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第39話
「ルイ」
懐かしい声が、かつてのリュミエルの名前を呼んだ
リュミエルはその声に応えるように、目を開ける
そこにいるのは、魔界にはいるはずのない存在
それによりリュミエルは、これは夢なのだと理解した
「レイア」
リュミエルは夢の中とわかれば、何気なく目の前の相手の名前を呼んだ
夢だからだろう
声は以前のように、変わらず喉から音が出た
リュミエルの腹違いの弟
全てを捨ててまで、リュミエルを救った男。
そんな彼は、兄の頭をふわりと撫でる
夢の中なのに、妙にくすぐったさを感じて、リュミエルは笑みをこぼした
暖かい手に撫でられて、リュミエルは不思議と、彼は今も生きていると安堵した
レイアの最後の記憶は、ミカエルの業火の剣に、腹を裂かれる姿だった
リュミエルを庇って負った傷は、決して浅くはないだろう
とはいえ、天使の回復力は凄い
あの一撃だけでは、死に至らない
だが、リュミエルを逃したレイアをミカエルが許すはずもなく、今までは生死が不明だった
もちろん心配もしたが、リュミエルは長い間ミカエルに支えていたためなんとなくわかる
ミカエルはレイアを殺すことはないだろうと
「そのうち、俺もそっちに行く」
「…大丈夫?」
「自分の心配をしろ」
レイアは一瞬怪訝な表情を見せるが、隠すように俯いてしまう
そして、リュミエルを心配するような言い振りで、頭を撫でていた手を、そっと肩に置いた
ベルフェゴールの言っていた、ミカエルが軍を引き連れて魔界に降りると言った予言
あの話は確かに実現するだろう
そしてミカエルと共に、レイアも降りてくるはずだ
「覚悟決めとけよ」
そう言ったレイアの表情は酷く寂しそうで、苦しげだ
リュミエルはその言葉に答えることができなかった
何か言おうとする前に、レイアの体は霧のように消えていく
目の前にはただ、白い空間が広がった
——————————————————
「リュミエル」
また別の声がして、リュミエルはゆっくり瞼を上げる
目の前には逞しい胸筋が視界いっぱいに広がって、何度も経験しているがやはり慣れないものだ
「よく寝たか?」
「…ん」
リュミエルが目を覚ましたことに気づいて、ネルガルは優しく目尻を撫でた
触れたネルガルの指先は湿っていて、自分が涙を流していたことに気づく
ネルガルはそんなリュミエルを心配して、たまらず起こしてしまったのだろう
リュミエルは大丈夫、の意味をこめて、彼のおでこに触れるだけのキスをする
ネルガルは一瞬目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ
「さて、起きるか」
「ん…うっ!」
ネルガルが起きるようなので、リュミエルも続いて起き上がるが、体の節々に痛みを感じて小さく呻いた
そうして前夜の事を思い出す
いつもより長く続いた行為は、リュミエルの体が耐えるには些か激しすぎたようだ
思い出してカッと顔を赤くするリュミエルを見て、ネルガルは意地悪く笑いながら言った
「無理するな。お前はまだゆっくりしていけ」
リュミエルをベッドに押し込むと、ネルガルは着替えを済ませて部屋を出ていく
追いかけようにも体は怠く、リュミエルは大人しくベッドに横になり、先ほどの夢の内容を考える
レイアの言葉の通り、ミカエルが魔界に降りることは確定している
ただそれがいつなのか、何をすれば良いのかわからなかった
以前ベルが言ったように、魔界は今全体的に疲弊しきっている
ネルガルが起こした戦争以前にも、悪魔たちの小競り合いはあるため、絶えず負傷者は増えており、グリフやアスモデウスも忙しそうだ
加えてのルシファーが万全じゃない今、魔界の統率はままならない
こんな状態では、当然天使たちと張り合えるわけがないから、ベルは焦っているのだろう
