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第1話
1.隣の家のお兄ちゃん
数兄(かずにい)にまた彼女ができたらしい。これでもう4人目だ。
隣の家の門に入ってくる数兄と彼女を部屋の窓から見下ろす。こんな光景はもう見慣れているが、毎度なかなかに面白くない。
数兄は身長が182cmあり、頭ひとつぶんは差があるから彼女は160cmに少し届かないくらいだろうか。
肩のあたりまでの長さの真っ直ぐでサラサラな髪の毛は漆黒で艶があって、夏ももう終わりだというのにまだ強く照りつける9月の太陽の光をきらきらと反射している。瞳はぱっちりと大きく、メイクはほとんどしてないみたいで、どこからどう見ても〈清純〉を絵に描いたみたいだ。
ふーん、またああいうタイプか。数兄も懲りないねえ。
一学年上の数兄こと倖田数生(こうだかずき)に小6のころ初めて出来た彼女は、アキちゃんという子だった。テニススクールで数兄と一緒だったアキちゃんは長いツヤツヤの髪の毛をいつもひとつに結んでいて、普段は伏し目がちで大人しそうな子だったがテニスは上手だった。数兄のことが好きだとスクールの女友達に言ったら、けしかけられて告白してきたらしい。
ちょうどその頃、俺たちの小学校では彼女や彼氏を作ることが流行っていて、波に乗りたかったらしき数兄は二つ返事でOKした。まあアキちゃん、可愛かったしね。俺はそのときも部屋の窓から数兄がアキちゃんと動物園に出かけるところを見ていた。
俺はもうその時期には自分が数兄を好きなことに気づいていた。なにしろ、低学年の頃までは何の気なしに一緒にスーパー銭湯に行ったり区民プールに行ったりしていたのに、一緒に行くとドキドキしてしまって数兄とは行けなくなった。他の友達とは平気で行けたんだけどな。数兄だけはダメだった。
友達の家にあるえっちな漫画をこっそり見ると、必ずそれは主人公の男子が女子の身体に触ったりあれこれ想像したりしてドキドキムラムラしたりするものだった。友達は鼻息を荒くしてそれを読んでいたが俺には全くピンと来なくて、だけど『もし裸の数兄に触ったら?』と思うとなんだがお腹の辺りがモゾモゾする気分になって、俺は子供ながらに自分が数兄にどうやら特別な感情を抱いていることを自覚したのだった。
なんで数兄のことを好きになってしまったのかは謎だ。俺が最初っからゲイだったのかもよく分からない。なにしろ数兄しか好きになったことがないんだから。
俺、成瀬千早(なるせちはや)は、小学校に上がる直前に数兄の家の隣に引っ越してきた。お隣りに挨拶に行ったら、そこに数兄がいた。そのときからもう俺より背がかなり高くて大きくて、やんちゃそうなくりくりした瞳で黙ってこちらをじっと見ていたので最初、俺は怯んだ。でもそのすぐあとに人懐こい顔になって『おれの部屋来るか?ゲームやろうよ』とニカっと笑ったので、俺はすぐに数兄のことが気に入った。
数兄は引越してきたばかりで友達のいない俺によく構ってくれた。数兄も一人っ子だったから一緒に悪いことができる弟みたいな存在ができて嬉しかったのかもしれない。
入学前に俺が買ってもらったランドセルは自分で選んだスカイブルーのものだった。最近なら好きな色のランドセルを選ぶことなんて普通の事のはずなんだけど、何年か前までその地域の男子はみんな黒いランドセルを背負っていた。
たったそれだけのことで俺は小学校に上がった瞬間、ハブられた。「なんでお前だけ、水色のランドセルなの?ウゼー」などと下らない言いがかりをされ、一部の同級生たちにランドセルを蹴られたり、下駄箱に行くと靴が床にぶん投げられたりしていた。
二月生まれの俺はその頃まだ背が低くって「チビだ」とバカにされて反撃もできず、入学して何週間かの間とぼとぼと下を向いて一人で帰った。新品のランドセルには黄色いビニールのカバーがしてあったが、カバーの下は既に凹んで傷ついていて、家に帰ると親に気づかれないようにランドセルをすぐに部屋に隠した。
