来週も来ると言ってしまった。とはいえ、放置されていた屋敷の中は埃っぽいだけではなく安全面でも問題があるだろう。
仮に自分がいない間に事故が起きては───と、祖父の代からの付き合いである執事に相談して、リビングだけでも整えてもらったのだ。
今度からこの日だけはこの場所で息抜きをする。
と、居場所を伝えることにはなったが、よほどの用事でなければ来ないように、とも伝えておいたから、横やりが入ることも早々ないだろう。
そうして「ささやかな息抜き」のため、週に一度行方不明になる生活が始まったのだ。
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