ネルガルもここ最近は早く起きてどこかに行くことが多いので、少なからず影響があるのだろうか
リュミエルは1人になった部屋で、完全に目が覚めてしまった
普段なら時間になれば、使いの人が着替えを持ってきてくれるのだが、リュミエルは退屈だったため、寝着のまま部屋の外に出た
リュミエルは部屋の扉を開いて外の様子を見る
今日はロスはいないなようだ
彼も来たり来なかったり神出鬼没のため、こういう日もあるだろうと気にはしなかった
リュミエルたちの寝室あたりは人通りが少ないが、中央階段あたりには使用人の行き来も多い
階段付近まで行くと、通りがかった使用人の1人がリュミエルに気づき、慌てた様子で近づいてきた
「リュミエル様、もう起きたのですか?」
『ネルガル』
「ネルガル様なら、先ほど城を出発いたしました。とりあえず、お召し物を変えましょうか」
1人が気づくと周りもリュミエルの存在に気づき、わらわらと集まってきた
ここに来た当初は使用人でさえリュミエルを喰らおうとしていたが、それもすっかりなくなった
ネルガルが言うには、リュミエルはすでにネルガルの保護下にあり、ベルとアスモデウス、さらにはルシファーの権限により守られている状態にある
そんな中、リュミエルに手を出せば命なんてないに等しいため、わざわざ危険を冒すものはいないのだ
だが使用人に関しては、リュミエルと接する中で信頼を得たということも影響しているだろう
リュミエルの着替えを持って集まってきた使用人たちは、素早い手つきでリュミエルを着替えさせると、今度は食堂へと連れて行く
ネルガルがいない朝食は初めてじゃないが、ほとんどを共にするため広い部屋では、やはり何か物足りない
ナイフとフォークで不器用にだが行儀良く食事を進めるが、いつもより食欲がわかず、少し残してしまった
使用人たちはそんなリュミエルに気を使い、散歩に行こうと誘った
ロスやグリフがいれば、飛ぶ練習ができるのだが、あいにく2人とも不在だった
仕方なくリュミエルは使用人に囲まれながら広い庭を歩く
魔界には季節、というものがあるらしく、今は特に寒い時期に近づいていて、草花は枯れて生き物も少ない
見応えのない殺風景な庭の姿を見て、これほどつまらない散歩は初めてだと、リュミエルは肩を落とした
『あきた』
「左様ですか。では、お部屋に戻りましょうか」
まるで子供を囲うように見守っていた使用人に、リュミエルはそう書いて見せると、彼女は困ったように笑いながらも、寝室まで戻ろうと手を取った
リュミエルはその手に素直に応じて歩き出すが、あまりいい気はしなかった
この使用人たちはリュミエルを抱き上げたりしない
おそらくネルガルに何か言われているのだろうが、リュミエルはそれが不服だった
背の高いネルガルがいなければ、背中に背負う彼の翼は、大きすぎて羽先を引きずるように歩くしかなくなる
別に痛くもないが、彼から貰った翼を汚してまで歩きたいとは思えなかった
暗い気持ちのまま部屋に戻ったリュミエルに、使用人たちは気を利かせて本などを読み聞かせてくれたが、やはり気分は浮かばなかった
その後の昼食も、夕食も、1人で食べた
こんなことは初めてで、広い食堂に1人座って食べる食事はまるで味がしない
こんなこと、天界では当たり前のように過ごしていたのに、今はそれが酷く耐えがたい
リュミエルは魔界に落ちてから、随分と甘やかされていたのだと知った
その日は結局、ネルガルは帰ってこなかった
夜更かしは許さないと言うように、使用人たちにベッドに押し込まれ、仕方なく目を瞑る
だがやはり、リュミエルは熟睡できず朝を迎えた
次の日も、また次の日も、ネルガルは帰ってこない日々が続いた
正確には、リュミエルが寝静まった頃に帰ってきて、リュミエルの目が覚める前に出かけてしまうのだ
そのためリュミエルはしばらくネルガルの顔を見ていない
ときおりグリフやロスが顔を出してくれるため退屈はしないが、リュミエルはどこか寂しさを感じていた