小2の数兄とは入学当初はまだ下校時間が違ったのでなかなか一緒にならなかったのだけど、たまたま同じ時間に授業が終わった帰り道、ランドセルをバンバンと殴られたり蹴られたりしている俺に数兄が気付いて、猛然とそいつらに飛びかかっていった。
「こいつは俺の子分なんだよ!くだらねーことすんじゃねー!!」
身体が大きい数兄は俺を囲んだいじめっ子たちの間に走ってきて割って入り、リーダー格のやつを引っ捕まえて馬乗りになって頬を強くつねった。
「うわーん」とリーダー格は泣き、呼ばれた教師が飛んできてちょっとした騒ぎになった。
その後の親を交えての話し合いで、数兄は相手の親や教師に責められたが凛としていた。
「だってそいつらが悪いんだ。千早のランドセル、ちゃんと見てみてよ。ボロボロだよ、こないだ入学したばっかなのに」
そう言われた親や教師は俺のランドセルがベコベコに凹んでるのを見て顔を見合わせた。
それで喧嘩両成敗、みたいな流れになり俺たちは解放されたのだった。
「かずきくん、あんがと」
俺はお礼を言った。庇ってもらったのは恥ずかしかったけど、嬉しかった。
「あいつら、バカばっかだな。おまえも大変だったなあ。今度から俺のこと…そうだな、兄ちゃんだってみんなに言っていいよ。そしたらヘンなことしてこなくなるよ、きっと」
数兄はそのときものすごく大人に見えた。それでいつしか俺はいつも数兄の後を追い、暇さえあれば部屋に入り浸った。それくらいの年の小学生にとって一学年の差は大きく、他の上級生たちはあまり年下を相手にしていなかったが、数兄は〈兄〉としての自覚が芽生えたのか、俺を決して邪険に扱わずどこにでも連れ歩いた。
すっかり懐いていた俺はよくゲームをやる数兄の肩によりかかって背後からテレビの画面を眺めた。「重めーよ、千早」そう言うけど、数兄は俺を追い払ったりしなかった。
数兄の襟足からはいつも小麦粉のようなパンのようないい匂いがした。俺はその匂いを嗅ぐと安心して、よく数兄の部屋のベッドの上で眠り込んだりしていた。
数兄は〈いい兄貴〉であるはずだった。俺が一方的に意識し始めるまでは。
数兄は高学年になって急に風呂やプールの誘いを断り始めた俺を訝っていたが、あるとき「お前が裸になるのが嫌な理由が分かったよ」と訳知り顔で肩を叩かれた。
「俺も最近生えて来たんだ」と言う。どうも、俺が下の毛が生えて来たことを気にしていると思われたようだった。それならそれで都合が良かったので俺は誤解をそのまま放っておいた。本当のことなんて言えやしないのだから。
俺だっておかしいとは自分で思ってたんだ。なにしろ、クラスの男子が可愛いという女優にもアイドルにも学校イチの美少女の佐々木かりんにも、誰にも興味を持てなかった。どちらかというと数兄に雰囲気が少し似てる男性アイドルが気になっていた。そんなことは誰にも言えなかったけど。
そして数兄が初めての彼女を作って焦った俺は自分も彼女を作った。矛盾してる行動なんだけど、謎だってモテるんだという謎のアピールをする気持ちと『俺が彼女を作ったりしたら数兄はどう思うんだろう?』という試し行為みたいなものだったのだと思う。
俺は小4くらいで急に背が伸び始めてから女の子にモテだした。運動もそこそこ出来たし(小学生にとっては「足が速い」とか「ドッヂボールが上手い」というだけで充分かっこいい要素なのだ)、勉強も苦手じゃなかった。
それに近所のおばさんたちには『千早くん、ハニーズ事務所に入れるんじゃない?おばさん代わりに写真送っておこうか?』などと、よくもてはやされた。うちの親もまんざらではなさそうだったけれど、俺には女の子にキャーキャー言われることに興味はなかった。
そんなだから小5の頃、松宮みなみに告白されて付き合ってくれと言われたときも、それが女の子からの始めての告白じゃなくてーーーたぶん7度目くらいだったのだけどーーー最初は断るつもりだったが、数兄に彼女ができたことを思い出した俺は「いいよ」と応えた。
