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4 ビッチ天音デビューします

 ワックスの使い方も敦司にしっかり教わって、俺は月曜日、ドキドキしながら出勤した。 「お? ずいぶんと垢抜けたな、星川」  上司や先輩が笑顔で俺を褒めてくれた。 「もうちょっと明るくてもいいんじゃないか?」 「え、これ以上染めてもいいんですか?」 「もう少しくらい大丈夫だろ。営業じゃないしな」  そっか。営業じゃないからゆるいんだ。それなら次はもうちょっと明るくしよう。そうすればもっとビッチに近づける。 「やだ星川くん! さらに可愛くなってるー!」  先輩女性陣が集まってきて、俺の頭をいじってきた。 「え……っと、可愛い……?」  初めて可愛いなんて言われた。  俺って可愛い系だったの?  それって……冬磨の好みとは違うんじゃないかな。急に不安になった。  敦司にもらったディルドで念入りに後ろを広げる日々。  髪色を変えてしまったから、バーにはしばらく行っていない。  早く冬磨に会いたくて死にそうだった。  ビッチ天音のデビューをしたところで、すぐにアクションは起こせないかもしれない。たとえ起こしたとしても、急がずゆっくり俺を知ってもらおうと思ってる。  もうこれ以上会えないのは我慢できない。  明日……明日バーに行こう。  俺はそう決意して、眠れない夜をすごした。           ◇    ドキドキしながらバーの扉を開く。  金曜の夜は高確率で冬磨に会える。でも、金曜はだめだ。セフレとの待ち合わせが多い。だから他の曜日で会えるのを待つ。  ビッチ天音になりきると、まずその外見だけで声をかけられる回数が増えた。単純に、すごいな、と感動した。  まさか用意した台詞を本当に使うとは思わなかった。 「俺、いま相手に困ってねぇから」  声をかけられるたびにそう返して適当にあしらった。 「ずいぶん雰囲気変わったね?」  冬磨を待ち続けて三日目、マスターに突然声をかけられギクリとした。  まずい。気づかれた?   でも、ここで白状するわけにはいかない。俺は必死でビッチ天音になりきる。 「ん? なんのこと?」 「いつもスーツで来てた黒髪の子でしょ?」 「スーツ? 俺スーツでここに来たことねぇよ?」  俺は目上の人にタメ口をきくのは苦手だ。ビッチ天音を演じていなければありえないことだった。 「え? あれ? 人違い?」  マスターは首をかしげ、まるで俺を観察するようにジロジロと見てくる。  演劇ではハプニングはザラだ。舞台の上で誰かがミスをしても、俺はいつでも冷静に対処できた。それと同じだと思えばいい。大丈夫だ。  ビッチ天音は、口調も、笑い方も、癖も、すべて別人に作り上げた。マスターとは特別親しく話したこともない。バレるはずがない。 「誰と間違ってんの? 俺、ここに来てからまだ三日目だけど」 「あれー? そっか、ごめんごめん。たしかに同じ子だったら豹変しすぎだわ」 「豹変、ウケる」  ケラケラと笑いながら冷や汗が出た。  やっぱり舞台と現実は違うと思い知らされる。 「三日も連続で来てくれて嬉しいよ。でも、相手探しじゃなさそうだね?」  ここでも用意してた台詞が役に立つ。 「なんかすげぇ美形がいるらしいじゃん? んで、絶対相手にしてもらえないって。どんな奴か気になってさ」 「ああ、冬磨目当てか」  マスターが苦笑する。 「へぇ。『すげぇ美形』だけで通じるんだ。目当てっつーかさ。その冬磨? って、どんだけの奴なの? ほんとに見ただけでわかるくらい美形? なんかすげぇ噂が大袈裟でさ。だから顔見に来てみた」  ビッチ天音を演じるのがちょっとだけ楽しくなって、調子乗ってしゃべりすぎた。 「たぶん想像以上だと思うよ? きっと君も冬磨に落ちるね」 「ははっ。すっげ。さらにハードル上げてきた」  マスターに感謝した。冬磨の前で急にビッチ天音を演じるのは不安だったから。予行練習にはちょうどいい。 「なに、なんか俺の話ししてる?」 「お、噂をすればなんとやら」  後ろから聞こえてきた冬磨の声に心臓が飛び上がった。  すぐそこにいる。俺の後ろに。まさか俺からアクションを起こす前に話しかけられるのは想定してなかった。やばい。  慌てて自分に言い聞かす。俺はビッチ天音。ビッチ天音……。  俺はゆっくりと後ろを振り返った。  そこには、今日もスーツがビシッと決まった冬磨がいた。  こんなに近くで、それも目を合わすなんて、初めて会った吹雪の日以来だ……。  感情が爆発しそうになって、慌てて必死に無表情を装う。  冬磨は俺を見て、探り探りというように話しかけてきた。 「えっと、初めまして、かな?」  心臓の音が耳鳴りのように響く。  でも、表情には出さない。瞳にも出さない。目を見られても絶対にバレないようにする。 「へぇ? 案外大袈裟ってわけでもねぇかな」 「ん? 大袈裟?」 「あ、どうも初めまして。俺、天音」 「あ、どうも。俺は――――」 「知ってる。冬磨だろ? いまマスターに聞いた」  なんとか平静を装って顔を正面に戻し、グラスに口を付けた。  冬磨を見ても冷静に。興味もなさそうに。顔は見られたし満足した、そういう演技。  そんな俺の態度にマスターが意外そうな顔をする。 「あれ? なんか新鮮な反応」 「え、どういう意味?」  不思議そうに俺が聞き返すと、二人は笑った。 「たしかに新鮮」 「だから何がだよ」  クスクス笑いながら「隣いい?」と椅子を指さす冬磨に、俺は内心舞い上がりながらも「勝手にどうぞ?」と興味もなさそうに答えた。    

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