「リュミちゃんごめんねぇ。ネルガル様は忙しいみたいでさ…」
グリフは申し訳なさそうに言うが、そういうグリフも忙しそうにしているので、嘘ではないだろう
明日は週に一度の、光を浴びに行く日。
通常ならネルガルがルシファーの城まで連れて行ってくれるはずだが、明日こそ彼に会えるのだろうか
リュミエルは少しの期待を胸に、その日は眠りについた
頭の遠くで、誰かの気配を感じた
それは静かに、リュミエルの横に寝そべる
リュミエルは重い瞼を薄らと開ける
暗がりの中、気配はリュミエルをじっと見ている気がしたが、なんせリュミエルは寝ぼけていて、それが誰なのかまだ理解していない
手探りで気配に手を伸ばすと、指先にこつんと硬いものがあった
探るようにそれを優しく握る
先に向かって細く尖るそれは、触り心地に覚えがあった
それに沿ってリュミエルは下へ手をずらす
そうすればさらさらの髪の毛が当たって、さらに下に手を沿わせると、よく知る誰かの顔に触れることが出来た
それはよく触り覚えのある、造形だった
やはり、彼が帰ってきたのだ
理解すると同時に、リュミエルは酷く安心する
やっと彼が帰ってきてくれて、明日こそは一緒に光の庭園に行けるのだろうと、嬉しく思った
まだ寝ぼけた頭で、何も考えずにその胸元に擦り寄ると、彼も応えるようにリュミエルの体を、両腕で包んだ
「起こ…まった…?」
夢の狭間で、ぼやぼやとそんな事を聞いた気がするが、リュミエルの瞼は重く閉じたままだった
暖かい体温に、縋るように寄り添って、ただ幸福を感じた
大丈夫、明日はもう寂しくないはず。
そんな安心感が、リュミエルの思考を泥沼へと沈めていった
翌朝
リュミエルは目覚めても、体にのしかかる重さを感じることができなかった
意識を手放す前に感じたはずのぬくもりは綺麗さっぱりなくなっており、隣には誰かがいたであろう痕跡だけが残っていた
リュミエルは今日こそはという気持ちで目覚めたというのに、そんな希望すらあっけなく散ってしまった
虚無感に襲われたままぼーっとしていると、コンコンとノック音と共に使用人たちが入ってきて、リュミエルの身支度をする
どうやら、光の庭園には行くつもりらしいが、リュミエルの気は進まなかった
「失礼、リュミちゃんまだ?」
「グリフォン様…それが…」
身支度が終わる頃、グリフが部屋まで尋ねて来たが、使用人は言いづらそうに目線を泳がせた
グリフもつられて視線の先を見やると、そこには確かにリュミエルの姿があった
だがいつもの様子とは少し違う
いつも活気のある目は伏せられ、可愛らしい顔が見えないくらい項垂れたリュミエルの姿は、普段とはかけ離れた姿だ
なぜそうなってしまったのかグリフたちもなんとなくわかっているからこそ、その健気さが愛おしく思えた
「リュミちゃんどうしたの?」
「………」
グリフが声をかけるが、変わらずムスっとした表情のまま、乱雑に手帳に文字を書いて見せた
『行かない』
「ええ!?どうして?」
驚いたグリフは慌てて聞くが、リュミエルはそれ以上書くことはせず、乱暴に手帳をグリフに押し付けた
困惑するグリフをよそに、リュミエルは着替えた服が乱れることも厭わずベッドに潜り込んでしまった
せっかく準備したのに、と肩を落とす使用人を横目に、グリフはベッドに駆け寄った
「リュミちゃん、出ておいで?…どうしようかな…」
何度声をかけても反応のないリュミエルに、グリフは肩をすくめる
グリフは自覚こそないが、リュミエルを弱愛している
そのため無理やり引き摺り出すなどと可哀想でできず、だが連れて行かなければならない
どうしても諦めることのできないグリフは、無理にシーツを剥ぐことはせず、押し付けられた手帳を、シーツの隙間に差し入れた
すると、ゴソゴソとシーツの膨らみが動いた後、再び手帳が出てきた
そこには荒々しい文字が書かれていた
『ネルガル』