俺がさんざん告白を断ってきたのを知っていた松宮は驚いていたが、正直その時告ってきた子ならきっと誰とでも付き合っていた。強いて言えば松宮は割と可愛かったから『数兄へ見せびらかして自慢できるな』とは思っていた。
(数兄はどう思うだろう?)松宮には悪いが、動機は本当にそれだけだった。
数兄がテニススクールに出掛けるために毎週水曜の夕方の同じ時刻に家を出るのを知っていた俺は、わざとその時間に松宮みなみを自分の家に呼びつけた。
松宮みなみがインターフォンを鳴らし、俺が玄関から出て「あー、来てくれてあんがとな…」とか松宮にもごもご言っているところに、ちょうど数兄が隣家から出て来た。
俺と松宮を見て一瞬目を丸くした数兄はすぐニヤニヤ笑いになって言った。「千早の彼女?」
「…うん、そう」
俺が言うと、驚いた顔をする。
「え?ほんとに?!」
「ほんとだけど」
「へー、千早って女に興味ないのかと思ってた」
そう言われて俺はギクリとした。
「は?んなわけねーし」
「だって、お前、アイドルの話とか全然乗ってこないからさあ。てっきりそーいうの、まだピンとこないお子様なのかと思ってたよ」
「お子様じゃねーし…」
「そっかそっかー、えと、お前なんていうの?」
数兄は松宮に向かって気さくに声をかけた。
「松宮、みなみです」
「松宮ねー。うちの千早のこと、よろしくな!」
「はい」
松宮がはにかんで答えると、数兄は「あ、そろそろ行かねーと。じゃな、また話聞かせろよ、千早!」と笑い、ラケットバッグを肩に掛けて走り去って行った。
「千早くん、あの人、年上?」と松宮が聞くので「うん…隣んちの、一個上の人」と俺は答えたが、正直思っていたより心は重かった。もっと言えば、がっかりしていた。
「なんか仲、良さそうだねえ。『うちの』って本当のお兄ちゃんみたい」松宮はそう言って笑ったが、そのあと自分の部屋に松宮を招き入れてどういう話をしたかは覚えていない。たぶん数兄の反応にムクれてむっつりしていたのだと思う。松宮にとっては呼び出されたあげく塩対応されて訳が分からなかっただろう。
逆に俺はどんな反応を期待していたんだろ。数兄が俺に彼女がいることを知ったって、どうって思うことないに決まってるのに。
数兄に彼女ができてからしばらくして俺は聞いてみた。
「数兄、アキちゃんと、キスとかした?」
なにげない風を装っていたけど心臓はバクバク言っていた。
「…なっ…!ばーか、するわけないだろ」
「え?そうなの?」
周りの付き合ってるカップルたちは小学生とはいえ軽いキスをしている奴らも多かった。
「千早は、したのかよ?」
数兄は誤魔化すように赤くなって尋ねてきた。
「…した」
俺は嘘を吐いた。少しでも数兄を動揺させたかったのだ。
「えー!!嘘だろ?お前、まだ5年じゃん」
「してる子たちもいるよ」
「えー、でもさあ…」
と言いつつ、数兄は興味津々といった感じで「で、どーだった?どーだった?」と聞いてきた。
「え、フツー…」
「フツーってなんだよ」
「ちょっとだけしただけだし」
「え、ちょっとだけってどういうことだよ?」
「ちょっと、くちびるが触っただけ」
「ん?ふーん…?」
数兄は納得しないようだったが、俺はいかにも『経験者』といった風情を醸し出して平静を装った。しかし、心の中では(やべえ)と思っていた。
だから、既成事実を作るために翌日松宮と一緒に帰った帰り道、人気のない公園に寄っていきなり迫ってみた。
「松宮、目ぇ閉じて」
「え、何、急に」
「いいから」
「なあに、千早くん…」
松宮は戸惑った顔をしつつもおとなしく目を閉じた。俺は辺りをキョロキョロと確認すると、ちゅっ、と松宮の唇に軽く唇を合わせた。
「もー、千早くんてば、なに、急に…」
松宮は真っ赤になってもじもじしていたが、俺は心の中でガッツポーズをキメた。
よし!数兄より先にキスしたぞ!