「ネルガル様も向こうにいるよ。忙しいから先に行ったんだ」
それを聞いたリュミエルは、もぞもぞとシーツから顔を出す
もちろんその表情の不満気は変わらない
そう言うことではない、と言いたげな表情だった
「そうだよね、寂しいよね」
「……」
グリフはリュミエルの気持ちを汲み取ったのか、怒ることもせずに優しく言った
「あの人はいつも自分勝手なんだ。俺もよく振り回されるよ」
まるで苦言をコソコソと漏らすように、言うと、それを聞いていた使用人の何人かも、うんうん、と口を曲げて頷いていた
「でも最近は、あの人も変わろうとしているんだよ。それはきっと、リュミちゃんのためなんだろうね」
その言葉を聞いて、リュミエルはいっそう顔を顰める
そんなことはわかりきっている
問題は、彼が忙しいのは理解しているはずなのに、それを受け入れられない気持ちに、リュミエル自身が嫌になるのだ
今朝のように、彼に触れれば触れるほど、別れが惜しくなって苦しくなる
今までこんな気持ちになったことなどなかった
リュミエルは名前も知らぬ感情にどうすればよいかわからない
彼に会ってしまったら、また苦しい思いをしなければならないのかと、不安に思ってしまうのだ
リュミエルの反応を見て、欲しい言葉ではなかったとわかると、グリフは慌ててだから、やっぱり、なんて繰り返す
そんな情けない姿を見せられて、リュミエルは意地を張る気も失せてしまった
仕方なくシーツから這い出ると、それだけで喜ぶグリフたちをあしらいつつ、なんだかんだネルガルの元へ向かうのだった
獣の姿になったグリフの背に乗って、リュミエルは風を感じる
もう慣れてしまった景色を横目に、ひたすら目的地に目を凝らす
今まで毎日会っていたはずのネルガルとは、もう1週間も顔を見ていないのだ
会ったらすぐに文句を言ってやる
リュミエルはそう決めていた
だが王城につくなり出迎えたのはネルガルではなかった
グリフの背から降り、獣から人型に戻るるやいなや、城内からスタスタと歩いてくる人物が見えた
片眼鏡に2本の枝角
彼はたしか、マモンと言ったはずだ
「遅刻です」
「え…申し訳ございません」
片眼鏡を指先でクッと上げながら言われ、グリフは腑に落ちない返事をする
反応から見るに、グリフは待ち合わせていたつもりはなかったようだが
「我らも時間は限られていますので。できるだけ急いでくれると」
マモンはそこまで言って、チラリとリュミエルの方を見やる
グリフの背に隠れるようにしがみつくそれを、マモンはただ無表情に見つめた
まるで像のように動かない表情は、リュミエルを不安にさせる
だがマモンはすぐにリュミエルから目を逸らした
「行きますよ」
「は、はい、行こうか、リュミちゃん」
それ以上咎めることはせず、くるりと踵を返すと、リュミエルたちを気にせずにスタスタと歩いて行く
慌ててグリフはリュミエルの手を取って後に続く
自分のせいでグリフが怒られてしまったと少し申し訳なく思って、その手をギュッと握る
それだけでへにょりと顔を崩すグリフに安心した
ついこの間まで瓦礫だらけだった城は、だんだんと修復されており、おかげでガタガタの地面を歩く必要はなくなった
グリフに連れられ光の庭園につくのだが、いまだにネルガルの姿は見えない
キョロキョロと辺りを探していると、マモンはグリフに言い放つ
「天使はここに置いて、あなたは私と来なさい」
「え、で、ですが、一人にするわけには…」
突然そんな事を言われたグリフは慌てて否定するが、マモンは呆れたようにため息を吐く
「この天使が印付きなのは皆承知です。よほどの阿呆でない限り、手を出そうなどと考えないですよ」
「そう、ですが…」
そう言われたグリフはたじろぐがやはり心配そうにリュミエルを見やる
魔界にとって天使は異質な存在ゆえに目につきやすい
いくらネルガルの後ろ盾があろうと、一人にするにはリュミエルは非力すぎるのだ
リュミエルとマモンを交互に見て悩むグリフに、待ちきれなくなったマモンからじわりと圧を感じて、リュミエルは慌ててグリフに目配せる
マモンを怒らせてはまずい。
自分はいいから、早く行けと。
そう意味を込めてグリフと繋がっていた手をそっと離した
グリフも意図を汲み取ったようで、いまだ不安そうにしていたが、ようやっとリュミエルを置いていく判断を取ったようだ
「すぐに迎えに来るから。絶対に、光の中から出ちゃダメだよ」
まるで懇願するように口酸っぱく言いつけると、グリフはマモンとともに光の庭園を後にした
円形に差し込む光の中に、リュミエルはぽつんと1人佇んだ
以前はここらを囲むようにガラスのドームが貼っていたが、今やそんなものはない
それでも光さえあれば、通常は悪魔は寄ってこない
悪魔は天の光が弱点だからだ
リュミエルは側に植えられた小さな苗木の横に座り込む
一度は植物が全て枯れ果て、なくなってしまったが、誰かがリュミエルのために、新たにりんごの苗を植えてくれたそうだ
この苗が、前に見た木ほど立派になるには、とても時間がかかるだろう
それでも、リュミエルは嬉しく思う
命とは、悲劇に屈せず、争い抜いてこそ美しい
その都度、命に価値が生まれ、尊き存在となるのだ
天使のように、ミカエルのように、命を軽々しく扱うことは、リュミエルには理解ができなかった
これほど健気で、価値のあるものを、惜しげもなく潰すような行為は許されるべきではない
リュミエルは今までの天の有様を思い出し、苦々しく唇を噛み締めると、優しく苗の葉をなぞる
大きく自由に、育ちますように。
「気に入ったか?」
「…!」
聞き覚えのある声が聞こえた
リュミエルは声の方向に目を向ける
声の主は、リュミエルがいる光の中へ足を踏み入れる
光を恐る必要のない彼は、一歩一歩確実に、リュミエルの元に真っ直ぐ進んでいく
リュミエルはスッと立ち上がる
ゆっくり近づいてくる彼に駆け寄ることはしない
ただ、彼がリュミエルの元に来るのを待っていた
「リュミお前…少し背が伸びたか?」
「………」
彼がリュミエルの前で立ち止まると、徐にそんなことを言い出し、頭を優しく撫でる
そんな彼の手に、リュミエルはうっとりと目を細め…ることはなかった
バチンッ
「い"っ…たくはないが、は、なに」
「………」
リュミエルに頬を思いっきり叩かれ、ネルガルは呆ける
リュミエルの細い腕から繰り出す攻撃など、ネルガルにとっては撫でられた程度のものだろうが、それでもリュミエルに叩かれたという衝撃で、ネルガルは困惑した
リュミエルは、怒っている
そう、怒っているのだ
これでもかと冷たい目つきでネルガルを睨みつける
1週間もほったらかしたあげく、今朝もリュミエルを置き去りにした
たった1週間だが、されど1週間だ
2人の間に溝が開くには、充分な時間だ
「な、なんだ?拗ねてるのか?仕方ないだろ。俺も忙しかったんだ」
『うそつき』
「嘘なわけないだろ。俺が何のために忙しくしているわかってるのか?全部お前のためなんだぞ」
リュミエルは手帳に殴り書いたような文字でネルガルを貶すが、ネルガルは困ったように弁明する
だがリュミエルは聞く耳を持たず、相変わらずネルガルを睨むだけだった
「下手くそだな。こういう時はとにかく謝ればいいのだよ」
「ルシファー…」
しばらく2人で口論していると、呆れた様子でルシファーがやってくる
以前見た時とは違い、負傷は見られない
どうやら全快したようだ
そんなルシファーの言葉にネルガルは納得いかないようで、もごもごと口をごまつかせて言う
「謝る必要あるのか?だって俺は悪いことなんてしてないぞ」
「どちらが悪いかなど関係ない。どちらかが折れなくては、ずっとこのままだぞ?」
その言葉は、ネルガルだけでなく、リュミエルにも向けられた言葉だった
当然リュミエルもそんなことはわかっている