まったく、数兄に経験で勝つことになんの得があるのか今でもよく分からないのだけど、俺は達成感を感じていた。小学生だったのでさすがにそれ以上のことはできなかったけど。
数兄は小学校を卒業して単に映画を観たり水族館に行ったりする清い付き合いをしていたアキちゃんと別れ、俺はホッとして松宮に別れを告げた。
ただただ一方的に俺に呼び出されたりキスされたり数兄が観るより先にヒット映画を一緒に観に行かされたりしていた松宮はそのとき呆然としていて、悪いことをしたなと今では思うが、そのときの俺には松宮に対する申し訳ない気持ちなんて当然なかった。
俺が数兄と同じ中学にあがると、しばらくは相変わらずお隣さんとして部屋に遊びに行ったりと平和に暮らしていたのに、中2の秋ごろに再び数兄は彼女を作った。またもや告白されたのだと言う。その子はまたまた黒髪つやつやの大人しめなタイプだった。
数兄はテニス部に入っていて身長は中学に入ってからぐんぐん伸び、その頃には175cmを超えて体格も割とがっしりしていたし、いかにもイケメンて感じではないけど一重の切れ長の目元を細め、優しげな笑顔をいつも浮かべていた。外見もそうだし、女子が嫌がるようなガサツなことを言わないところも好感度が高かった。声変わりをしたら低くてよく通って、なかなかのイケボなことも女子の心をくすぐったのだろう。
数兄はたびたび告白されていてタイプじゃないと断っていたらしいのだが、今度の黒髪ツヤツヤのその子はやはり好みだったらしい。
「数兄ってさ、清純派っぽい子が好きなの?」
俺はあるとき尋ねてみた。
「そうでもないけど。なんで?」
「だって、小6のときのアキちゃんもそうだったし、今回のナツミちゃん?も髪の毛真っ黒で大人しめじゃん」
「そういえばそうかも。不思議だなー、芸能人だともっと〈元気!!〉って感じの子が好きなんだけどな」
「…どこがいいの、アキちゃんとかナツミちゃんの」
「んー?…顔?」
身も蓋もない答えが返って来て俺は「はー」とため息を吐いた。顔?顔かあ。顔だけはどうにもなんねえなあ。俺、男だし、女みたいにはなれねーし。
だが、俺はまたも焦った。数兄はもう中2だ。気をつけないと、キスだとかそれ以上のことをするかもしれない。早いやつは中1でも童貞をもう捨てたとかいう話も聞こえてきていた。
童貞を捨てる??
当然、このネット社会においてそれがどういうことか俺が知らないわけはなかった。
でも、そうだ。数兄は女に興味があるんだ。当然、そういうことを期待していないわけがない。
中学に上がってから数兄の部屋に『ゲームさせて』と本当は大して興味もないのにそれを口実に遊びに行ったときに、数兄が俺に聞いてきたことがあった。
「なあ、千早ってAVとかアダルト動画みたいなの、見たことあるか?」
「エーブイ?」
「アダルトビデオってやつ。父さんたちの世代はビデオ?でえっちなやつ見てたんだって」
「や、それはなんとなく知ってるけど…。えっちな動画、数兄は観るの?」
「こないだ、真辺んちで観たんだよー。父ちゃんがパソコンにダウンロードしてたやつ見つけたとか言ってさ。凄かったんだよ!あそことか、後ろの穴とかも丸見えでさー。無修正って言うらしいんだけど、女って、あんな風になってんだなって…!」
数兄は目を輝かせて力説した。
「…数兄は、それ観て、えろい気分になったの?」
俺はゴクリと唾を飲み込んで言った。すると、数兄は俺の様子を興味があるためと思ったようで、
「いやー、そんときは5人くらいで観たからさあ。女の人の声がデカくて笑っちゃって、エロい気持ちに全然ならなかった。千早も観たいか?そうだ、俺んちの父さんも内緒で保存してるかもしれないから探してやろうか?」
と、実の兄が弟を思いやるような顔で聞いてきた。
「…いや、別にいい」
俺はエロい気持ちにならなかった、という言葉にホッとしていたが、一応聞いてみた。
「数兄はさ、今度彼女ができたら、するの?」
「え?するって?」
「せっくす」
「…えっ!おまっ!ばっ…か、こんなとこでそんなこと言うんじゃねー!」
「…いいじゃん、下には聞こえないでしょ」
「ま、そ、そうだけどさー。セックスとか言うんじゃねーよ、エッチって言えよ」
「えー、その言い方、気持ち悪りぃ」
「そんなことねえだろ」
「じゃ、分かった。エッチ、するのか?」
「…分かんねーよ、そんなの…。そりゃ、チャンスがあったら…したいとは思うけど…」
「…したいんだ?」
「男なら、そりゃ、興味あんだろ…。千早だって、もう、あれだよな?してるだろ?」
「せっくす?」
「ち、違げーよ!!オナニーだよ」
「おなにー…したことない」
「ええ?!マジかあ?」
「うん」
「そっかあ。まだ早いかあ、千早には」
「数兄はしてんの?」
「う…そりゃ、モヤモヤしたりすることだって、あるから…」
「もやもやするんだ?」
「千早にはまだわかんねーよなあ」
数兄がまたいかにも兄が幼い弟を見るような顔で眉尻を下げて笑うので、俺はイラついて言った。
「分かるよっ!」
「だってー、まだ子どもだろお」
「子供じゃねー!!」
カッとした俺は数兄にゲームのコントローラーを投げつけて部屋を出た。
「てっ!くそ、なんだよ、千早ー!」
数兄が怒った声で部屋から顔を出したが、俺は振り向かずに階段を駆け降りた。
くっそ、数兄め。今に見てろ。
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