ネルガルはリュミエルを避けていたわけでもなければ、捨てたわけでもない
彼は本当に、リュミエルのために頑張ってくれているのだろう
それでも、リュミエルはむしゃくしゃとしてしまうのだ
目の前のネルガルを見ると、どうしてもその感情を抑えきれない
誰も何も、悪くないとわかっているのに
「はあ…ごめんなリュミエル。俺が悪かったから、もうそんな怒んなって」
「…ん」
仕方なく、といった風に謝るネルガルに余計腹を立てるが、同時に虚しさまで感じてくる
今、彼はリュミエルを面倒だと思っただろうか
くだらないことにいちいち腹を立て、無理に謝罪を強要するリュミエルは、理不尽この上ない
今更ながらに自分の立場を理解して、スッと感情が引いていく
リュミエルは項垂れると、弱弱しくネルガルの謝罪に頷いた
「おいおい今度はどうしたんだ?」
先程まで射抜くほど睨んでいたリュミエルが突然、気を落とす素振りを見せて、ネルガルは困ったように笑った
そんなネルガルの顔を、リュミエルは恐る恐る見上げる
怒ってはいないのだろうか
それだけが心配だった
「お前のわがままくらい、どうってことないさ」
まるで心の中を見え透いたようなことを言われ、リュミエルは驚く
やはり彼にはお見通しなのだろうな、と考えながら、ネルガルに向かって両の手を伸ばす
ハグを求められているとわかると、ネルガルは気兼ねなくリュミエルを抱き上げると、額に触れるだけのキスをする
先ほどまで歪みあっていたとは思えないほどスムーズに行われたそれに、ルシファーは冷めた目で見ていた
「若いな。おぬしら」
「んだよ、見てんじゃねぇよ」
しばらくはそうして、3人で雑談をしていた
光を浴びたリュミエルの体は、疲れが嘘のようになくなり、気分も良くなる
日がぽかぽかと体を温め、ネルガルの大きな手が頭を撫でる
あまりの気持ちよさに目を細めた
そのうち、ネルガルたちの雑談を背景に、リュミエルがうとうとし始めた時、真剣な声音でルシファーは言った
「して、ネルガルよ。あの話、リュミエルにはまだ言ってないのだろう?」
「…話す必要はない。こいつは何も知らなくていいんだ」
急に雰囲気が変わり、リュミエルは閉じかけていた目を開く
ネルガルを見上げたが、その表情は逆光で見えにくい
だが、いい表情ではないことはなんとなくわかった
「さあもういいだろ、俺たちは帰るぞ。行こう、リュミエル」
リュミエルがなんの話なのか聞こうとした時、ネルガルはリュミエルを抱いたまま立ち上がりそう言った
たしかに光は充分に浴びて、体も回復したので、これ以上ここにいる必要はない
先の話は後で聞くことにして、リュミエルも頷く
そこにちょうど、マモンとともにグリフも戻ってきた
「もう帰るんですか」
「ああ」
「話はまだ終わってません。他の方もあなたを待っていますよ」
「あの事に関しては俺は反対だ。奴らにもそう言っておけ」
切り捨てるようにネルガルはマモンに言うが、マモンはまた人形のような表情のまま腕を組んだ
構わずネルガルはグリフを呼ぶ
呼ばれたグリフは慌てて駆け寄り獣の姿になろうとするが、その度にマモンをチラチラと見て様子を窺っている
この様子だとどうやら、マモンに何か吹き込まれたらしい
マモンは腕を組み続けたまま、睨みつける
視線の先にいるのはネルガルではなく、その腕に抱かれたリュミエルに対してだった
「いつまで甘やかすつもりですか」
「…なんだと?」
獣姿になったグリフに跨り、直ぐにでも飛び出そうとするネルガルに、マモンは呆れたように呟いた
その呟きを聞き逃さなかったネルガルは、マモンに睨みを効かすが、マモンは相変わらず無表情に続ける
「天使の事です。いくらなんでも甘やかしすぎですよ」
「だからなんだ。お前に関係あることか?」
「わかりませんか?時間がないんです。呑気に日向遊びしている暇なんて無いんですよ」
「小物風情がよくもそんな口を聞けるな」
「もうよせ2人とも。こんなところで事を荒げるでない」
いつものネルガルなら何を言われても軽く受け流すのが通常だが、今はらしくなくマモンに噛み付くように反論し、しまいには依然態度を崩さないマモンに向かって牙を向く
今にも飛び掛かろうとするネルガルを止めるべく、2人の間にルシファーが入る
リュミエルもネルガルに落ち着くように、彼の衣服を軽く引っ張った
それでもネルガルは中々引かない
理由はリュミエルを出汁に小言を言われたことに腹を立てているのと同時に、ネルガル自身も図星だとわかっているからだろう
時間がない、忙しい
最近は皆口を揃えてそう言っている
時間が無いとはどのくらいなのかわかりもしないのに、焦りだけがネルガルを急かしていく
ネルガルも無意識にどこか不安を感じていたが、本人はそれに気付けず、他人からは目前のことから逃げているように見えてしまっていた
「今更、何を怯えているんですか」
「俺が怯えるだと…?」
ルシファーを横目にマモンはそんなことを言った
まるで全てを見透かすように、そして不満そうに眉を顰めながら言った言葉に、ネルガルはピタリと動きを止める
彼の瞳孔は鋭く、まるで射抜くほどの圧が滲み出た
マモンはそれでも態度を崩さない
両者とも譲る気はない
リュミエルには2人の間にばちばちと火花が散っている錯覚まで見えるほどだった
「あらなあに?揉め事ですの?」
張り詰めた静寂を切ったのは、楽しそうに弾んだ声だった
リュミエルはふとその声の主に目をやる
そこには数人の悪魔を侍らせ、優雅に歩いてくる女性の姿があった
彼女も、前回の会議に出席していたのでちらりと見てはいるが、さっきりとは誰なのかわかっていない
だが、消去法で嫉妬の悪魔、レヴィアタンだろうと、リュミエルは推測した
背は低く、他の悪魔とは打って変わり、どこか可愛らしい印象の彼女の頭には小さな角が二つ、そして翼も小さく、尾骨あたりから黒く艶やかな尻尾が揺れていた
「内緒で楽しもうなんて、ずるいですのよ。わたくしもまぁぜて」
「あっち行ってろブス」
「まあ!酷い方!わたくしが迎えに来てあげたというのに跪きもしないなんて」
ネルガルはレヴィアタンを見るなりあからさまに怪訝そうな顔をすると、吐き捨てるように言い放った
レヴィアタンはそんなネルガルの態度に怒った風な反応を見せるが、その表情はどこか楽しげで、体をゆらゆらと揺らしていた
そんな彼女を見て、ネルガルと同様、他の悪魔たちも微妙な顔をしていた
そのおかげでピリついた空気は薄れたが、代わりに皆がぎこちない雰囲気を醸し出す
「それにしてもぉ、ネルガル様帰っちゃいますの?えーん、レヴィかなしーい」
「…行こう、リュミエル」
何を言っても聞かないことは、今までの経験からわかっているのだろう
ネルガルは顔を歪め、マモンに突っかかる気も失せたのか、そそくさと獣姿のグリフに飛び乗った
「…とにかく、俺はあの話には乗らないからな。爺さんからも言っといてくれ」
「なぜ私が…」
ネルガルは投げ出すようにルシファーに言い放つと、リュミエルを強くだき、あっという間に飛び立った
残された数人はしばらく、瞬く間に消えていく獣の背中を眺めていたが、その姿はあっという間に見えなくなった
「いいなぁ、おいしそう。レヴィも天使欲しい!」
「…くれぐれも手を出すなよ。ネルガルが何しでかすかわからんからな」
レヴィアタンがねだるように呟くと、危機を感じたルシファーが軽く制する
この前に戦争が起きたばかりで、ルシファーは散々な目にあったのだ
昔からネルガルが問題を起こせば、尻拭いをするのはルシファーの役目だった
そうなると、またあのようなことが起きれば、さすがにルシファーの体も持たないだろう
くれぐれも彼女がネルガルを怒らせないよう、目を見張るしかないと決めたルシファーだった
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